久しぶりのブログの更新がこんなタイトルになってしまいました。
咽頭がんが気管から肺、胃へと転移していて、すでに手術は不可能。ステージⅣの末期がんであると診断されたのです。
このような余命宣告を受けるまでのいきさつとこれからは、ブログを続ける気力と体力があれば、おいおいと。
今日二十七日は非常に暖か。それどころか、明日、我が地方の予想最高気温は18度。連れて、油温を変えていなかった湯沸かし器のお湯が熱いと感じるようになりました。
以降、当分寒くなることはないだろうという予想なので、ちょっと早いかもしれないが、庭に降りて花(ききょう、キンレンカ、ひなげし、紅花などなど)の種を播く準備を始めました。
一息ついたあと、¥100ショップへ行って、こんなのを買ってきました。
種を播いたあとのプランターに置くつもりの、ワンとニャンのガーデニング・オーナメントです。鳥害、鼠害から種を守ってもらおうというおまじないです。
買い物途中にある家では、河津桜が満開近くを迎えていました。
近くの公園では若者たちでがドッジボールに興じておりました。
後期高齢者の仲間入りを果たしたからでしょうか、年年歳歳、春が近づくのがありがたいと思えるようになってきました。
あるものを秋から押入に入れたまま、なかば忘れていたら、こんなふうになっていました。
彼岸花の球根です。今年の六月はじめに購入しながら、自分でもなぜだったろうと思うのですが、タイムリミットであろうと思われる盛夏を過ぎても、押入に放り込んだままでした。
購入から半年経ってやっと腰を上げ、こうしてカメラに収めたあと、土を掘り返して、来年秋を待つことにしました。
連日雲一つない快晴です。雨のない日は年が明けてもつづくらしい。
給料日は過ぎたのに、銀行のATMは道路にはみ出すまでの行列でした。私は家賃の振込で最後尾の人となりました。
けやき通りのケヤキ(欅)も、近くの公園の樹々も、葉っぱをすっかり落としています。
先日、薬師詣でをした日は火事に遭って丸一年という、私にはある意味で感慨の深い日でもありました。
この火事とその後日談には、森田童子の詩ではありませんが、いろんなことが「ありました」であります。
火事に遭遇した直後は、自分では割合落ち著いていたと思うのですが、やはりそれなりに動転していたのか、一年経ってみて、改めて気づいたこともあるので、ブログに残しておこうと思います。
私のイメージでは、消防車のサイレンの音はしょっちゅう聞いている、という思いがありますが、松戸市消防局の「消防年報」によると、「しか」という表現を使うのが正しいのかどうか、昨年度の松戸市内の火災件数は115件「しか」ありませんでした。火災が起きたのは三日に1件の割、ということになります。この中に私が遭遇した火事が含まれていることはいうまでもありません。
年間115件という数が多いかどうか、私にはなんともいえませんが、今年になって、私の知人で警察官であった人と話をしていたとき、火事沙汰には何度か遭遇しているが、「知人」(私のことです)に火事の罹災者が出たのは初めてだ、というのを聞いて、ふむふむ、火事と喧嘩沙汰はしょっちゅうだと思っていたが、やはり稀有なことに近いのだと思い直しました。
また火事の直後、損害保険の私の担当者だった人が「三十年業務に携わってきたが、火事の書類をつくるのは初めてだ」といったのを思い出しました。
燃えたアパートを管理していた不動産会社の担当者も多分初めての経験だったのでしょう。「多分」というのは、私が訊ねてはいないから推測なのですが、なぜ初めてだろうとといえるのは、火事が出たときの手続きを知らなかったからです。
この手続きについては、私が火事で得た教訓の一つなので、あとで述べます。
多くの人と付き合いのある人たちが押し並べて「初めて」というのを聞いて、人口減少といっても、それだけ人は多いのだなと妙な感心をしたりしました。
火事当日のことです。
その九日前 ― 文化の日でした ― その日から持病が発症していて、前日の八日まで私は身体の自由が効かず、ほぼ寝たきりでしたから、病院にも行けない状態でした。
この持病は五年前から発症するようになっていて、軽い症状はしょっちゅうくるのですが、とても起きてはいられない、という重篤な状態になるのは、決まったように毎年一度。最初のころは過ぎ去ればケロッとしましたが、年を経るごとに病む日数が多くなりました。
その重篤な状態が文化の日に出て、九日後の火事当日の朝になって、ようやく起き上がれるようになったので、クリニックに行くつもりで電話を入れました。
そういう病み上がりの状態で、まだぼんやりとしていたとき、すでに火が出て、消防車による消火活動も始まっていたのです。頭がボーッとしていたので、意識に隙間がなかったとは断言できませんが、尠なくともドアをドンッ!と鳴らす音は一回きりでした。何かの配達で、こちらがすぐ応答できなくても、ノック一回きりということはないと思います。
もし私の持病の発症が一日遅かったら、火事が出たとき、私はまだ眠っていたかもしれません。一回のドンッ!では何も気づかず、先日の村田兆治さんのように、一酸化炭素中毒で死んでいたのかもしれないと思います。
あるいは、幸いにして私の耳はまだ不自由ではありませんが、火事のあったアパート八世帯のうち、住人がいたのは六世帯。その中で、若いといえるのは火元になった青年のみ。残り五世帯に棲んでいた六人は私を含めて老人ばかりでした。
中に耳の不自由な人はいませんでしたが、いても不思議ではありません。少し遅れた私を除いて、全員が火事の臭いに気づいたり、煙に気づいたりして、皆自主的に避難できましたが、臭いには気づかず、耳が不自由であったりしたら、一回のドンッ!では気づかないはずです。
そういう人はいないはずなので、一度ノックして出てこなければ留守にしているのだろう、と消防が知っていたはずはありません。先に避難していた人から、どこにどんな人が何人棲んでいて、どこは空き家であると聞いたのかどうか。
人が棲んでいるはずなのに、避難したのを確認できていない、というときは、たった一度のドンッで済まさず、ドアか窓を打ち破らなければいけないのではないか。消防というのは火を消したり、延焼を防ぐことが仕事で、人の命を救うことは目的ではないのか。
あとで私は周辺の人に、今回きた消防は素人の集団であったと嘯きましたが、実際にそういうことであったと思います。
旧居の周辺には畑がたくさんありました。いまの時期は野焼きをするところがあります。
燃えるものは違っていても、ものが燃える臭いはほぼ同じです。
最初に臭いに気づいたとき、私は野焼きの臭いだと思いました。しかし、周辺で野焼きをする畑があるといっても、すぐ隣にあるわけではありません。臭いが近過ぎることを変だと感じて、外へ出て、助かることができたのです。
野焼きをする畑があるような土地ですから、径は昔の畑の畦道を改修したような細い径ばかりです。車がすれ違うのは苦労します。まして消防車のような大型車がきたら、人や自転車でもすれ違うこともできない、といっても、決して大袈裟な表現ではありません。
そんなところへ消防車が何台もやってきても、はっきりいって、ものの役には立ちません。消防車は一台で充分、というか、一台しか入ってこられないので、あとは消防団が持っているような手押しのポンプ車でなければ、消火活動は充分にできないのではないか。手押しポンプ車は必要がなく、一台の消防車で充分だと思ったというなら、何台もくることはない。
あとでやってくる消防車はいざ知らず、まず飛んでくる一台は地元の消防署からのはずですから、土地勘はあるはずです。なければならない。
私たちのようにそこに棲んでいるのではなくとも、管轄する土地がどういうところなのか、常日頃から見ていなければならないはずだ、といえば、何台も消防車がやってきたところで、ホースの長さはそこまで届かず、非常に意地悪な言い方をすれば、まるで野次馬のように、寄ってたかって遠巻きに眺めているだけ、という事態にはならなかったのではないか、と思います。
火事に遭わなければ知り得なかったであろう教訓のもう一つは、新居を決めるのに、一週間もかかったのですが、二度候補が決まり掛けながら、二度ともトラブルがあって、時間がかかったのです。そのことは教訓となることではないので省きますが、この時間があとのことに影響を及ぼします。
火事のあと、私は知人二人に助けられながら、水に濡れずに使えそうなものを物色して新居に運びました。しかし、知人二人が持っていたのはともに乗用車です。一回に運べる量には限りがあるし、大きさにも限りがあります。冷蔵庫、洗濯機、箪笥などというデカいものはとても運べません。
そういう大物は無理としても、尠なくとも小物はダンボールに詰めておけばいいじゃないかと考えるかもしれませんが、普通の引っ越しと違って、床が濡れているし、放水の水は天井を伝って少しずつ漏れてくる。雨が降れば雨漏り自在の状態ですから、運ぶものをダンボールに詰めて、置いておくわけにはいきません。
コチョコチョと運ぶしかないのですが、引越し業者を頼む時間的余裕がなかったのは、アパートを管理している不動産会社から急かされたからでもあります。
アパートは修繕すれば再度住めるという状態ではない、ということは素人の私でもわかりました。だから、早く取り壊してしまいたい、と不動産会社が急かす気持ちもわかりました。やっつけ仕事をするような気持ちで荷物を移動させるしかありませんでした。
しかし、あとで損害保険会社から聞かされて識るのですが、残されたものを処分するのには、持ち主である私の同意がなければ、他者が勝手に処分することはできないのだそうです。もちろん、その猶予には限りがあり、いつまでも放ったらかしにしておいてもよい、というわけではない。その猶予が何日であるかは聞きませんでしたが、尠なくとも慌てて処分しなければならない、ということではない。早く処分してくれ、といってきた不動産屋の担当者はそういうことを知らなかったのです。
寝具や一部洋服など、燃えてはいないが、放水で濡れてしまっているものはあと回しにして、とりあえず必要で、使えそうなタオルとかTシャツ、靴下、食器類、洗面用具などを優先し、見繕って運びました。
中には端っこが濡れていたというものがありました。新居に運んだあと、濡れていることに気づいて手洗いし、洗濯機を購入してから、何度も洗いましたが、木酢のような臭いはとれず、雑巾にするか、棄てるしかありませんでした。
急かされて選んでいるので、下になっていて、濡れてもおらず、臭いもついていない、という衣服もあったはずです。しかし、運べずにいる間に雨が降り、濡れて、臭いも染み込んでしまいました。中には買ったとき、二十万円以上もした革のロングコートなどもありました。
不動産屋を恨むわけではありませんが ― 本心はかなり恨んでいます ― 急かされなければ、まる一日かけて、使えるものと使えないものを分別し、引っ越し屋さんに何人かの助っ人を頼んで運ぶ手段も考えられた、と思うのです。
それから一年が経ちました ― 。
脊柱管狭窄症の発症に見舞われて、痛む左脚や臀部を庇うために、眠るときの姿勢は右を下にし、身体を丸くかがめて、まるで胎児が母親のお腹の中にいるような格好でしか眠ることができません。
一つの姿勢しか許されないので、本来痛むところ以外に筋肉痛が出たり、眠っている間に、うっかり違う姿勢をとったり、脚を延ばしたりすると、強烈な痛みに襲われるので、おちおち眠っていることができません。それに加えて小用に立つ必要に迫られたりもするので、夜中に何度も目を覚まします。
痛みは随分楽になって、仰向けでも眠れるようになっても、癖がついてしまったみたいに、痛むわけでもないのに、払暁三時半とか四時には目を覚ましています。
今月五日のブログにも書きましたが、起き上がったのちしばし、五時半ごろになると、けたたましい音と啼き声が聞こえます。近くのケヤキ(欅)の並木をネグラにしている椋鳥がどこかへ向かって仕事に出かける、いわば騒音です。
間近で聞けば75~80デシベル、掃除機の音や走っている電車の音と同じ程度。掃除機や電車はやがて止まるけれども、椋鳥どもの囀りは熄むことがないのですから、これはうるさい。幸い我が庵は椋鳥どものネグラからは200メートルほど離れているので、騒音が聞こえるのは飛び立つときだけで、それもほとんど一瞬です。
その騒音が五日前の十三日、六時になっても聞きませんでした。
コーヒーを飲むために電気湯沸かし器にスイッチを入れるので、たまたまお湯が沸く音で聞こえなかったのか。そう思いましたが、翌十四日も聞かず、十五日も聞かない。
なかば留鳥と化している場合もあるようですが、基本的には渡り鳥ですから、冬がくると南へ渡って行きます。どこへ行くのかわかりませんが、飛んで行ったのでしょう。結果的に十二日を最後に聞かなくなりました。
脚の状態は徐々によくなってきていると思うと同時に、遅々として改善されぬと感じることもあります。寒くなってきたと感じる日があるように、季節が進んでいることを感じるときです。二週間、三週間と経つのに、脚の痛みは一向に改善されぬと思うと、もしかしたらこのまま……と思ってしまうこともあります。
