十五日がきたので、阿弥陀様の参拝に行かなければなりません。火事に遭って引っ越すまでは、阿弥陀参りは北小金の東漸寺と決めていたので、なんら迷うことはありませんでしたが、新松戸へ引っ越した現在は東漸寺まで歩くと二十七分(グーグルマップに基づく計算)とかなり遠くなりました。代わりに阿弥陀様をお祀りしているお寺は? というと、馬橋の萬満寺があります。
今月はこの萬満寺にしましょうと決めて行ってきましたが、帰ってきてから、グーグルマップを基に計算してみると、二十六分と東漸寺へ行くのとほとんど変わりがありませんでした。
流鉄沿線にはところどころで黄蜀葵(トロロアオイ)が花を咲かせていました。
台風8号は我が地方は雨も降らせず、大風も吹かせずと、さして被害をもたらせたとは思えませんでしたが、それでも風がちぎって行ったのでしょう。結び始めたばかりだと思われる栗の実が落とされていました。
北小金を離れてしまったので、今年はあまり見ることのなかった臭木(クサギ)。花期を終えようとしています。
今日、行き合った流鉄は菜の花号とあかぎ号の合体編成でした。
我が庵を出て、十数分歩いたところで流鉄の踏切を渡ります。
常磐線の向こう側へ行くのに、これまでは三村人道橋という跨線橋を利用していたのですが、最近、地下通路があるのを発見しました。跨線橋は幅が広く、高所恐怖症を持つ私でもなんとか渡ることができますが、あくまでも「なんとか」であって、まったく平気というわけにはいきません。それに較べれば、地下通路があるというのは助かるゥ~。
ただ、通路の階段の段数はわずか二十五段に過ぎないのですが、下りはやはり鬼門です。
地下通路を出ると、消防団の倉庫がありました。二階部分にある格子窓の下に「松戸市消防団・三ケ月消防センター」とステンレス製らしい切り文字が貼り付けてあるのですが、長年の風雨に晒されて、遠くからではまったく見えません。肉眼でも見づらいので、カメラの画像ではなおさら。ことにこの日は曇り空でした。三ケ月は「みこぜ」と読みます。
いつも渡ってきた跨線橋の降り口前を通ります。
道々、仏桑花(ブッソウゲ)の花も見かけました。
トロロアオイはその名のとおり、アオイ目アオイ科アオイ亜科の多年草。ブッソウゲもアオイ目アオイ科アオイ亜科ですから、かなり近い親戚といえますが、こちらは草ではなく樹木です。
遠回りせず、王子神社の脇をすり抜けて行ける径も見つけました。
王子神社の前には目指す萬満寺の通用門があって、ここが開いていれば、大回りしなくても本堂の前に出られるのですが、閉ざされていました。
今日は神社前は素通りです。
萬満寺に着きました。
仁王門。
そして本堂。
お賽銭をあげてお参りしたあと、一息ついて本堂から見下ろす境内です。ここの石段も数えるまでもないようなわずかな段数ですが、手すりを頼りに下らなければなりません。上りは手すりも必要としませんが、行きはよいよい帰りは……です。
帰りは馬橋駅に出て、ひと駅だけ電車に乗ります。
今日十二日から七十二候の蓮始開(はすはじめてひらく)です。
近くには蓮の花がないので確かめようがありませんが、季節的にはもうとっくに咲いていなかったっけ…そう思ってPCにストックしてある去年の画像を捜してみると、かつて日参していた慶林寺ではすでに先月の十三日に初開花がありました。
今年は梅雨入りががあったような、なかったような、という奇妙な天気に加えて、六月の終わりに真夏がやってきてしまう、というような「とりわけ」つきの異常気象つづきですから、まだ蓮の花は咲いているだろうかと訝りながら、慶林寺へ出向きました。
去年、火事に遭って転居を余儀なくされたので、徒歩で慶林寺へ参拝に行こうとすれば、往復一時間近くかかることになり、とても日参という具合にはいかなくなってしまいました。参拝に向かうのは久しぶりです。
今日十二日は薬師如来の縁日でもあり、毎週一度のボランティア活動に参加する日で、慶林寺近くにある活動のセンターへ出向くついでもありました。参拝してお賽銭をあげ、ついでに蓮の花の様子でも探ろうと出向いたわけです。
本尊が薬師如来というお寺です。
引っ越してしまうまで、毎月八日はちょっとした遠出となる薬師詣でに出かける前、このお寺に参拝してから電車に乗ったものでした。八日に薬師詣でを済ませることができた月は、十二日の縁日はこのお寺への参拝のみ。八日が雨降りだったり、体調が悪くて遠出を断念しなければならなかったような月は、十二日にここに参拝してから電車に乗ったものです。