前から服用している降圧剤のおかげて、高かった血圧が、最高血圧は高いときでも130に届かない、というようになったのに、痛みと寒くなってきたのが加わって160を平気で超すようにもなりました。
火事のせいではないのですが、郵便局と公共料金の引き落としに使っている銀行のキャッシュカードの磁気が二つとも同時期にダメになりました。郵便局は通帳があれば出し入れできますが、銀行はそうはいかないので、残高がなくなれば引き落としができず。督促状がきます。電気は年金の振込に使用している銀行口座での引き落としにしていましたから、引き落とし不能とはなりませんでしたが、ガスと水道は別だったので、引き落としの日が近づくと、いちいち入金していました。上水道、下水道は千葉県と松戸市という自治体の運営だったからか、多少遅れても構わない、という感じでしたが、ガスは民営なので、そうはいかないようです。
検針がくるはずなので、その人に集金を、と頼んでも、係が違うので、そういうことは不可能だという。私は払わないといっているのではない。払いに行けないのだ、といっても埒が明かない。ボランティアをしていた団体の職員にきてもらって、代わりにコンビニに行ってもらう、ということで凌ぎました。
火事で避難したとき、財布だけは持って出たので、キャッシュカードはありましたが、通帳は水浸しになって、ページがくっついてしまいました。届出印は水浸しになっても無事だろうと思ったけれども、崩れた天井とそれに押しつぶされた箪笥などの下敷きになっているので捜せません。身分証明書となる健康保険証なども同前です。
再度手続きを踏まなければどうしようもない。ところが、手続きを踏むために出かけることができない。
電動自転車を使えば、多少の距離なら動けるようになったし、いまのうちに、と思ってカードと通帳の再発行の手続きをしようと出かけました。
これまで、金融機関でのほとんどの用はキャッシュカードで済んでしまうので、窓口に行くようなことは滅多にありません。行っても、振替用紙を出したりするような用件ですから、短時間で済んだり、局員や行員と交わす言葉も二言三言で済んでしまいます。
ところが、その他の手続きとなると簡単ではないので、時間がかかります。
郵便局も銀行も待ち人のために背もたれのないロビーベンチや椅子が置いてあります。ロビーベンチ坐ってしまうと、立ち上がるときには「せいの、ヨッコラショ」と、そこそこ大変なのでありますが、支えもなく立ちつづけているのはもっと大変なので、使ったこともない「杖」の購入も考えました。
しかし、いずれ元の健常な身体に戻る、と思うと、無駄な買い物、と考えます。それより買ってしまったら、元に戻れないのではないか、とも考えるので、躊躇してしまって買えません。
窓口の係員(両方とも女性でした)は規則があって移動することができないのか、私が苦労するのを見ても、申し訳無さそうな顔をするだけですが、銀行では補助する形の職員が何人かいて、私と窓口の間をせっせと取り持ってくれました。
それとは別に、クリニックの診察を終えたあとに行く薬局では自動ドアを開けた途端に、薬剤師が飛ぶようにしてきてくれます。調剤が済むと、動かなくてもいいように、私が坐っているところまできてくれます。
脚を引き摺って歩くのも、あながち悪くないナ、という気もしました。
スーパーなどは店内が広く、歩き回らなければならないので行くのはまだ無理ですが、電動自転車のお陰で、コンビニや小規模な店舗なら買い物に行くことができるようになりました。ただ、自転車があれば動くのは自由自在とはいきません。
私の利き脚は左です。痛んでいるのも左です。信号が赤で自転車を停めようとするときは自然に左脚を出してしまいます。すると、ズキンッと強烈な痛みに襲われることがあるので、痛みのない右脚を出そうとしてみたのですが、慣れないのでうまくいきませんでした。
今日、十八日は観音菩薩の縁日です。そのことを思うと、何かに苛立ちを覚えていたり、ちょっとした不満や不安があったりしても、ふっと消えて行くことがあります。これは八日と十二日の薬師如来、十五日の阿弥陀如来のそれぞれ縁日の日も一緒です。何が、どうしてか……と理詰めでは考えが及ばないのですが……。
以前は観音様をお祀りしている東漸寺と慶林寺にお参りをしていました。火事に遭ってしばらくお休みしたあと、近いのは我が宗派であり、有名な黒観音をお祀りする福昌寺になったので、こちらへ行くことにしました。
しかし、脊柱管狭窄症に見舞われて、またしばしのお休み……。
多少なら歩けるようになったのと自転車を購入したので、薬師詣でも観音詣でも再開……と思いますが、福昌寺は直前に天王坂という急坂があります。電動付三段変速付とはいっても、ペダルは漕がなければならぬので、まだ難しい。
どうしようかと思っていたところ、以前よく行っていた流山の観音寺があるではないか、と気づきました。そこで、バッテリーをセットして、電源ボタンを押して、勇躍ペダルを踏みました、
どのような観音様がおわすのか、本堂は覗き見ることができませんでしたが、大香炉には十一面観世音菩薩が祀られていることが示されています。お賽銭をあげて、今日のお勤めは終了。
ツワブキ(石蕗)も咲いていました。
火事で棄ててこざるを得なかった我が旧庵のツワブキはどうななったのだろうかと思いながら、しばし眺めました。
今日十二日で火事罹災からちょうど一年となりました。
身の周りのものはほとんど失ってしまったので、少しずつ買い揃えてきましたが、すべて元どおりとはいきません。家具類とかテレビとかパソコンなどは新しくなって気持ちが良いといえばいいけれども、ひょっとしたらもう手に入らないかもしれないというものがあります。
多くは書籍類で、新品は絶版になったりしていて買えないが、ヤフーオークションなどで手に入りそうなもの、手には入るが、結構高価になってしまっているもの、いろいろ捜してみたけれど、どうやら二度と手には入りそうにはないものなどがあります。
代表的なものは澤木興道全集、現代語訳正法眼蔵、本山版正法眼蔵、中央公論社版江戸切絵図、図書分類でいうと雑の部に入るであろう、大道芸事典、俗信事典、俗語辞典などなどです。再度手に入れても、まず開くことはないだろうと思えるが、記念碑的な意味で、手に入るのなら手許に置いておきたい、全部で十二巻もありますがラルース大百科事典もあります。
一方、前はなかったけれども、新しく購入したものもあります。
その一つは電動アシスト自転車で、これは脊柱管狭窄症を患ったことと関係があります。
クリニックに通うのはいまのところ一週ごと。健常な人が歩けば二~三分という距離ですが、いまの私は10メートルぐらい歩くと脚も腰も痛くなり、息も上がってしまいます。膝に両手をついてゼーゼーハーハーしたあと、また歩こうとすれば歩けるかもしれないけれど、こんな調子では何分かかるかわからないので、タクシーを利用することになります。乗ったついでに、公共料金を払ったり、預金を下ろしたりするために、郵便局やコンビニに寄ってもらうことがありますが、歩けばすぐなのですから、料金はワンメーターかツーメーターです。しかし、我が庵の前の道路はタクシーが通るような径ではないので、電話をかけて呼ばなければならない。すなわち迎車料金というものが発生します。帰りも同じです。
ほんのすぐそこなのに、料金はいつも¥900~¥1000。往復で¥2000。毎週ですから、このまま行くと、月に¥8000か¥10000。ひと月かふた月で治る、というのなら、まあ、いいでしょう。しかし、そんな保証はどこにもありません。
そこで普通の自転車ではなく、電動付なら脚への負担も軽いので、高いけれど買おうと決めたわけです。タクシー代の二年分ぐらいの価格ですが、脊柱管狭窄症が治ったあとも使えるわけですから、比較の対象にはならない。
一昨日十日はクリニックへ行く日だったので、脊柱管狭窄症の発症以来およそ二か月ぶりに自力で外出を果たしました。クリニック通院を果たしたあと、買い物をし、予行演習のつもりで、近辺をグワングワンと自転車を走らせました。
なんの予行演習かというと、今日十二日は薬師如来の縁日です。本当は八日の縁日に自転車の配達されるのが間に合えばよかったのですが、ちょっとズレてしまいました。それでも十二日に出かけられるように間に合ってよかった。八月以来、三か月ぶりに薬師詣でをしようと決心し、足慣らしをしておこうと考えたのです。
どこへ行くかというと、馬橋にある中根寺です。ここは八年前、2014年の五月八日の縁日に参拝して以来二度目です。直近では今年の五月十五日に参拝していますが、縁日ではなかったので省きました。
かつて日参していた北小金の慶林寺へ、とも考えましたが、こちらは途中に上り坂があります。上り坂こそ電動付の実力が発揮できると思うのですが、まだ慣れてないので、途中で立ち往生でもしようものなら、百歩も歩けない我が脚では手の打ちようがなくなってしまいます。
今月はずっと平坦な道の中根寺。来月、普通に歩けるようになっていれば、どこか別に考えているところ。そうでなければ、一か月後なら上り坂を上る知恵もつけているであろうから慶林寺へ、と考えました。
ただでさえ自転車に乗るのは十二~三年ぶりくらい。電動付は初めての上、購入した自転車はハンドル部分についているのはカゴと変速機、電動とヘッドライトのスイッチだけのはずなのに、なんとなく重く、ハンドル操作がしづらい。サドルとハンドルの位置が離れ過ぎではないかという感もある。
要するに、乗るのが久しぶりなのではなく、きたときから操りにくい存在なので、車道と歩道が区別されているような道で、車の通行量が多い車道を走るのも避け、できるだけ交通量の尠ない径を選んで行くことにします。
というのも、先ごろ警視庁では自転車通行に関する取締を厳しく行なうようになりましたが、自転車に関する法令はすでに五~六年も前に改定されていたのですから、私は、遅過ぎ! なんでもっと早くやらなかったのか! 悪質な違反者には赤キップなどではなく、即座にしょっぴいてやれ! と肚を立てていたからで、そういう当人が自転車に乗ったとき、そのつもりはなくても、うっかり違反行為をしてしまったり、慣れないので、違反していると気づいても、とっさにはどうしたらいいのかわからない、ということが無きにしもあらずだから、念には念を入れて、するつもりはなかったのに違反行為をしてしまっている場合でも、誰もいないところで、目立たないように、済むように、と考えたわけです。
通りすがりの公園です。モミジバフウの落葉がまるでフカフカの絨毯のように降り積もっていたので、思わずペダルを漕ぐ脚を止めて、カメラに収めました。
出発して数分、新坂川河畔に出ました。町田橋で川を渡ります。
進んで行くのは通称桜通り。春になれば桜の花で彩られますが、いまは花は何もない状態。人通りもなかったので、特段気にすることなくスイスイと進むことができました。
馬橋駅を横目に見ながら通過して行きます。
ところが、馬橋駅を過ぎると、径は突然姿を変え、クネクネした轍だけが残る径になりました。久しぶりに自転車に乗った私は初心者のごとく、ハンドルをとられて、転びそうになります。
このままの径だとヤバいぞ、と思ったら、中根立体の前に出ました。常磐線を越える跨線橋を渡ります。ずっと平坦、と思った行程にちょっとしたアクシデントです。長い上りのスロープになっていましたが、しかし、ここで電動アシストが持てる力を発揮してくれました。
違反をすることもなく、事故を起こすこともなく、無事中根寺に到着しました。
真言宗豊山派の寺院。創建年代などは不詳ですが、当初は東照院と号して、現在とは別の場所にあったようです。寛永年間(1624年-45年)には中根寺と改称していたと伝えられています。
本尊は薬師如来像で、弘法大師が一本の木から三体つくった薬師像のうち、真ん中の部分を使ってつくられた一体とされています。したがって地名は松戸市中根、寺の名も中根寺というわけです。
無住のお寺ですが、薬師詣ででお邪魔するのは二度目です。前は八年も前の2014年五月八日でした。そのときは今日と同じように、人影はありませんでしたが、縁日であったからかどうか、門扉は開け放たれていたので、御堂の前まで行って参拝しました。
今日は八日ではなく、十二日。同じように縁日ではありますが、八日のように重んじない寺院もあるので、ここもそうなのでしょうか。門扉が閉まっていたので、遠くから拝礼するしかないかと思ったら、鍵がかかっていなかったので、境内にお邪魔することにしました。中根立体のスロープで実力を発揮してくれた愛車は門の前でしばし待機です。
いつも薬師詣でなら友人・知人が無事息災であるようお願いするのですが、今回ばかりはずっと悩まされてきた脊柱管狭窄症が治りかけてきたことへの感謝を先にしました。
覗き込んでみましたが、ガラスが反射して、肝心の薬師如来像はどこに祀られているのか、まったくわかりませんでした。
今日参拝するのはこの中根寺だけ。薬師堂に参拝したあと、さして広い境内ではないので、一巡りすることにします。
薬師堂の右前にあった祠は、右手を頬に当て、半跏で思惟のポーズをとっておられますから、如意輪観音でしょう。
薬師堂と並んである祠は大師堂。しかし、中を覗いてみると、弘法大師らしき僧の坐像はありますが、左奥に追いやられていて、中心にあるのはどうも舟形光背です。仏像はなく、光背だけでした。