蓮の花は観音像の前にあります。
とっくに明けたはずの梅雨が舞い戻ってきたような曇り空の下で、いま一つ映えませんが、咲いていました。参拝したのは午後早々だったので、朝開いた花が閉じかけているときだったのでしょう。
こちらは閉じてしまったあとなのか、明日初めて花開こうとしているのか。
去年は白い花も見かけましたが、今年は見当たりませんでした。
参道に咲く牡丹臭木(ボタンクサギ)は例年どおりでした。
先月二十五日に行った小岩菖蒲園はよく調べもせずに行ったので、時期が早過ぎてほとんど花がありませんでした。そこでリベンジを果たすのであれば、堀切菖蒲園か水元公園、ということになるのですが、歳を重ねても、というか、重ねたからこそ、というのが実態なのか、臍曲りが昂じてきた私はちょっと違うところを捜すのです。
割りと近場で、菖蒲園があって、これまでに行ったことがないところ、とインターネットをサーフィンしていたら、足立区しょうぶ沼公園というのが見つかりました。最寄り駅は営団地下鉄北綾瀬。綾瀬からわずか一駅ですが、これまで降りたことのない駅です。
常磐緩行線で東京へ向かうとき、電車が綾瀬に近づくと、「北綾瀬へお越しの方はゼロ番線……」と車掌がアナウンスするのを聞いていたので、どんなところであろうかといつも思っていましたが、用もないのに駅だけ見に行くというオタクではない私には縁のない駅……と思っていたのですが、こんな形で行く機会が訪れようとは思ってもみませんでした。ハナショウブを見たあと、綾瀬駅まで歩いて帰ることにすると、途中に龍慶寺という、我が宗派で、薬師如来をお祀りするお寺があるので、参拝して帰ることにします。このお寺を訪ねるのは初めてではなく、2017年八月に薬師詣での参拝をしています。
今朝、ほんのちょっとしたことですが、嬉しいことがありました。薬師如来の縁日である十二日には一日遅れではあるけれども、近くへ行くからには、お参りしようと考えていたので、嬉しいことがあったのも、きっとお薬師さんのお恵みであろうと勝手に考えました。
東京メトロ千代田線の綾瀬で乗り換えて、北綾瀬へ。
目指す公園は駅のすぐとなりでした。開催期間を見てみると、今日はちょうど真っ盛りなのでしょうか、ということになりました。
公園の中を涼しげなせせらぎが流れています。目指す菖蒲田は公園の南側の一角にあって、八千百株のハナショウブが植えられています。二十日ほど前に観に行って空振り三振を喰らったテイの小岩菖蒲園が約五万株に比べると、規模は比較になりませんが、品種は百四十種(小岩は百種)とこちらのほうが勝っています。
品種を記した木札には、いずれもカッコの中に「江」と記されていますが、ほかに「伊」、あるいは「肥」と記されているものがあります。「江」とは江戸系のこと、「伊」「肥」はそれぞれ伊勢系と肥後系のことで、栽培されていた地域です。
木道は狭いので、一方通行になっていますが、見て回っている人たちは年配者が多かったからかどうか、守らない人がたくさんいました。かくいう私も、注意書きに気づいたのは一通り巡り終えて、そろそろ引き上げますか、と思い始めたときでした。
ハナショウブの鑑賞は適当なところで引き揚げて、龍慶寺を訪ねることにします。
しょうぶ沼公園からのんびりと歩くこと七分。かすかに見覚えのある水神宮の前を通り過ぎると……。
龍慶寺です。
創建は正保三年(1646年)、開山は春日部市にある浄春院の第七世・天室秀梵大和尚です。
本尊は釈迦三尊ですが、閻魔王、不動明王などとともに薬師如来が安置されています。 冒頭に、五年前の八月に薬師詣でで参拝していると記しましたが、初めてきたのはそのときではなく、十一年前、2011年八月のことでした。
門前右側、曹洞宗龍慶禅寺と彫られた石柱に相対して、左側には日限薬師如来と彫られた石柱がありました。
我が宗派のお寺に参拝するときは歴住の墓所に参拝するのを常としています。前回きたときは参拝したのか、薬師詣でが目的できていたので、忘れて帰ってしまったのか、前にきたのは五年も前のことなので、記憶はおぼろです。
帰りは綾瀬駅まで二十分かけて歩きました。
中休みとはいえ、梅雨のさなかだったのに、雨の降る気配はまったくありませんでした。これも薬師如来のお恵み?
火事に遭遇して転居を余儀なくされてから半年が過ぎました。
毎月八日の薬師詣ででちょっとした遠出をするほかは、毎日の買い物で近隣を歩く以外、どこかに何かを見に行こうという気が起きませんでした。しかし、自分では鬱屈していたとは感じていませんでしたが、ふと花-ハナショウブ(花菖蒲)-を見に行こうという気になって、実際に出かけてみると、三時間足らずの小旅行、しかも肝心の花はほとんど空振り、というようなことでも、わずかながらも気分が霽れ、気づかぬうちに鬱屈した気分で過ごしていたのだということを知りました。
ハナショウブを見に出かけたのは江戸川区の小岩です。常磐線を金町で降りて、京成金町駅から京成線に乗ります。
京成高砂で京成本線に乗り換え。二つ目の江戸川で降りました。改札を出ると、目の前に案内表示がありました。英語表記を見て、アイリスがハナショウブであったのかと思いを新たにしました。
駅を出ると、江戸川の堤防は目の前でした。
いまから五十年近く前、私は雑誌記者として初めて社会に出ました。当時棲んでいたのは千葉県の船橋。総武線で飯田橋まで通っていました。この菖蒲園が開設されたのは昭和五十七年六月だそうですから、五十年前というと、まだなかったのです。
そのころ、通勤の途中にある小岩は、ちょっとした縁から仕事帰りに立ち寄るようになり、やがて住居があるわけでもないのに、なかば住んでいるのと同然というふうになりました。
ただ、一口に小岩といっても、私が根城のようにしていたのは、小岩菖蒲園からは江戸川の1キロほど下流、歩くと十二~三分かかる、総武線の小岩駅周辺で、菖蒲園が開園する前、この地には何があったのかわかりません。
この菖蒲園の広さは4万9千平方メートルといいますから、東京ドームと同じ広さです。そこに五万本もの花菖蒲が植えられています。
堤防を上り、てっぺんから見下ろした景色です。彼方に見えている建物はすべて江戸川の流れを挟んだ隣県・千葉県市川市の建築物です。
視界は360度と広々としているので、さほどのことはないと思える石段ですが、実際に降りようとすると、視界を遮るもののない三十三段は、高所恐怖症持ちの私には手すりがあっても決死の覚悟を固めなくてはなりません。
堤防から見下ろしたときはただただだだっ広い草原があるだけのように見えました。入ってみると、時期的に少し早過ぎたと思い知らされました。
植えられているという五万本もの花が一斉に咲いたとしたら、一体どんな光景だろうかと考えさせられますが、現実はほとんど花のない光景を眺めるばかりでした。
花を見る代わりに名札を見て行くと、「邪馬台国」と書かれたものがあり、一体どんな花で、命名のいわれはどんなことかと興味を掻き立てられたりしますが、解説してくれているようなものは見当たりません。
咲いているところでも花はチラホラとしかありません。
このへんだとまるで稲刈りが終わり、再び伸び始めた稲を見ているようです。
数尠い花を捜して歩きます。
小さな池があり、睡蓮が咲いていました。肝心のハナショウブがないので、腰を下ろしてこちらに見入ったりします。
完全な夏空でした。
咲いていた花(これから咲くと思われる花も)はショウブなのかハナショウブなのか。見頃はまだだとすれば、いつなのか。スマートフォンは持っていましたが、検索してみようとしても、強烈な陽射しの許では画面がまったく見えません。
数尠ない木陰が気持ちよさそうな日和ではありました。
帰りは一駅先の国府台へ行くと、松戸駅へ行くバス便があるので、里見公園のバラでも観て行こうかと思っていましたが、アテが外れてしまったので疲労感は倍増。