台を見ると、「大師堂新設有志云々」と彫られてありますから、確かに大師堂です。
如意輪観音堂と大師堂の間にあった祠。中は暗いのでよくわかりません。
枇杷の樹に花が咲いていましたが、実は見当たらないようでした。ずっと外を出歩いていなかったので、ほかに枇杷の樹を見ていませんが、本来なら季節的にとうに実を結んでいるはずです。
これまで、クリニックの行き帰りはタクシーを利用していた、といっても、まったく歩かないというわけにはいきませんでした。
タクシーを降りるのはクリニックの前ですが、入口の自動ドアまでは百歩近くあります。入って受付まではさらに三十歩ぐらい。そこから整形外科の診察室前までまた五十歩ぐらい。診察室に入り、終わって受付で処方箋をもらい、さらに道路一本隔てて斜向かいにある薬局まで行き……私がギッコンバッタンしながら入口を入るので、薬剤師さんがサッと飛んできてくれて、処方箋とお薬手帳を渡し、薬が整うと、私が坐って待っているところまで持ってきてくれます。
処方されている薬は、三食毎食後に服用するものが四種類、朝晩が三種類、就寝前が一種類と八種類もあります。高血圧と狭心症などで通院している病院で処方されている薬が五種類もあるので、服み間違い、服み忘れがないよう、服用する時間に合わせて分けてあるのですが、なぜかクリニックや病院に行く直前になると、一錠だけ余っている薬があったりします。
薬をもらったら、タクシーを呼んで庵に帰りますが、タクシーがくるまでに三~四分、混み合っているときには六~七分待たされます。薬局前の丈の低い塀に手をついて、痛む左脚に負担がかからぬようにして立っているのですが、この数分が非常なる修行時間です
こういう診察日一日の行程で四百歩ほど歩きますが、断続的だから歩けるので、つづけて歩けるのは百歩ぐらいが限度。曲りなりにも健常であったこれまでは考えたこともありませんでしたが、たかが百歩がいかに遠く、きついものであるかを初めて知らされ、考えさせられました。
かつての住居がある地域で始めたボランティア活動は、いまのところ、お休みをもらわなければいけない状態ですが、その対象としている人々は、私が患っている疾病とは違って、多分治る見込みのない疾病を持つ当人とその家族です。当人も家族も老齢の人々が多い。そういうことに対しても、今回は深く考えさせられました。
火事のあと、近くにあった旅館で六日間過ごしました。
この火事の火元となったのは二十代後半の青年でした。私が旅館に避難した最初の三日間、頭を垂れるために毎朝私を訪ねてきました。二十代の青年、しかも私と同じアパートに棲んでいた男に金があるわけはありませんし、私自身彼に弁償してもらおうという気はありませんでした。
最初に顔を見せたとき、快く謝罪を受け入れると、これまで彼が(私から見て)気の毒な人生を送ってきたという話を語り始めました。彼に何かをしてもらおうというより、私自身は何もできないが、私が知っている組織なら何か助力ができると思ったので、そこに繋ぎをつけてやりたいと思いました。
携帯電話の番号だけ聞きました。私のスマートフォンは火事のときに水をかぶってしまいましたが、つづけて使えるようでした。しかし後日、携帯電話会社の営業マンが訪ねてきて、なんらかのことで発火したりするかもしれないから、取り替えたほうがいい、災害に遭ったのだから、無料で交換できる、というので換えてしまいました。そのとき一緒にきた技術者がデータの移行などをしてくれましたが、連絡先を移行する段になったとき、私は一瞬首を傾げたあと、青年の電話番号はいいや、と思ってしまいました。火事に遭った日から一か月近く経ったころであり、青年が私の旅館を訪ねてこなくなってからも一か月経っていました。
今日、火事に遭って一年……という思いより、青年から連絡がこなくなって一年、どうしているだろうかという感慨のほうが先に立ちました。
いまの部屋を捜してくれたのは前に棲んでいたアパートとは違う不動産屋さんです。私の新居が決まったとき、旧不動産屋からは私が落ち着ける場所を見つけて安心したという電話がきましたが、そのときに、かの青年にこのこと(私の新居が決まったこととその所番地など)を知らせていいかと訊くので、むろん結構だと返辞をしました。私が青年のことを訊ねると、新居も決まって、元気で職探しをしてしている、ただ新居をどこに決めたのかは個人情報なので教えられないという。私は悪意など懐いていないし、青年には弁償する必要はないと伝えてはいますが、被害者(私)に加害者の情報を教えないと言うのは、いわゆる個人情報守秘義務とは次元の違う問題だろうと思ったのではありますが……。
新しく整えたものの中で、洗濯機、冷蔵庫、食器棚、箪笥という大物で重いものは、若ければいざ知らず、齢を重ねてしまった私には独力で移動させることができません。私に代わって、「どんなことでも手伝います」といってくれた彼がいたら、どんなに助かるだろうと、これも思ったのではありますが……。
私の背より高い食器棚は販売店から屈強そうな若者が二人やってきて、私の希望する場所に据えつけてくれました。洗濯機は外にしか置けないことになっていたので、これも一人は屈強そうな若者とはいえない人でしたが、二人やってきて据えつけてくれました。
問題は約500リットルという、これも私の背より高い冷蔵庫です。こちらは屈強な若者が一人で運搬してきて、フローリングの台所に置いてくれましたが、冷蔵庫より先に届けてほしかったものがあって、そうなるように注文しておいたものがあったのに、手違いがあって、冷蔵庫がきたのに、まだ到着していない、ということになってしまいました。冷蔵庫を所定の場所に置いてしまうとあとが困るので、仮の場所に置いたまま帰ってもらいました。
フローリングの床を滑らせやすいように、ダンボールが敷かれていました。まだ脊柱管狭窄症が発症していなかった私でも、当初考えていた場所まで押して行くことはできましたが、ダンボールを外すことはできず、いまも敷いたままです。
今日も好天でありました。明日十三日夕方から雨になるようですが、我が地方では先月二十日から今日まで二十四日間雨が降りませんでした。にわかに見返すことはできませんが、私が「日録」と名づけている日記をつけ始めて今年が三十一年目。この間に限っては連続雨なし日の新記録になるのではないかと思います。
八日。
薬師如来の縁日がやってきましたが、脚の痛みが依然引かず、今月の薬師詣でも出かけることができません。東方(薬師如来がおわす方角です)に向かって合掌、深く頭を垂れるのみです。
脊柱菅狭窄症が発症して、昨日七日でまる二か月、ということとなりました。あっという間の二か月で、まるで夢を見ていたように、瞬く間に過ぎ去ったみたいな感じがします。まだこれからも当分の間、ただただ過ぎ去って行く日々を覚悟しなければなりませんが……。
脚の痛みはかなり恢復してきて、途中、休み休みなら、タクシーを使うことなくクリニックへ行けそうな気もしますが、いざとなると、歩いてみようという勇気が出ません。もし実行に移したら、休み休み歩く途中で、へばって、本当に休んでしまうかもしれません。
グーグルマップで計測すると、クリニックまでは180メートル。健常なときに歩けば、二分もかからぬ距離です。実際、ダイソーやサンドラッグ、コモディイイダという店々へ買い物に行っていたとき、クリニックのすぐ横を通り過ぎていましたが、まったく意識しないほどの近さです。
クリニックまで歩いて行けるかな、どうかな、と考えていると、疾病は全然違いますが、十数年前、胃潰瘍を患ったときのことを思い出してしまいます。そのときはやはり新松戸の住人でした。
それまで特段の病気を患ったことがなかったので、かかりつけの病院やクリニックはありませんでした。そんなときに突然襲ってきたのが胃潰瘍でした。自覚症状を覚えるのが遅かったので、気づいたときはかなり進行していました。
胃潰瘍は背中が痛くなる、と耳学問で知っていました。なんとなく体調がおかしいと思い始めたとき、胃がやられているように感じましたが、胃潰瘍なら背中が痛くなるはず、しかしそうではないので、なんだろう、というような体調でした。
それが一気に進行したときは、あとで考えれば、多量の下血によって血液が減少(入院したときの検査では通常の80%しかありませんでした)し、酸素の血中濃度も低下していたので、歩いてもすぐ疲れる、眠っても眠っても眠い。とにもかくにも眠くて眠くて堪らないという状況でした。いまと違って、当時は勤めに出ていたので、無理に無理を重ねていました。
これは本当にイカン、と気づいたとき、どこで受診しようかと迷いましたが、頭に浮かんだのは通勤途中にある総合病院でした。
そんな状態だったので、受診=即刻入院ということになったのですが、入院することになる前々日の夕方、その病院に電話を入れました。今日はもう診察時間を過ぎているので、明日十時にきてください、といわれました。ところが、ひたすら眠ってばかりいる毎日だったので、翌日目を覚ましたのは昼過ぎ。また電話を入れたら、診察は午後二時からなので、その時間になったらきてください、といわれました。
待っている間も眠気は襲ってきます。結局眠ってしまって、目覚めたのはまた夕方。明日になったらと思っても、朝は目覚めがきません。やっと行くことができたのは、その日の夕方。診療時間の終わる直前に滑り込みました。
ギリギリに家を出たのではありません。今度こそ行かねば、と決意して、眠い目をこすりながら家を出たのは午後の診療の受付が終わる四十分も前でした。
当時の自宅から駅までは歩いて十一分。その病院は駅から四分ぐらいのところでしたから、自宅からは七分か八分ぐらい。悠々間に合いそうでよかったと思いながら家を出ました。しかし、部屋を出てエレベーターに乗り、マンションの玄関に出たところで、早くも休憩です。その後も50~100メートル歩く都度休憩。結局、普段であれば十分程度で着く病院まで、三十分もかかりました。
すぐそこなのに、非常に遠く感じられる、と思うと、まだ幼かったころのことも思い出します。
隅田川に架かる両国橋を、両国から対岸の東日本橋まで独りで渡るのは、まるで別世界へ行くように感じられ、何歳になったら渡れるようになるだろうかと思ったものでしたが、いまはそれに近いような気持ちです。
鬼が出るか蛇が出るかという怖さではないけれども、曲げたままにしなければならない腰が昨日よりほんのちょっと伸ばせると、恢復に向かっていると嬉しくなり、昨日は伸ばせた腰が今日はまた伸ばせないと、このまま歩けなくなるのではないかと絶望の淵に突き落とされるような思いを味わったり、という日々の繰り返しです。
いずれにしても、一度は歩いてクリニックに行けたとしても、買い物だ、公共料金の支払いだと、連日のように出歩くのはとても無理で、まだ当分は引きこもりをつづけなくてはならぬようです。
十一月に入って、秋が深まってきているのはわかっていましたが、家の中から眺められるのは、雑草に埋め尽くされた我が庭と前のマンションだけ。マンションにはなんの樹だかわかりませんが、常緑樹が植えられていて、落葉樹は見当たらないので、季節を感じられるものがありません。
外を見るのはクリニックへの行き帰り、タクシーの窓からだけです。それも、健常なら二~三分で歩けるような距離ですから、タクシーなら数秒……テナわけにはさすがにいきませんが、そのタクシーの窓から見る景色はあっという間に過ぎ去ってしまいます。瞬時の間でも肌に感じられる秋らしさといえば、新松戸中央公園の樹々ぐらいなものです。
公園の中にはイチョウ(公孫樹)もありますが、道路沿いにあるのは桜の樹だけ。決してきれいな紅葉とはいえませんが、いまの私にとっては貴重な秋の色です。
クリニックから帰ったあとはこたつに坐り、いつもどおり窓の外に見えるマンションを眺めています。
これまで十一年と八か月、ほぼ毎月休まず巡ってきた薬師詣でを思い返しています。今年九か月目を迎えるはずだった直前の先々月七日に、いまの脊柱管狭窄症(当時はたんなる坐骨神経痛と思っていました)を発症して、参詣は欠礼。つづく先月十月も欠礼。
即座に数え直すことはできませんが、十一年と八か月を月に直せばちょうど百と四十か月、巡ってきたお寺や小さな堂宇は三百か所前後にも上ります。
今日は終日好天でした。夜になると皆既日食に天王星食が加わる、四百四十二年ぶり、織田信長のころ以来という天体ショーがあるというので、近場で観測できるところがあれば、望遠レンズを装着したカメラを持って出かけようか、という気になっていましたが、家の中からは前にマンションがデンと構えているので完全に無理。道路に出ても、前方にはこれまたデデンとダイエーがあるのでこれも無理。どこまで出るかと考えても、いまの私の脚では結局無理ということがわかって、早めに寝てしまうことにしました。
することがない、というか、できることがないので、日がな一日こたつに坐り、ときどき窓の外を見上げては、前にあるマンションを見ながら、朝~昼~夕~薄暮と、時の移ろいをぼんやりと眺めています。
JRの新松戸駅前から伸びるけやき通り、それと交差するゆりのき通りという、この地域のメインストリートが近いので、昼間はむろん、夜中やまだ暗い早朝に救急車が走って行くサイレンの音を聞いています。