くるとき、高砂駅のコンコースに鯖ずしを売る臨時売店が出ているのを見かけていました。里見公園へ行くのはやめにして、友人への土産に買って帰ろうという気にもなったので、同じ経路で帰ることにしましたが、高砂駅に着くと、踏切の鳴る音(金町線は電車の発車ベルが踏切の警報音なのです)に釣られて、ついつい小走りになってしまって、鯖ずしのことを思い出したのは乗った電車が発車してしまってからでした。
新たに移った新居近くにも「とちのき通り」という名の街路があります。
「近くにも」というのは、火事に遭って転居を余儀なくされる前に棲んでいた旧居近くにも同じ名の通りがあったからです。ともに街路樹にトチノキが植えられているのでつけられた名前というわけで、二本の通りはまったくの別物、繋がっているわけでもなく、関連があるのでもありません。
ただ、新しく知ったとちのき通りのほうは、新坂川右岸から坂川左岸を一直線に結ぶ全長1・3キロほどの道路ですが、買い物とか散策とかで足を向けるような用向きのある方角ではないので、地図で名前を知って、そのうちに、などと思いながら、最近まで歩いてみたことがありませんでした。
で、日々の散歩のついでに、少し足を延ばして歩いてみようかというわけです。
私にはすっかり馴染みとなっている栃の樹影と葉です。
のんびりと歩いているうちに、オヤ(?)と思うものを見つけました。一本だけ赤い花をつけた樹が混じっていたのです。
居並んでいる栃の樹々と較べると、丈も低いし、幹も細くて貧弱です。栃は桜や杏などとは違って、花を目当てに見に行くような樹ではないし、ときどき歩いていた前のとちのき通りも、たまたま花の季節には歩かなかったのか、実物を見たことはありませんが、樹木図鑑で花の色は白だと知っていました。そこに異例の紅い花……。しかも樹高、樹影から見て、絶対に栃ではない。
なぜにとちのき通りに栃ではない樹が……と首を傾げながら、さらに歩くと、もう一本ありました。花は別として、葉っぱを見ると、いささか小ぶりではありますが、栃に似ています。
庵に帰り、手持ちの樹木図鑑を紐解いてみると、ベニバナトチノキ(紅花栃の木)という項目があって、北米原産のアカバナトチノキとヨーロッパ原産のセイヨウトチノキ(フランスでの呼称・マロニエといったほうがとおりがよいかもしれません)との交雑種だということがわかりました。
新居と定めた先の玄関前でポツンと一輪だけ咲きました。春になるといろんなところで見かけるこの花。私はよく調べもせず、ポピーだと思いこんでいました。
近くのアパートの通路です。こんな色鮮やかな花を見かけたので、人影がないのを確かめ、数歩、いや、十数歩足を踏み入れて盗撮。
赤・白・黃・ピンク・オレンジと五色もありました。なんという名の花であろうかと思いながら、スマートフォンのカメラに収めたあとは、素知らぬ顔を装って道路に戻り、撮った画像をグーグルレンズで検索すると、なんとポピーと出ました。では、私がポピーだと思いこんでいたのは何か、とこれもグーグルレンズで検索すると、長実雛芥子(ナガミヒナゲシ)。
はて? 「ヒナゲシ」というからには確かにポピーの仲間で、私の思いこみも決して的はずれではなかったようですが、ナガミヒナゲシの「ナガミ」とはどういう字を当てるのだろう。首を傾げても、外にいるときなので、どういう字を当てるのかわかりません。
パソコンとしての機能をスマートフォンに求めると、いつも「A」のキーにタッチしたつもりなのに、隣の「S」にタッチしていてイライラするだけなので、検索できる機能を手元に持ちながら、かかってきた電話に応対することととっさのカメラ機能のほかはあまり使わないことにしています。
※帰ったあと、植物図鑑を紐解いて、「ナガミ」は「長実」だとわかりましたが、私の植物図鑑にはなぜそのような名がついているのか、記載がありません。