どんな人が、どんな状態で運ばれて行くのだろうか、と思うと、ふと考えることがあります。
いまはまだ辛うじて、という状態ながら、カップラーメンのお湯を沸かすための水を汲みに立ち上がったり、日々出るごみや、ネットスーパーから送ってきて溜まって行く一方のダンボールやレジ袋を、資源回収に出したりすることができていますが、いずれそういうこともできなくなり、家の中はごみ屋敷と化して、その中に埋もれて死んで行くのか、と思ったりしました。
あるいは、室内なら結構歩けるようになった、とはいっても、痛む左脚に負担がかかるような体勢になってしまったときなどは、庇うあまり仰向けにひっくり返りそうになることがしばしばあります。
仰向けに昏倒したとき、食器棚、冷凍庫、台所シンクの角等々、私の後頭部が当たるような高さで、角張ったものはいろいろあるので、そこに頭をぶつけて絶命、ということにもなりかねない。
とんでもない! 莫妄想! と思って、にわか坐禅を試みるのですが、死んで行くのが怖いのではない、ごみに囲まれて、だらしなく死んで行くという、醜態を晒すのが云々などと、いろいろ妄想が巡りきて、てんで莫妄想には到り得ない。
正式な坐蒲(坐禅に用いる座布団です)は持っていないので、円座クッションに坐り、脚は組めないので、変形半跏趺坐の姿勢ですが、そういう半端なことだから到り得ないのか、いや、そういう形の問題ではないだろう、などと雑念も入り混じってきます。
私に坐禅の心得などもろもろのことを教えてくださった老僧が、一番大事なことは「正師」につくことだ、とおっしゃいましたが、その老僧は出会ってすぐお亡くなりになったので、私に「正師」はいないままです。
そんなことを思い返したりしているうちに、まだ若いころ、雑誌記者で警察沙汰の取材をこなしていたときのことが蘇ってきたりします。
当時はあまり目立たなかったのですが、いわゆる寝たきり独居老人にからむ事件があって、部外者であったのにもかかわらず、偶然その屍体を間近で目にしたことがあります。その屍体の右足だったか左足だったかの踵に深くえぐられた傷があるのを見た私に、そばにいた検視官が「まだ生きているときに、当人には意識がなかったのか、あっても反応できなかったのか、ネズミに齧られた跡だよ」とつぶやくのを聞いて、屍体を見たこと以上にゾッとしたことなどを思い出したりするものですから、ますます莫妄想から遠のいて行くばかりです。
朝早く、というより、まだ夜中という時刻に目覚めてしまったときは、脚の痛さを庇うために、右側を下にしなければ眠れない、というように、寝る姿勢が限られているので、腰のあたりに痛みが発生して、脚の痛さを凌ぐようなことにもなります。起きてしまったほうが楽なので、まだ眠り足りないとき以外は床を離れてしまいます。
二六時中、脚の痛みに悩まされているのに、座布団に尻を落として坐っていると、痛みなどまったく感じない。他人が見たら、あなた、どこがお悪いのですか、という感じです。立ち上がらなくても用が足せるように、インスタントコーヒーやら湯沸かしポットやら、できるだけのものを身の周りに置いているのですが、それらを手にとるため、少しでも身体をひねらねばならぬようなときは、常に「イテテッ」と叫びながら痛みと戦わなくてはなりません。
それに、睡眠不足のまま起きてしまったときは、パソコンに向かいながら、いつの間にかコックリをしていて、こたつ布団は私の涎をたっぷりと吸い込んでいます。
早起きしたときは、五時半前後に椋鳥の群れがどこかに向かって飛んで行く啼き声と羽音を、なるほどと思ったりしながら聴いています。
なるほど、というのは、十二年前には同じ新松戸に棲んでいたのですが、同じ新松戸とはいっても、場所はまったく違って、現在の庵より800メートルほど北、歩けば十分はかかるほど離れた場所でした。
そこでも椋鳥が飛んでいく様子を耳にしていたのですが、椋鳥のネグラがあるのは、いまの庵があるところとかつて棲んでいたところの中間 ― メインストリートのけやき通りにあるケヤキ(欅)の茂みの中ですから、飛んで行くときの音の聞こえ方が違います。
どこに行くのか(一説には柏の葉公園と聞いたことがあります)、椋鳥たちは北に向かって行きます。いまの庵で東を向いて坐っていることの多い私には左のほうで聞こえますが、かつての私は南から北に向かって、頭上を飛んでいく音を聞いていましたし、朝早くベランダに出て待ち構え、実際に飛んでいく壮大な群れを目にしたこともあります。
記録を残しているわけではないので断言はできませんが、当時は飛んで行く時刻が日々少しずつ遅くなって行ったという記憶があります。恐らく日の出の時刻と関係があるのだろうと考えていましたが、今度改めて気づいてみると、五時半から同五十分ごろにかけて、遅くなったり早くなったりしています。
いまの時期、私が棲んでいる地域の日の出は六時ごろです。五時半ごろでも、晴れだったら空はそろそろうす明るく、曇りだったら暗いので、そういうことかと考えたりしましたが、そういうことも関係がなさそうです。
これは今年の八月、たまたま夕暮れに買い物に出る必要があったとき、彼らのネグラとは違う場所で、騒音に近い音がするので、なんだろうと思って見に行ったら、おびただしい数の椋鳥が電線に止まっているのでした。ネグラにしているけやき通りからは120~170メートル隔たった「とうかえで通り」での出来事です。
この椋鳥たちの平均寿命はいかほどであろうか、かつて私が北に向かって飛んで行く羽音を聞いた椋鳥から数えると、何代目に当たるのであろうか。テナことを考えながら見上げていました。
寒くなってきたので、押入からガスファンヒーターを引っ張り出してきて、試運転を済ませました。独り暮らしなのに3DKと広い我が庵は昨冬初めて体験しましたが、非常に寒いのです。
昨年引っ越してきて、初めての冬を迎えたとき、台所の壁から出ているガス栓が合わず、工事が必要ということになったのですが、工事人の都合が合うのが随分先ということだったので、慌てて購入した石油ファンヒーターは一台では足りず、二台でも足りず、三台も揃えることになりました。灯油は700メートルほど離れたガススタンドへ灯油缶を載せたカートを曳いて買いに行きましたが、今年はいまのままでは歩いて買いに行くことなど絶望です。
灯油もきっと価格が高騰しているだろうし、ガス代も高い。彼奴のせいだけではないだろうが、彼奴らの中でもとりわけプーチンは許せぬ。ヒトラーなど比較にならぬほどの大悪人だと、しても詮方ない八つ当たりをしています。
同じ蜘蛛なのかどうか私にはわかりませんが、我が庵には二匹の蜘蛛が棲みついているみたいです。これは小さいほう。ノートパソコンの周辺に現われて、ときには私と相対峙して、私の様子をじっとうかがうような素振りを見せます。蟹のように触肢を動かすときは私を挑発しているのかと思ったりします。
「夜蜘蛛は殺すな」といったか、いや「殺せ」といったか。古くから言い伝えがあることは知っていますが、インターネットで調べてみると、土地土地で両方あるようです。結論としてはどちらをとるべきなのかはわかりません。
「殺せ」というのが正しいのだとしても、枚挙に暇がないほど出てくるチャバネゴキブリとは違って、なぜか叩き殺すのは躊躇します。小さくて軽いので、フーッと息を吹きかけて追い払ってやることにしています。フーッとやると、どこかへ飛んで行きますが、何分かすると、戻ってきて、またパソコンの上やテーブルの上を歩いています。「おのれ、そのほう……」と私が刀に手をかけるような素振りをすると、わかったかのように姿を消し、随分経ってから、私の息はもちろん、手も届かぬ襖を上っていたりします。
どこかに巣をつくっているはずですが、見たことはありません。まず動かすことのない箪笥やテレビ台の後ろにつくっているのかもしれません。
この蜘蛛の画像はノートパソコンの上に現われた瞬間に写したものです。このあと、例によって息を吹きかけて飛ばしてやりました。
画面に「森田童子」とあるのは、どんな曲だったか憶えていませんが、ちょうどユーチューブで彼女の歌を聴いていたときでした。つい最近、なにかの拍子に思い出し、ユーチューブに多くの歌があるのを知って、コレクションをこしらえ、ときどき耳を傾けるようになりました。同時に、すでに四年前に他界していることも知り、著名な作詞家であり、直木賞作家でもある、なかにし礼さんの姪っ子であったことも知りました。
森田童子には四十年以上も前に一度会った、正しくは見たことがあります。
それは私が某雑誌の編集責任者になる前、前任者に誘われて、小さなライブハウスのようなところへ行ったときでした。そこで彼女のミニコンサートがあったのです。何曲か歌を聴き、聴き終わったあと、前任者が彼女と話しているのを見ただけで、私は挨拶もせず、名刺も出さず、もちろん言葉も交わしませんでした。政治家でもあるまいに、人と見れば名刺交換をしたがる同僚もいましたが、私は正反対の人でした。
いまでこそ「彼女」と書きますが、当時は男性なのか女性なのかわかりませんでした。歌声は女性といえば女性、しかし声変わりする前の男の子といわれれば、不思議ではない。髪の伸ばし方、帽子、黒いサングラスと、見た目は松田優作を細身にしたような感じでしたから、華奢な男の子といわれれば、これもまた不思議ではない。歌う歌の多くに「僕は」「僕が」と出てくるので、よくわからない。「ふ~ん」と思いながら、歌を聴いていましたが、悪い印象はまったくなかった代わり、特別強い印象も受けなかったように思います。
その日からずっとあと、彼女は確かに女性であり、サングラスをはずせば、梶芽衣子に似た美人だったと知りました。
すでにあの世に行ってしまったと知ると、ほとんど接点がなかったのにもかかわらず、ずっとそばにいてくれた人がいなくなったように、妙に懐かしい気持ちになります。
もう一人懐かしい思いに駆られるのはイギリスのギタリスト・アルヴィン・リー。私が二十代のころ、夢中になって聴いていましたが、彼の活動が間遠になるのに連れてあまり聴かないようになり、歳を重ねるのに連れてさらに聴かないようになり、ごくごくたまにCDを引っ張り出してきたときに、そういえばどうしているだろうと気がついてみたら、九年も前にスペインで客死をしておりました。享年六十八歳。
Alvin Lee & Ten Years After - Lost In Love - YouTube
薬の効果が出てきたのか、足の運びはかなりよくなってきました。
昨日四日は好天で暖かかったこともあり、久しぶりに窓を開けて庭を眺めると、雑草がすごい状態になっていました。ちっとばかり仕事をしてみるか、と思い立ち、置いてある長靴を履いて庭に降り立って、枝切り鋏を手に草刈りに挑んでみました。脚の痛みを庇うため、腰を曲げたままなので、すぐ疲れてしまいます。仕事をするか、と意気込んでみても、できるのは窓の近場だけ、それも短時間だけです。
庭に降りてみると、窓際に立つだけでは死角になる場所に置いてあるプランターの一つに、一本だけスクっと立って、小さな花を咲かせている草があるのに気づきました。スマートフォンのカメラに収め、グーグルレンズで検索してみましたが、なぜか説明は横文字ばかり。よく見ると、フランス語でGlaines de Morelle noireとありました。Glainesは私が持っている小さな佛和辞典には載っていなかったので、別の方法で調べてみると、古フランス語で「鶏」を意味するらしい。Morelleは「いぬほおずき」とありましたが、これも別の方法で調べると、ナイトシェードのことらしい。ナイトシェードとはナス科の植物の総称ですが、悪魔が愛した花という意味があり、悪茄子(ワルナスビ)とか犬酸漿(イヌホオズキ)とか、毒を持った花を意味するので、悪魔という語が使われているらしい。
「鶏」という意味の語を冠しているので、「いぬほおずき」そのものではなく、仲間なのだとしても、ちょっと違うところがあります。私はワルナスビもイヌホオズキも、実物をじっくりと観察したことがあるのですが、花の様子、茎の様子がどうもしっくりととこないのです。ことに二つの花の間に写っている緑色の実がイヌホオズキにしては大き過ぎます。
しかし、仲間なのだから、中には大きなものもあるのサ、といわれてしまえば、元も子もないのですが……。
イヌホオズキは手許に置きたいものだと思っているので、種をもらってきましたが、間に火事による引っ越しが挟まっているので、どこに置いてしまったか未確認です。持ってきたつもりでいるが、実際は忘れてきたのかもしれない。持ってきたが、引っ越しのドサクサに紛れて、何かの下敷きになってしまっているのかもしれない。いえることは、尠なくとも播いてはいないということです。
蛇足ながら、種はもらってきたというより、盗ってきたというのが正しいのですが、ある県道の傍らに咲いていた草、いわゆる雑草です。それでも県道にあったのだから、所有者は千葉県ということになるのでしょうか。
このプランターは今年か来春、白桔梗の種を播くつもりでいたので、いずれ種子を購入と考えていたので、土を盛るのも途中でしたから、仮に私がイヌホオズキの種をどこかに播いてしまっていたことを忘れているのだとしても、間違ってもここに播くはずはないのです。
風で飛んでくるとは考えにくいので、恐らく鳥の糞に入っていたと考えるしかないが、鳥にとっては毒ではないのだろうか。人間なら感電してしまう電線を、人間に近い猿だとやすやすつかむことができる、ということもあるのだから、鳥にとってはなんでもないのかもしれない。
いずれにしても私の手許には花図鑑しかなく、インターネットでもわからないとなると、図書館へ行きたいが、家の中ですら苦労して歩いている私には当分無理なことです。
酔芙蓉(スイフヨウ)のほうは、いっぱいあった蕾を目にすれば、いずれ百花繚乱! となると思ったのにそうはならず、一輪咲き、二輪咲き、という状態の繰り返しの上、いつの間にか花はもちろん蕾も姿を消して、残されたのは多数の茎だけです。
芙蓉の仲間なので、椿と同じように散るときは花ごとドサッと落ちて終わります。桜みたいに花弁が一枚ずつ落ちるのとは違うので、昔は打ち首になった武者や罪人の首が落ちるようだと忌み嫌う人もあったそうです。
薬師如来の縁日である八日が徐々に近づいてきていますが、この調子ではまた欠礼ということになるのでしょう。九月、十月、十一月と三か月もつづけて欠礼することになります。
来月十二月がくると、終い薬師です。そのころにはなんとかなっていて欲しい。遠出などてんから望まず、かつての地元、慶林寺でもいいから参拝に行きたいもの……と思っているのですが、どうなることでしょう。
以下は日記のようなつぶやきです ― 。
突然脚に痛みを覚えて、ほとんど歩けない状態に襲われてから、引きこもりになるのを余儀なくされて、そろそろふた月が過ぎ去ろうとしていますが、自由に歩けない状態は依然としてつづいています。
ふた月の間、外に出たのは六日だけ、というか、六回だけ。うち五回は病院・クリニック通い、残る一回は、先月末に車を持っている知人が訪ねてきてくれたので、乗せてもらって近くのイタリアンレストランへ行って食事をともにし、コンビニに寄ってもらって、公共料金の支払いと引き落としに備えて銀行に預金をしました。
引きこもり生活が始まってから、会った人はこの知人のほかは、病院の関係者など、会った、とはいえないような人々で、それも数えるほどです。
無精髭が伸びていました。滅多に外には出ず、出るときはマスクをしますから、髭が伸びたままでも全然構わないのですが、電気シェーバーで口髭と顎鬚を剃ります。深剃りができる回転式を使っているので、剃り上げる方向を変える都度、ガリガリという音を聞きながら、何日かごとに髭が伸びてきているのを識るたびに、当たり前のことながら、自分は生きているんだな、と感銘に近いものを覚えたりします。
食事は相変わらずネットスーパー頼みです。食べたいものがありますが、届けてもらえるのは限られているので、食べられないものがあります。魚類はまったく食べていません。辛うじて食べられるのは、鯖や鰯の缶詰、鮭ほぐしのたぐいだけです。
最初は坐骨神経痛だと思いました。四~五年ぐらい前、同じような症状に見舞われて、そのときは病院に行くこともなく、薬を服むこともなく、数日で治ったので、今回も軽く考えていました。こんなに長引くとは考えてもみませんでした。したがって、病院へ行くのも遅くなりました。遅くなった上に、最初に訪ねた病院が大ハズレでした。
近くにある総合病院で、かつては胃潰瘍で入院したり、大腸のポリープを切除してもらったりと何度かお世話になったことのある病院ですが、正直なことをいうと、行くのはあまり気乗りのしない病院です。
そして今回 ― 。
案の定というかなんというべきか、やっぱり! ということになりました。
診療科も異なるし、医師も別人ですが、ずっと前にこの病院で右眼の眼瞼内反症 ― いわゆる逆さまつげです ― の手術を受けたことがあるのですが、術後、縫合跡が膿んでいないかどうかを確かめたいので、数日後にきてほしいということになりました。
ところが、その日に行くと、ぬぁ~んと「休診!」ということがあったのです。
当然担当医はきていないし、眼科ではない診療科へ行っても仕方がない。幸い膿んだ様子はなかったので帰りましたが、以降も受診することはありませんでした。
手術が成功だったのか否か、私にはわかりません。
いつからなのかは記録をしていたわけではないのでわかりませんが、しばらくすると、以前と同じように、右眼がショボショボしたり、涙が出たりする日があるようになりました。
しかし、手術を受ける前に、その担当医がいうことには、今回の事案は加齢で皮膚がたるんだことによって起きたので、手術で引き詰めても、時が経てばまたたるんでくる、ということだったので、手術は成功したが、時が経った、ということなのかもしれません。けれども、約束破りのいい加減な医師の言葉ですから信用できるのか、という見方もありますが……。
あるいは私には原因不明の鼻のアレルギーがあるのですが、初めてその症状が出たころ、同病院の耳鼻咽喉科を受診しました。受診したときはなぜか洟水は治まっていました。医師はインターンを終えたばかりではないかと思われる若い女医でした。
体温計みたいな医療機器を鼻腔に突っ込まれ、アヒーッ! と叫びたくなるほどかき回されたあと、ご託宣は「わかんないっ!」という一言でした。憤りがこみ上げてきたのはしばらくたってからで、その瞬間は私は思わず笑ってしまいました。
胃潰瘍で入院したり、大腸ポリープの切除をしてもらったときは全然問題はありませんでしたが、以上のようなことがあったので、そもそも病院へ行くこと自体、気乗りがしないものなのに、さらに気乗りがしないのです。
気乗りがしないながら、整形外科がそこらじゅうにあるわけではないので、今回もやむなくその病院へ行きました。担当医の一覧表を見ると、常勤の医師はいないみたいで、名前は日替わりになっています。大腸ポリープの術後やそのころ発症し始めていた高血圧で通院していたころの消化器科と内科と同じでした。
九時半ごろであったか、初診の受付を済ませました。歩けないので、タクシーを呼んで行きました。かつて通院していたことがあるので、本来は診察券を持っていたのですが、火事に遭ったときになくしています。それに、通院していたのは十年も前なので、新しくもらえるだろうと思っていました。再発行といわれて¥110也を徴収されました。
¥110ポッチですから、そんなことは些細なことですが、次に起こるようなことが、些細なことを些細でなくしてしまいました。
一時間半ほど待ったころ、院内にスピーカーから流れる声がありました。理由はよく聞こえませんでしたが、整形外科の診療は突然中止、ということになったのです。
私が腰を曲げてエッチラオッチラとやってきているのを心配してくれたのか、最初に病状を告げた受付嬢が申し訳なさそうな顔をしてきてくれました。整形外科医に何か事故が起きたみたいですが、受付嬢には打つ手がありません。明日出直してもらうか、受診はやめにするか。明日出直しても、私を含めて今日キャンセルを喰らった形の患者がたくさんいるので、今日以上に待つことになるかもしれない。どうしますか(他の病院に行きますか)、というわけです。
そういわれても、ほかにアテはないので、出直すしかありません。帰りも通りがかるタクシーをつかまえる、という身体ではないので、タクシーを呼ばなければなりません。健常な身体であれば、歩いて十四~五分ぐらいのところなので、走行料金は¥600から700というところです。ただ迎車料金(¥300)が加わります。そのツケは誰にも持っていきようがありません。
なんの成果もないのに往復¥2000というのも、まあ、些細なことと片づけてもいいかもしれない。しかし、(私にすれば)度重なる不祥事が些細なことを、やはり些細ではなくしてしまう。
翌日、延々と待たされた挙げ句、なんとか無事に受診を終えました。レントゲン撮影があって、腰にも痛みの激しい左脚も、骨には異常がないので、神経痛となんらかの炎症であろうという診立てでした。一週間後にまたきてくれといわれ、痛み止めの服み薬と痛いところに塗る消炎剤、痛み止めの薬は胃を荒らすので、それを防ぐための胃薬を処方されました。
消炎剤はリップクリーム大きくしたような塗り薬でしたが、ほとんど効果がありませんでした。立っているときだけではなく、眠っているときも脚が痛んで目をさますことがあったのですが、起き上がること自体が大変なことなのに、あまり効果のない消炎剤を手にとるべく起き上がる気にはなれない。拠って、ますます効果はない。
一週間分で二本処方されていましたが、四~五日経っても、一本の半分も使い切れていない。肩こりと首コリに流用してみましたが、やはりほとんど効果がない。
一週間後の診察で、そんなことを訴えると、「もう少し様子を見ましょう」といわれ、二度目の受診は数分で終わってしまいました。一時間半も待たされた挙げ句です。
診察が終わると、診療科の受付に戻って、処方箋と次の診察日の予約表のようなものをもらう手筈ですが、そのときがくるまで、私はまだなんの疑問も懐いてはいませんでした。
大きな病院なので、受診前も、受診後もいろいろ手数を踏まなければなりません。処方箋などをもらうときに、支払うべき診察料を示され、違うフロアの会計に行って支払い、それでその日はおしまいということになるのですが、名前を呼ばれて、エッチラオッチラと苦労しながら歩いて行くと、私に示されたのは診察料の請求書だけ。「?」と首をかしげると、処方箋も次の診察予約もないのです。
どういうことなのか。医師の話を聞きたい、というと、受付嬢は姿を消し、また何分も待たされた挙げ句、戻ってきて、今日は患者が多く、非常に立て込んでいるので、医師の手が空くまでしばらく待ってくれ、という。
そのときの私の状態は? というと ― 立っているのは非常に辛く、椅子に腰を下ろせばなんでもないのですが、その椅子のあるところを見ると、待ち人がどっさりいて、立って待っている人も数人いる。空いている席があったとしても、そこまでエッチラオッチラするのが辛い。さらに何分待てばいいのかわからないのに待った上、また名前を呼ばれてエッチラオッチラしなければならぬ、と思うと、「辞~めた」と即断してしまったのでした。
じつは、病院へ行かねば、と考えたとき、思い浮かべたクリニックがあったのです。我が庵から歩けば三~四分という至近距離です。もちろん私は歩けないので、だれかに送り迎えをしてもらわなければならない。幸いそのクリニックには送迎サービスがあるのを知りました。即刻行くべし! と思って電話を入れたら、初診のときは送迎サービスは利用できない。診察を受けて、送迎が必要だと医師が判断したら、利用することができるが、付添がないとダメだといわれてしまったので、行くのは諦めたのです。
その後、行くのは「辞~めた」ということになる病院へ行くまで、自分ではなんと迂闊であったのかと思うのですが、タクシーを使う、という考えが思い浮かびませんでした。我がことながら、何たるコッチャです。
タクシーで行くのなら、最初に考えたクリニックでもいいわけで、受診先をそのクリニックに変えました。
歩けなくなって一か月も経っていたときです。新しく担当医となった医師が、痛みが出てから一か月も経ってやっと受診しにきたのか、という感じで首を傾げるので、「じつは某病院で……」と話すと、「某とはどこですか」とたたみかけられました。
前から高血圧で通っているもう一つの病院があるので、お薬手帳を見せなければならないと思っていました。見せれば、直近の処方でもらった薬のリストが貼ってあるので、「某」とぼかしたところで、どこかということはわかってしまいます。「某」がどこであるかを打ち明けると、思ったとおり「お薬手帳はお持ちですか」と、きました。
ここでもレントゲンを撮られましたが、腰から背中にかけて多少の異常がある。私が訴えた、歩いたり立ったりしていると非常に痛いし辛いのに、坐るとなんでもない。あるいは身体を後ろにそらそうとすることはできないが、うつむき加減になると楽になる ― こういう症状と合わせると、典型的な脊柱菅狭窄症だということになりました。「某」では神経痛といわれ、確かに神経が圧迫されて痛むのだから神経痛には違いないが、そういう問題ではなかったのに、「某」では同じようにレントゲンを撮りながら、脊柱菅狭窄症と見抜けなかったのでしょう。
「某」で処方されたのは、ロキソプロフェンナトリウムという痛み止めと胃薬、それに消炎剤の三種だけでした。新しい医師はちょっと首を傾げて「私もロキソプロフェンを処方するつもりですが、これだけでは足りないですね」。そういって、しばしパソコンに向かってキーボードをカチカチしたあと、処方される薬のリストを見せてくれました。「某」とは違って、塗り薬はないのに、全部で七種類もありました。
七種類もの薬を服み始めて三~四日すると、依然として四苦八苦することには変わりがないながらも、ほんのちょっとだけ腰を伸ばすことができるようになりました。すると、こたつの敷き布団として使っている長座布団を物干し竿にかけて干すことができたり、2メートルほどの高さにかけてあって、電池切れで止まったままだった掛け時計にも、辛うじて、という状態ではあるけれども、手が伸ばせるようになって、電池の交換もできました。
少しずつではあるが快方に向かっている、と密かにほくそ笑んだら、翌日にはなぜか時計の高さより断然低い位置にある蛍光灯のスイッチ紐に手を伸ばせるのがやっとという状態に逆戻り。どうやら一進一退を繰り返しながら、やがて本復するとしても、長~い戦いになりそうです。