ほんまもののポピーを間近に眺めたのは恐らく初めてではないかと思いながら、これまで私が勝手にポピーだと思いこんでいた花を見かける季節がくると自然に思い出す、アグネス・チャンのことを思いました。
私が初めて社会に出たのは出版社でした。当時は十七大雑誌を擁する、というのがその出版社の謳い文句で、成人男性向けの週刊誌から文芸誌、女性誌、幼稚園児対象の雑誌まで、週刊月刊を合わせ、十七もの雑誌を発行する会社でした。
それとアグネス・チャンがどう結びつくのかというと、ちょうど五十年も前、アグネス・チャンが日本でデビューすることになって、十七大雑誌の大部分の表紙が一斉に彼女の顔で飾られることになって、仰天したことがある、という思い出を思い出すのです。
それぞれの雑誌の発売日がくると、それぞれの雑誌の庶務係が自分たちの雑誌を社内に配って歩きます。外に出ることの多い職場だったので、外出先から戻ると、その日発行された雑誌が自分の机の上に置かれているのを目にします。最初に目にしたのがどの手の雑誌であったのか、すでに記憶はありませんが、アグネス・チャンの笑顔が私の机の上にデンと置かれているのを見て、そのときは「へぇ」と思い、数日後は別の雑誌が置かれていて、「おやおや」と思い、さらにまた……となると、……です。
その彼女のデビュー曲でもあり、代表曲でもあるのが「ひなげしの花」です。
昔のことを思い出して、ちょっぴり感傷的になったあと、そのアグネス・チャンともひなげしの花とも関係なく、ふと馬橋まで歩いてみようという気になりました。何をしようというハッキリとした目的があったわけではありません。
道すがら見かけた廃屋。居酒屋とスナック(上)、下は真ん中の布団屋を挟む両側とも?。
この日、私が歩いていた道は十年以上も前、二度か三度か歩いたことがありますが、むろん風景などは記憶にありません。ただ、道路沿いに店などはなかった道にチラホラと店があるようになって、馬橋の駅も近そうだと感じられたとき、緩い斜面にこんもりとした杜があるのが視界に入ってきました。この杜が馬橋王子神社であり、さらにその奥には萬満寺がある、ということは、とっさのことで結びつきませんでした。
この杜の中に入って行けそうな径はすぐ近くにはありませんでした。しばらく歩き、果たして方向は合っているのだろうかというあたりで、ようやく曲がることができると、殺風景な空き地の向こうに社殿が見えました。
馬橋王子神社です。祭神は幸江序命、市杵島姫命、猿田彦命。最初の幸江序命は「さちえわけのみこと」と読むようですが、登場する史料のたぐいはなく、祀っているのも全国にあまたある神社の中でも、この神社だけのようです。
境内には王子神社由来として次のような掲示がありました。
「馬橋の古刹萬満寺の守護神として創建。萬満寺は古くは大日寺と称し建長八年(1256年)に千葉氏一門の菩提寺として開山建立。当時、馬橋一帯は砂丘で水が乏しかったため諏訪明神を勧請し寺領の鎮守とした。十六世紀半ば熊野の若一王子を勧請し王子権現社とした。明治六年の神仏分離にて萬満寺と王子神社に分離される。終戦後は宗教法人王子神社となり、現在に至る」
境内社の三峯神社。
すでに枯れてしまっている御神木。一本に見えますが、エノキ(榎)とムク(椋)がピッタリと合わさっているのだそうです。
掲示板によると、樹齢は三百年。かつては25メートルという高さを誇ったらしいとのこと。二本の樹がまるで仲睦まじい夫婦のように寄り添っているので、別名・夫婦木。
いつごろのものかわかりませんが、昔の道標です。「右印西道・左小金道」と彫られているので、ここから近い旧水戸街道の分かれ道にあったものだと思われます。
狛犬(?)だと思われますが、対にはなっていなくて、一基だけ。見たところ陶器製というのも珍しい。