ブログの更新を怠ることが多くなりました。先手を打って弁明に努めておくと、決して私の怠惰のせいばかりではありません。
去年十一月に怠ったときは火事のせいです。当時、喫緊を要したのは新たな棲家を見つけることでしたから、落ち着けるかどうか、今後どうなるかどうかなどということはさておいて、とりあえずいまのアパートに居を定めることになりました。
緊急避難の旅館暮らしで不便をかこったのはわずか六日間で済みましたが、火事でノートPCもデスクトップPCも失ってしまったので、本当はブログの更新どころの騒ぎではなかったのですが、仮に気持ちに余裕があったとしても、物理的にブログを更新することはできませんでした。
あれから一年近く ― 。
毎月の薬師詣でも、ひと月休んだだけで再開し、ようやく気持ちも落ち着いてきた、と思ったところ、先月初めにはまた思わぬ災難に見舞われてしまいました。坐骨神経痛に見舞われて、今日までの一か月、歩くこと能わず、という毎日を送ってきたのです。
発症したのは先月七日朝です。
前日はボランティアで小金地区を歩いていました。ボランティアの日は、様子を見に訪ねる家が三軒ほどあって、六~七千歩は歩きます。それに北小金へ行くために、新松戸から一駅だけ電車に乗りますが、自宅と新松戸駅との往復で約二千歩。〆て八~九千歩。薬師詣での日などは一万数千歩も歩くこともありますから、私にとっては特段の歩数ではありません。
その日はなんでもありませんでした。
翌朝、トイレに行くために目覚めました。立ち上がろうとすると、臀部左が痛く、布団に尻餅をついたまま、どうやったら立ち上がれるのか、と考え込んでしまいました。やっと立ち上がることができて、歩き出そうとすると、左脚が攣ったようになっていて、歩くのがぎこちない。ヤヤっと思っているうちに左脚全体が痺れて、やがてシクシクと痛むようになりました。
横になっていれば楽なら横になって過ごすのですが、仰向けでもうつ伏せでも脚が痛んで眠れません。右側を下にして、まるで胎児のように丸まった姿勢だけが痛みがないのです。しかし、その姿勢をつづけていれば、神経痛のない右腰が痛くなります。結局、二時間ぐらい眠ったかと思うと右腰の痛みで目が覚め、そうでなければ思わず身体をひねるために左脚に強烈な痛みが出て、目が覚めるのです。
発症したのが七日ですから、翌八日の薬師詣ではとても行けませんでした。十二日の縁日も行けません。東京・本郷にある薬師堂には二十二日も縁日だと記してあったので、これまで出かけたことはありませんが、苦肉の策でこの日まで延期しようと考えました。まさか当日になっても歩けそうもない、という事態になろうとは考えてもみませんでした。
じつは坐骨神経痛かどうかはまだわからないのです。突然歩けなくなったので、病院に行きたくても、すぐには行けませんでした。痛む箇所は違っていますが、何年か前に坐骨神経痛が出たことがあって、そのときはいつの間にか治まって、以降発症することはなかったので、今回のように長引くことは想像しなかったのです。
近くに整形外科のあるクリニックがあって、送迎してくれるということを知ったので連絡をしてみると、診察する前に送迎することはできないから、とりあえずは診察を受けてくれという。一度ならタクシーを頼めば行けないことはないので、壁伝いではあっても、独力でどの程度歩けるか試してみてから行こうと思ったら、受診したあとでも、付添がないと受け入れられないという。友人知人の誰かが付き添いを引き受けてくれるかどうかわからないが、一度だけなら誰かに頼めないわけでもない。
しかし、まだ診察を受ける前です。どのような頻度で通わなければならないのかわからないうちに決めてしまうことはできない。かくて、病院探しはまた遅れることとなりました。
やっと玄関から道路までの数メートルを歩くことができるようになって、独力でタクシーに乗ることができるようになりました。介護タクシーなら別ですが、普通のタクシーは運転手が乗客の手助けはしてはいけないことになっているそうです。独力でエッチラオッチラと道路まで出て、付き添い不要の別の病院へ行き、レントゲンを撮ってもらいましたが、脚の骨に異常はないということがわかっただけで、原因はまだわかっていないのです。
二週間分の痛み止めの薬と消炎剤を処方されて、様子を見るということになって、いまはその二週間が経過するのを待っている状態です。
痛みは多少軽くなったように感じられるときと、あまり変わりはないと思えるときがあります。
腰を伸ばしてピンと立とうとすると、左脚が痛むので、腰を伸ばすことができません。元気なころは腰を屈めて歩いている老人を見かけることがありましたが、自分はまさにその老人なのだと気づかされました。
発症する前に洗濯をして、ハンガーに吊るしたTシャツが二枚、鴨居にかけてありますが、手を伸ばして取ることができないので、いまだにかけたままです。柱にかけた時計の電池が切れてしまいましたが、むろん電池交換はできないので、止まったままです。
洗濯機は外、共同の通路にあります。玄関の三和土を上り下りするのは生易しいものではないので、頻繁に洗濯はできないとはいえ、しないわけにはいかないので、エッチラオッチラ、よいしょドッコラショ、と掛け声をかけながら、玄関を出たり入ったりしています。幸い全自動洗濯機なので、エッチラオッチラしなければならないのは二度で済みます。
郵便等は通路入口の郵便受けまで取りに行かなくてはなりません。距離にして10メートルちょっと。10メートルがこんなに遠いとは、初めて悟りました。
ごみ置き場はもう少し近いのですが、郵便物と比べれば多少なりとも重量があるので、苦労するのは大差ありません。
台所の洗い物も以下同文ですが、何日かに一度はしなくてはなりません。両手を膝につき、腰を屈めて台所まで行くのはなんとかなっても、絶対に不可能なのが立ちつづけていることです。二~三分立っているだけで、脚の痛みもさることながら、腰を伸ばせないので、すぐ腰に痛みがきて、息も上がってしまうのです。
考えた末、アマゾンでバーに置いてあるような、カウンターチェアを買うことにしました。買ったからといって、万事解決とはいきませんが、立っているよりは長時間シンクに向かっていることができるようになりました。
買い物はもちろん行けません。幸いネットスーパーというものがある時代なので、餓死しないで済んでいますが、普段のように手にとって買うことができないので、買えるものには限度があります。
台所に立っていることが苦行なので、手の込んだもの、ガス火にかけて、見ていなければならないような調理はできません。おかずが尠なくて済む炊き込みご飯を炊いたりして飢えを凌いでいます。
歩けないことを除けば心身ともに快調なので、食欲が減退していないのも困りものです。動かないぶんだけ食欲も衰えているかもしれませんが、服薬、とくに痛み止めのロキソプロフェンナトリウムは胃を荒らすので、必ず三食とったあとで服むこと、と釘を差されています。量的なものはともかく、後始末を尠なくしようとして食事を抜くことはできません。
先月の中秋の名月のとき、LINEの仲間たちはお互いに満月を撮って送り合ったりして賑わっていましたが、私独りは蚊帳の外でした。窓辺まで行くのが億劫だし、月が出ている角度によっては見上げることができないので、最初から見に行かないのです。
窓の外を眺める、というのも、いつの間にか、一週間に一度、あるいは十日に一度、と間遠になってしまいました。幸か不幸か、涼しくなってきていたので、窓は閉めたまま、開けたり閉めたりするのに立ち上がらなくてもいいのは助かります。
引きこもっている間にニラ(韮)の花が咲き、終わりました。
前の住人が植えたままにしたらしいスイフヨウ(酔芙蓉)はオクテのようで、花の季節は七月から始まるはずなのに、いまごろになってやっと咲き始めました。
去年、引っ越してきたときはわりと大きな切り株がデンとあっただけなので、なんの樹なのかわからず、そもそも枯れているのかどうかもわかりませんでした。春がきて葉が顔を出すようになって、ようやくスイフヨウだとわかるようになりましたが、こんなに枝を張るとは予想もしませんでした。
道路からの目隠しにはなるかもしれませんが、正直なところ、なり過ぎです。
スイフヨウの花言葉は「繊細な美」「しとやかな恋人」「幸せの再来」、そして「心変わり」です。「しとやかな恋人」から「幸せの再来」までの三つは本家であるフヨウ(芙蓉)の花言葉で、スイフヨウは寸借しているのに過ぎません。スイフヨウだけの花言葉は「心変わり」。朝から夕方まで、同じ花が色を変えるというのはあまりいいことではない、と花言葉はいっているようです。
次々と咲き始めるまでは、このように蕾をいっぱいつけていながら、花はポツリまたポツリと咲くだけ。首を傾げていたら、季節遅れのいまになって次々と咲き出したというわけです。
前回、坐骨神経痛が出たときは病院にかかったわけではないので、実際は坐骨神経痛だったと断言はできませんが、毎日の散歩や買い物、慶林寺への参拝で歩いていたとき、突然脚が痛くなって歩けなくなりました。どうしたんだろうと思いながら、とにかく脚が痛くて敵わないので、近くにあった駐車スペースのポールにお尻を載せて、しばらく休憩すると、やがて痛みは去って行きました。それ以来、ときどき突発的にやってきましたが、最初に偶然身体を預けて、楽になれると識ったポールと同じ程度の高さのものがあって身体を預けることができれば、しばしの休憩で再び歩けるようになったのです。その間に学習しましたが、不適格な高さがあって、どっかりと腰を下ろすような低さではいつまでも痛みは引きませんでした。
当時、たまに会う元ナースがいて、症状を話すと、「坐骨神経痛ね」といわれました。「また出るかもしれないけど、じきに治まりますよ」と付け加えられましたが、彼女のご託宣どおり、痛みはじきに引いて、以後再発することもなく、苦しんだこともすっかり忘れていました。
知人・友人たちの訃報に接することが多くなりました。つい最近も二人。一人は私が初めて社会に出たときの先輩。私より二つ年上に過ぎなかったのに、死因は老衰。えっ、七十代なかばなのに老衰、と皆が驚いていましたが、詳しい事情のわかる者はいないので、そのまま受け止めるしかありません。
もう一人は鉄道会社の元社長会長。旧国鉄が民営化される際、改革三羽烏の一人、ともてはやされて、エネルギッシュで元気な人でしたが、八十一歳で死去。日本人男子の平均寿命(81・6歳)を全うしたのですから、天寿を全うといえるのかもしれませんが、エネルギッシュなころを知っているので、早いと思ってしまいました。
我が庵近くに「あめりかふう通り」という街路があります。街路樹にアメリカフウが植えられているのでこの名がつけられています。いまの住処に引っ越してくるまで知らなかった木ですが、毎日間近で眺めるようになって、その旺盛な生命力に驚かされることしきりです。連れて、人の命の儚さに想いを馳せてしまう、というわけでもあります。
アメリカフウはモミジに似た葉をもつフウの木(楓の木)の意味から、「紅葉葉楓」とも呼ばれます。高さは20~25メートルほどになるそうですが、街路樹なので、毎年秋口には枝落としが行なわれ、樹高の高い姿を見るのはむずかしそうです。原産地のアメリカでは50メートル近い巨木になるのだそうです。
原産地ほどではなくても、20メートルという高さまで伸びたのではいろいろ困ることがあるのでしょう。毎年秋がくると、枝を落とされ、てっぺんを伐られてしまうので、代わりに幹の色々なところから葉を出します。
前の画像を撮影したときからおよそ五週間後、ほぼ同じアングルを心がけて撮影に及びました。
二つの画像では葉の茂り方に大きな違いがあるのは当然ですが、私が目を見張ったのは根元です。遠目で見たときは、なんという草なのか、随分下草が生えたなぁと思って近づいてみると、下草ではなく、アメリカフウの新芽だったのです。
日ごとに新しい葉が顔を出し、中には毛むくじゃらのムック(ガチャピン&ムックの)のような様相の一木も現われました。舌を巻いてしまうような生命力です。
近くの公園にも植えられていて、こんなにたくさんの実を落としていました。
根木内歴史公園の湿地帯で見かけたミクリによく似ています。
しばらく置いたままにしていたら、焦げ茶色に変色してきて、粉がいっぱい出てしまいました。
乾燥させたものはクリスマス飾りに用いられたりするので、売る人がおり、買う人もいます。ネットショッピングを視ると、一個あたり¥100ぐらいで売られています。
こちらはあめりかふう通りと交差するゆりのき通りのユリノキです。
一本だけアメリカフウに負けず劣らず小枝を繁茂させている樹がありました。
今日三月二十八日は無患子(ムクロジ)記念日。しかし、そのことは目覚めてのち、しばらく時が過ぎるまで忘れていました。
いまのところは、まさか自分の誕生日まで忘れてしまって、後日気がつく、というような致命的な事態には立ち到っていませんが、最近はこんなことがよくあります。近いうちに自分の誕生日だったり、忘れてはならぬ何かの記念日だったりするのに、まったく気がつかずにその日一日が終わってしまう、という日がやってくるかもしれません。
ところで、無患子記念日とはいっても、ほかには知る人もいない、私だけの記念日です。
十二年前、ムクロジという樹があるということを初めて知りました。そして名は知ったものの、ムクロジなどという樹はこれまで見たことがない、と思って調べてみれば、関東では自生していない樹である、ということを知りました。
なあ~んだ、と思って見るのは諦めたところ、だれかが植えたりして、関東でも見ることができる、と知って調べ直したところ、近場では、私が棲む松戸市の隣・流山にあるという。是非見るべしと思ってツテを辿ったところ、観音寺というお寺と赤城神社にある、ということがわかりました。地図を調べてみると、二つとも当時の私の家からなら歩いて行けなくもない、という近さでした。
けれども、私はムクロジという樹があると知ったばかりで、見たことがないのです。県や市の天然記念物か何かになっていて、「これがムクロジですよ」という具合に建て札でもなければ、見に行ったところで私にはわかりません。
そこで、さらにインターネットをさまよってみると、流山のように近くはないが、埼玉県の上尾市にある龍山院というお寺に、樹齢三百年を超す老木があるということがわかりました。上尾市のホームページを見ると、確かに市の天然記念物に指定されている上に、画像まで載っていました。 ただ、載っていたのは小さな画像で、改めて実物を見たとき、決して見間違いはしない、という確信が持てる画像ではない。けれども、天然記念物というからには、しかるべく建て札ぐらいはあって、所在はわかるであろうし、お寺にあるというからには、門前になんらかの注意書きがあるはず。即刻行くべしと決めて行って、初めて無患子を見たのが十二年前の今日三月二十八日だった、というわけです。
そして、行ってみなければわからなかったことですが、おまけがありました。種子が二つ落ちていたので、李下に冠を正さずという戒めに逆らって、頂戴して帰ることになりました。
拾って帰ったときは、マンション住まいでありましたので、プランター植えにして、ベランダに置くしかありませんでした。
それから数か月。実を植えたことなど忘れてしまったころに芽が出ました。二つ蒔いたものの、芽を出したのは一つだけでしたが……。
そのころにはインターネットで得られる情報や画像などのストックが結構溜まっていたときでもあったので、葉っぱを目にするだけでムクロジだとわかるようになっていました。
ムクロジは高さ20メートルぐらいにまでなる落葉高木です。庭付きとはいってもアパートだったので、ムクロジになんの思い入れもない二階の住民にとっては鬱陶しいだけでしょう。管理会社から伸びた樹が鬱陶しいと抗議する人がいる、と伝えられて、以来、毎年、紅葉した葉が落ちるころにはせっせと枝を落とす、ということになりました。
根っこも相当広く張り巡らせていたのに違いない。転居することになった新居も、アパートながら庭付きでありますが、鼻から移植することは諦めたのでした。
その代わり、毎年三月二十八日は記念日として菩提を弔い、どこかにある無患子の樹に会いに行くことにしようと決めたわけです。
その記念日に当たる今日、サテ腰を上げますかと思ったころ、時刻は昼近くになっていたので、埼玉県まで行っていては帰るころには日が暮れかねない。流山の赤城神社へ行こうと考えました。前の住居からなら歩いて行ったかもしれませんが、グーグルマップでどれぐらい(徒歩で)かかるかと調べてみると、なんと四十五分もかかります。滅多に乗ることはありませんが、幸い流鉄という電車があるので、乗ることにします。
最寄り駅の幸谷(こうや)から流鉄に乗ります。ホームに立つのは女性の駅員でした。
月曜日の昼下がり、しかも下り電車とあって、二両編成の電車の乗客はまばらでした。
全線わずか5・7キロ、所要十一分という短距離路線なのに、皆さんお疲れの様子で、グッスリというテイの乗客も。
流鉄ではスイカは使えないので、切符を買って乗車します。駅員の労力を省くべく、あらかじめ「入鋏省略」とプリントされていて、入るときはまったくのフリーパス。しかし、降りるときは無賃乗車の輩がいないかどうか、駅員が見ています。
軟券と呼ばれる薄っぺらい切符で、ポケットに突っ込んで、うっかり手を離してしまうと、どこかへ行ってしまいそうです。とくにいまの時期はスラックスも厚めの生地のものを穿いているので要注意です。
げんに何年か前、私は電車から降りる段になって、確かポケットに入れたはずの切符が行方不明になり、仕方がないから二重に払うか、と肚を決めたところ、よい駅員さんに巡り合って、いくらの切符を買ったかと訊かれ、即座に答えたところ、二重払いを免れることができた、という経験がありますが……。
幸谷から三つ目・平和台駅で降りました。一つ先はもう終点の流山駅です。
流山という町が味醂(みりん)発祥の地であり、いまもキッコーマンの工場があるということは知っていますが、この駅から乗ったことはあっても、降りたことはなかった(多分)ので、駅前にこんな標識があったとはついぞ知りませんでした。
流山街道と江戸川に挟まれて細い通りが走っています。その通りを江戸川の流れに沿って下って行くと、途中で天晴通りと名を変えます。
通りがアッパレなものになるからかというと、さにあらず。いまはありませんが、かつて天晴(あっぱれ)という名の白味醂の工場があったのです。
天晴通りを歩いて長流寺門前に差しかかりましたが、今日は立ち止まって拝礼するだけで通り過ぎます。
一茶双樹記念館。小林一茶のパトロンの一人で、味醂醸造家だった秋元双樹(双樹は俳号で本名は三左衛門)の資料館です。今日は月曜なので休み。
一茶双樹記念館の向かいにある、杜のアトリエ黎明も休み。
平和台駅から十分足らずで光明院に着きました。真言宗豊山派の寺院。先に触れた秋元双樹の墓があります。
光明院隣に目的の赤城神社があります。
境内は繋がっているので、自由に行き来することができますが、久しぶりにきたので、このほうが礼を尽くした感じになるのだろうと自己流の解釈をして、門前にまわり、門をくぐってお邪魔します。長さ6メートル半、重さ500キロという大しめ縄が提げられています。
境内の中ほどにあるムクロジ(無患子・葉っぱのないほう)の樹です。
幹にくくりつけられた説明板には、実を見つけたら自由にお持ち帰りください、と書かれてありますが、そう書かれているので、見つけられ次第持ち去られるのかどうか、私は何年かに一度はこの樹を見にきていたのに、実が落ちているところをついぞ見たことがありません。
枝にはまだ実が残っていましたが、この日も落ちた実はありませんでした。
無患子と再会を果たしたあと、すぐ近くにある流山寺にお邪魔しました。我が宗派・曹洞宗のお寺です。
かつての地元・北小金の慶林寺には毎日参拝していましたが、わずか一駅とはいえ、電車に乗らなければならない土地に引っ越してしまったので、毎日はもちろん北小金へ行く機会がないと参詣は叶いません。
流山七福神の一・大黒天が祀られています。
歴住の墓所横には「名月やいづれの用にたつけぶり」という栢日庵斗囿(はくじつあん・とゆう)の句碑と説明板。句碑は太平洋戦争中の空襲で被弾。いまも中央上部に痕跡を残しています。
江戸川の堤防へ出ます。菜の花はまだまだ見ごたえがありました。
堤防に上り切ったところは丹後の渡し跡でした。
堤防上の径を下流に向かってしばらく歩くと、千葉県道・草加流山線の流山橋東詰に出ます。
結構交通量が多い道路です。一瞬でも車の流れが絶えて、道路の両側にある桜並木が一望できる瞬間を待ちましたが、ついにそういう機会には恵まれませんでした。
長い間ご無沙汰を致しました。
ご無沙汰の原因は、以下のような事件に見舞われたからでした。時は十一月十二日の午前十時ごろ……。
私はその十日前から、いくつか持っている持病のうちの一つが発症していて、ようやく布団から起き上がり、立って歩けるようになったので、そろそろ病院へ行きましょうか、と考えていました。
目覚めていましたが、まだ布団の中にいました。消防車のサイレンの音を聞いたような気はしますが、はっきりとした憶えはありません。少なくとも至近ではサイレンの音はありませんでした。
ドンッ! とひと突きだけ玄関ドアが鳴らされました。アマゾンに注文しておいた品があって、それが届けられたのにしては時間が早いが、そうなのかなと思いました。返辞をしていないので、そうであればまたノックがあるはずですが、ドンッ! のあとは音はしませんでした。
やがて野焼きのような臭いが漂っているのに気がつきました。我が庵付近では、いまごろになると野焼きをする畑があります。しかし、それにしては臭いが近すぎるように思えました。なんだろうと思いました。外では消火作業が始まっていて、決して静かではなかったはずですが、私にはそのような喧騒はまったく聞こえませんでした。
私はルームウェアの上にちょっとだけ厚めのウィンドブレーカーを羽織って外に出ました。目覚めてから随分時間が経っていましたが、まだ寝ぼけているのかと思いました。流れてくる濃い煙と地面に伸びている黄色いホース、その向こうに消防隊員や、私と同じように着の身着のままで立ち尽くしているアパートの住人の姿を見ました。振り仰いでも、私の場所からは火は見えませんでした。
同じアパートの住人に誘われるようにして向かいの空き地に坐り込みました。呆然としたまま過ごした時間。
出火から二時間半。なんとか鎮火。
燃え盛る火を呆然と見て……やがて少し落ち著きを取り戻したころ、滅多にない機会を写真に……と思いましたが、まさに着の身着のままです。私の手許にはいつもトートバッグに忍ばせているカメラもスマートフォンもありません。
やがて消防団員がやってきて、「部屋からとってきてほしいものはありませんか」というので、枕許のあたりにあるはずのスマートフォンと布製のトートバッグ(財布とコンパクトデジカメが入っている)を、というと、とってきてくれました。
遅ればせながらカメラを構えました。すでに警察官による事情聴取などが始まっていました。画像左が我が庵のあったアパートです。
中央・二階の部屋が火元です。
我が庵はその左下。カーテンが半分開けられています。前にはハゼ(櫨)とムクロジ(無患子)が植えられています。このときはまだ転居のことなど考えられませんでしたが、掘り返して持って行くわけにはいきません。二株あるツワブキ(石蕗)も同様です。
原因はタバコの火の不始末。火元の部屋は天井まで抜けてしまっています。我が庵の右隣に当たる真下の部屋は直前に退去していて無人でした。
緊急避難した旅館です。
阿弥陀如来の縁日(十五日)、観音菩薩の縁日(十八日)、自分の月誕生日(二十七日)、と毎月三日はこの旅館の前を通って東漸寺(画像奥に見える林)に参拝していました。
前を通りながら、一度こんな旅館に泊まってみたいものだが、そんな機会はないだろうな、と思ったことがあったのでしたが……。
部屋へは外から直接出入りができました。むろん鍵は掛けられましたが、着の身着のままの独り身、財布以外は盗られて困るものもないので、いつも開けっ放しで出入りをしていました。
玄関を開けると、こんな眺め。
部屋はこたつのある、この一室と左奥にある寝室の二間。上がり框の左に洗面所、右にトイレと風呂場。
食事付きではなかったので、三食買いに出なければなりません。食事を供する店でゆっくりと……というような気分にはならなかったので、いつもスーパーで買ってくる、おにぎりや弁当。電子レンジがないので、冷たい飯をモソモソと……。
こたつのある部屋にはテレビと石油ファンヒーター。新居捜し、火災保険の調査員の立ち会い……等々で出かけることが多く、ゆっくりとくつろぐことはできませんでした。
このようなところで過ごしたのは、新居が決まるまでのちょうど一週間。長かったような……あっという間に過ぎ去ってしまったような……。
寝室は日中も布団が敷きっぱなし。二組ありますが、むろん私には枕を並べて寝る人はありません。
※デスクトップPCもノートPCも消火の水で水没。十一月二十六日に新居のインターネットが開通、友人から処分する寸前だったノートPCを譲り受けて、やっとブログを更新できる状態に戻りました。手書きで残しておいた日記兼メモを元にブログを更新したので、更新日はメモに残した日付で、実際とは異なっています。
今日から七十二候の一・天地始粛(てんちはじめてさむし)です。
「粛」とは、弱まる、しずまるという意味のようで、夏の暑さがおさまる、ということになるみたいですが、手持ちの漢和辞典にはそういう意味は載っていません。図書館へ行けばわかるかも、といっても、近くには市立図書館の分館しかないので、大漢和辞典のたぐいはありません。いつ解明できることになるのか。市立図書館の本館か県立図書館へ行く機会を探っているうちに、疑問に思ったことを忘れてしまう、ということのほうが早そうです。
涼しくなるとはいっても、現実は一昨日二十六日の我が地方は最高気温36・0度。昨日は34・7度と依然真夏の様相です。
毎日の日課である慶林寺参拝に赴くとき、二日か三日に一度くらいの割合で通り抜ける駐車場です。昨日は別の道を通りましたが、一昨日は確かここを通ったはず……そのときにはあったはずのものが……今日は、ない!