細い径を一本挟んで隣は萬満寺です。今日は参拝せずに帰ります。
帰り途、我が庵近くの、その名のつけられた通りに差しかかると、アメリカフウの若葉が出始めていました。ケヤキ(欅)などはとうに芽吹いて、すでに青々としているのに、この樹はどうもおくてのようです。
アメリカフウはその名のとおり、北アメリカ中南部から中央アメリカにかけてが原産地。別名・モミジバフウ。
よく見れば、こんな低いところに多数の芽吹きがありました。毎年毎年、冬が近づくと枝が払われてしまうので、葉っぱの出しどころを求めて、体内をさまようのでしょう。
これは幹からではなく、ほとんど根っこからの発芽です。
昨日はいつもの年より一日早い二十四節気のうち霜降でした。我が地方では、実際の霜はまだ降りませんが、今朝はさすがに冷え込んで、今季最低の6・9度を記録しました。
これまで気がつきませんでしたが、花縮砂(ハナシュクシャ)が散歩や毎日の日課である慶林寺参拝に向かう径にあります。
三日前の二十二日、七輪ある蕾のうちの一輪だけ花が開いていたので気がつきました。そして昨日、下の画像のように五輪が開きましたが、今日は五輪ともすでにしぼんでいました。
これまでたまたま花の咲く時期には通らなかったのか、ミョウガやショウガをバカでかくしたような茎と葉っぱだけが記憶に残っているだけで、花を咲かせるとは思いませんでした。
手許にある花図鑑を開いてみると、なるほどショウガの仲間で、原産地はインドとマレー半島とあり、夕方になると花を開く、と解説されています。「縮砂」などという面妖な名前がつけられていることについては、花図鑑には記載がありません。
いつごろからか、夕方になるとあまり外へ出ないようになっていたので、花に気づくことはなかったのか。ふむふむなるほど、と思いながらも、日中は閉じているとはいっても、この大きな花弁が消えてしまうことはないはず……不思議不思議と訝りながら、ひととき、かたわらに佇んでいました。
初めて注目した花でしたが、気がついてみると、近辺には結構植えられていました。ただ、偶然かどうか、畑の境目、ということが多いのです。
慶林寺のミカン(蜜柑)が色づいてきました。
夏の間、私の目を楽しませてくれた慶林寺参道の牡丹臭木(ボタンクサギ)ですが、ほとんどの株は花を終えていたのに……。
一株だけ満開でした。
夕方になっても空は快晴に近く、強い陽射しが溢れていました。富士川の対岸に映る自分の影を、戯れにカメラに収めました。
私の許に贈られてきて、十二年目を迎える石蕗(ツワブキ)です。葉っぱに斑が入っているのといないのとの二種あって、これはないほう。去年までは蕾の茎はせいぜい二本か三本しか出なかったのに、何があったものか、今年は大豊作です。
蕾はまだ無数残っていて、一体全体何輪咲くのか予測ができません。
今日は阿弥陀様の縁日。いつもとは異なって、一日の始まりは阿弥陀様をお祀りしている東漸寺へ参拝することです。日課の慶林寺参拝は午後になりました。
東漸寺ではショウジョウソウ(猩々草)がまだ枯れずにありました。
今年初めて知った草なので、いまは緑色をしている種が、この後どんなふうに変化して行くのか、見るのが愉しみです。どんな状態になったら採取していいのかなど、播く時期を調べ、できることなら我が庭で栽培してみたいと目論んでいます。
ただし、ヤブミョウガ(藪茗荷)、フジバカマ(藤袴)などの野草はもちろんのこと、ガーデニングショップで売られている草花の種子すら育てることがむずかしい私の技量と癖の強い庭の土では、至難のことであろう、と試す前からなかば諦めてはいますが……。
慶林寺では萩が花盛りを迎えていました。
参道のハナミズキ(花水木)は早くも紅葉が始まっています。