何がなくなったかというと……イヌホオズキ(犬酸漿)です。
一昨日までこのようにイヌホオズキがあったのですが……。
本土寺参道。騒々しかったミンミンゼミの啼き声はいつの間にか途絶えて、ツクツクボウシの声が多くなりました。
帰るときに本土寺仁王門前まで行くと、ほんのちょっとですが、遠回りになります。
観光シーズンからはずれたいまの季節。参拝客の姿はほとんど見られません。
本土寺参道を歩いて帰ろうとしたのは……もしかしたらイヌホオズキがないだろうかと思ったのですが、目につきませんでした。
我が庵のすぐ隣では、一週間近く前から一軒の民家の解体工事が始まっています。私がいまの住居に引っ越してきた十一年前、すでに主のいない家になっていましたが、取り壊されることはなく、ずっと空き家のままになっていたのです。
まだ八時になっていないという早い時間なのに、声高に話す人の声とピーピーとトラックがバックするときの音。
ブォーッブォーッバリッバリバリッとユンボが動き、家屋を崩す音。それが静まったかと思うと、ピーピーとトラックがバックする音。
何日つづくものかわかりませんが、私が考える世間というものは、お騒がせして相すみませんと挨拶があるものです。いつのころからか、そういう風潮が廃れてしまいました。
そういう残念さとは別の残念は、この家の庭に高さ4メートルぐらいのギンモクセイ(銀木犀)の樹があったことです。重機がアームを振り回すのに邪魔だったのか、解体が済めば売却するつもりなので、庭木などないほうがいいと思われたのか、アレッと私が思ったときには伐採されて姿を消していました。
慶林寺の観音像です。
観音様の右手の掌紋がなんとなく私の右手の手相と似ている。自分以外のほかの人の掌がどんな文様をしているのか、これまで注意を払ったことがありませんが、戯れ半分で人と見比べあったのは小指の長さでした。私の小指はこの観音様の小指ほど長くはありませんが、薬指の第一関節より少し長いのです。
ある性格判断では、そういう小指の持ち主は「人を寄せつける魅力のある人気者、チャーミングで社交的な性格なので、きっと友達が多いはず」とありましたが、これはハズレもハズレ、大ハズレでした。
ちなみにこの観音様は薬指と同じような長さなので、その性格判断によると、非常に珍しいタイプで、世界を変えるような指導者になる可能性を秘めている、とありました。
久しぶりに入院することと相成りました。九年ぶりです。
入院といっても、それほど大それたことではありません。
目的は大腸の検査。
かすかな下血が見られたので、ポリープがあるのだろうとの診立てだったのです。検査して、何事もなければ入院の必要はなし、あればその場で切除を行なうので、最低一晩の入院が必要。そう事前にいわれていたので、着替えの下着とパジャマ代わりのショートパンツと大きめのTシャツをトートバッグに詰め込んで検査に臨みました。
大腸ポリープの切除を経験するのは二度目です。前とは病院が異なるので、段取りも違っています。入院するのに気乗りがしないのは一緒です。
受付を通すと、しばらく待たされたあと、看護師がやってきて、点滴室と書かれた部屋に案内されました。
検査に臨むのに当たって、二日前と前日の夜七時に、それぞれ画像左のラキソベロン液、同八時に右のセンノシド錠を二錠服みました。
そして前日は、この紙パックに入っている、鶏と卵の雑炊(朝)、ゼリーミール二つとビスコ(昼)、煮込みハンバーグと白がゆ(夜)。
味はごく普通で、量的にもさほど不足はありませんが、普段の食事はとらない代わり、というわけですから、恐らく消化器内に残らないようなつくり方がしてあるのでしょう。
そして検査当日……。
病院に着いたのは朝早く(午前八時)、このマグコロール散をチビリチビリと飲みます。九年前の日録をひもといてみると、検査に先立って服んだのはスクリット配合内用剤で、同じ大腸検査・腹部外科手術前処置用下剤ですが、病院で服まされたのではなく、家で服んできたのでした。
肛門からエアーを入れて腸壁を伸ばすので、腹がはち切れるのではないかという痛みを覚えた記憶が蘇ってきましたが、今回は特段のことはありませんでした。
大腸ドットコムというサイトによると、ヘタッピな医師にかかると、腹がはち切れそうな痛みに苦しみ、上手な医師であれば、ほとんど気づかないうちに終わってしまうということですが、今回はほとんど痛くなかった代わり、いつまでもゴソゴソと腸内で蠢く感じがあったので、中の上か。
組織を採取。たんなる良性のポリープか、あるいは悪性か。ポリープが二つあり、無事切除。検査の結果、二つとも良性でした。
乳酸リンゲル液です。
数時間で終わりますが、久しぶりの点滴生活です。
十二年前、胃潰瘍で入院したとき、クリスチャンの友が無事の退院を願って送ってくれた守護神ミカエル。
いつもは自宅の鴨居に吊るしてありますが、二度の入院では特段困ったことにはならなかったという縁起をかついで、今回も登板願うことにしました。
ただ、ベッド周りには吊るすところがなかったので、サイドテーブルの上に置いて見守ってもらうことにしました。
ポリープを二つ切除した時点で、(良性だったので)入院は一晩だけと決まりました。
入院時に提出する書類(病院関係者の指示に従うという誓約書とか連帯保証人だとか)に記入したり、独り身だといろいろ面倒です。
入院は一晩だけなので、テレビカードは買わないことにしました。荷物が多くなるのを嫌って本や雑誌のたぐいは持ってきていません。そもそも目の衰えが始まってから読書というものをしていない。すると、無聊を慰めるものはスマートフォンしかありません。パソコンのキーボードでもミスタッチすることが多くなってきたのに、太い指でスマートフォンのちっちゃなキーボードをイジったところで、ミスタッチの連続。キャリアに勧められるままに買ったスマートフォンだからかどうか、触っていないのに画面が飛んだりします。
入院の翌朝-退院前に供された朝食です。
左上の丸い小鉢ははんぺんと小松菜の煮物、下はお粥。真ん中はお粥の味付け用の味噌ですが、なんとも微妙な味。右上の四角い小鉢は胡瓜&キャベツ&人参の酢の物かと思ったら、さにあらず。これも微妙な味。右下は麩が三つだけ入った味噌汁。
入院前にとった最後の食事は三十六時間も前だったというのに、食欲はありませんでした。夜勤のナースから、食欲がない場合はポリープの切除に問題があったという可能性がある、と脅されましたが、やってきた医師の診立てでは特段の異常はみられないので、無事退院という運びになりました。
退院後は庵に帰ってからまた出直してくるのもしんどい思いがしたので、足取りは覚束なかったのですが、病院帰りに日課の慶林寺参拝を済ませました。
残り花-今年は終わったと思っていたハス(蓮)の花がまだ残っていました。
今日六日はヒロシマ七十六年です。増加する一方の新型コロナの新規感染者数と、私としてはやらないほうがよかったんじゃないのでしょうか、と思うオリンピックのせいで、TVニュースの扱いも二の次三の次。すっかり影が薄くなっています。
八時過ぎ ― 私としては珍しく早い時間に庵を出ました。
三日後、大腸の内視鏡検査を受けて(もしポリープ等があれば、切除した上で)入院、ということになっているので、新型コロナウイルスのPCR検査を受けたのです。
庵を出るとすぐいくつかの幼稚園や保育園が送迎バスの停車ポイントにしている場所を通ります。「おはようございます」「おはよう」
「信じらんなーい、よね」
三人いたママグループの中で、一人のママの叫ぶ声が聞こえました。通り過ぎて行く瞬間、耳にしただけですが、そのあとの相槌からして、福岡県で置きた幼児の死亡事故だとわかりました。
幼稚園の送迎バスですから、何十人も乗れるような大型ではなく、十数人しか乗れないマイクロバスでしょう。そんな小さなスペースなのに、取り残されている幼児がいるかいないか、気づかないはずがない。
受付を済ませたのは八時四十五分。いつも通っている病院ですが、こんなに早い時間にきたことはありません。待合室にいる人影もまばらです。
内視鏡検査室。
「どうぞこちらへ……」。看護師に促されて入ったのは二十日ほど前、上部消化器の検査のために入らされた診察室です。
このベッドに横たわって胃カメラを咽んだのです。右に写っているのがファイバーの機器です。
PCR検査を受けるのは初めてですが、唾液による検査だと聞いていたので、こんなところへ通されて、どのように大がかりなことが待ち受けているのかと危ぶんだら……。
たんに人のいないところで、という配慮だったようです。
この容器 ― 看護師に確かめたところ特別な呼び名はないようです ― に、親指で押さえているあたり、5ccの目盛りのところまで唾液を溜めて、「溜まったら呼んで下さい」。そういって看護師は出ていってしまいました。「うん」と自分に頷いて唾液を吐こうとしましたが、緊張しているのか、緊張すると唾液は出ないものか、なかなか思うようになりません。
眠っているとき、気づくと枕を濡らしていることがあります。涙ではありません。恐らくだらしなく口を開けて、涎を垂らしているのです。
5ccまで溜まりませんでしたが、これ以上は無理だと思えたので、通りがかりの別の看護師に声をかけました。その看護師は「はい」といって受け取って立ち去りました。
最初の看護師がくるものと思って待っていたら、女子事務員がきて、「今日は会計はありません」といいながら、私の診察券を返してくれました。
内視鏡検査室やレントゲン室などは病院の奥のほうにあります。
「お帰りになって結構です」
そう事務員がいって、私がいた内視鏡検査室とは廊下を挟んだ反対側の扉を開けてくれると、道路の向こうに見たことのあるような石塀がありました。見たことがあるのは道理、この病院の出入口の直前にある家の塀で、つい何十分か前、今日はどうなるのだろうかと(恐らく)心配顔の私が通り、病院に入るときに見たばかりだったのです。
外に出たときに振り返ってみると、救急搬入口でした。ときたま救急車が停まっているのを見たことがあります。人目を憚って通常の出口を示さなかったのはなく、たんに近かっただけなのかもしれませんが……。
見上げると、今日も眩しいような空でした。カッと照りつけてくる陽射しはとても敵いませんが、雲は気持ちがいいほどの白さです。