普段の買い物とは違い、ときたまドラッグストアへ買い物に行くときに通る公園です。この公園ではユリノキ以外に注目したことはありませんでしたが、白萩が花を開かせていました。
萩に関してはあまり知らない、というか、関心がなかったので、葉っぱしかない季節はこの木叢が萩であったとは知りませんでした。
数日前から本土寺裏でシュウカイドウ(秋海棠)の花が咲き始めています。シュウカイドウ科ベゴニア属の多年草です。
貝原益軒の「大和本草」には「寛永年中、中華より初て長崎に来る。……花の色海棠に似たり。故に名付く」と記されているように、我が国古来の野草ではありません。
秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり 芭蕉
画像右は本土寺の森。樹が茂っているので、さほど急峻とは感じられませんが、本土寺は平賀中台という台地の端っこにあるので、裏手は崖です。
台地から本土寺裏へ下る坂は結構急です。
少し離れたところではクサギ(臭木)の花も咲いていました。
狭い我が庭は夏草で覆われています。コスモスとハーブの種を播こうと用意してあるのですが、炎暑~長雨~炎暑のぶり返しとつづいたので、出不精ならぬ仕事不精の私は炎暑のときは、もうちょっと涼しくなれば、と思い、長雨がつづくと、ちょっとでも雨の熄む間があれば、と思って、腰を上げるのが億劫です。
昼間は戻ってきた暑さにげんなりしていましたが、夕方になると、秋を思わせるような、こんな雲も出ました。
臭木(クサギ)の花が花盛りを迎えています。
我が庵がある高台は平賀中台と呼ばれる高台です。地元で生まれ育った友人によると、彼女が小学生だった六十年ぐらい前は森や林ばかりだったそうです。
もちろん当時とは道路事情も異なるのでしょうが、彼女の生家から当時通った小学校まで、現在の地図を使って所要時間を測ってみると、三十五分。これは大人の足の速さですから、小学生、とりわけ低学年だとすれば四十分とか五十分かかったかもしれません。そんなころの平賀中台の様子といえば、下から上るためには蔦を伝って上らなければならなかったそうです。
平賀中台には著名な本土寺があって、創建は七百年以上も前。遥か昔からあり、寺域の広さも現在よりはずっと広かったということですから、すべてがすべて蔦を頼りに上らなければ行けなかった、ということはなかったのかもしれません。
いまでは森もほとんどなくなり、畑や野原も極めて尠なくなりました。代わりに増えつづけているのは建て売りの住宅です。いまでも農業をつづけている人によると、代が替わるごとに払わなければならない相続税のため、農地を切り売りして行かなければならない、ということですから、畑は日毎に狭く、尠なくなっているわけです。
話が横道にそれて行きそうになりましたが、そんなふうに自然が尠なくなっている台地の一画に、ほんの少しだけ人が立ち入りそうもない林があり、そこにクサギ(臭木)が生えている一画があるのです。
近づくと、ほんのりとピーナツバターのような臭いがします。ビタミン剤みたい、という人もいます。
これは花の臭いではなく、葉っぱの臭いなのだそうですが、私には花のない時期は臭いがしないように思われます。決して「クッサァー」と唸ってしまうような臭いではないと思いますが、植物としては異例な臭いがするので臭木=クサギと名づけられたのでしょう。
分類上はシソ科です。
誰かが植えたのでしょうか。ここだけ下草もなく、整然と並んでいるように感じられます。
スイフヨウ(酔芙蓉)も咲き始めていました。
また新しく名を識った野草と出逢いました。犬酸漿(イヌホオズキ)です。
日課の慶林寺参拝に赴くとき、二回に一回ぐらいの割合で通り抜けて行く駐車場の通路脇にありました。
右も左も駐車スペースで、ブロックで仕切られた通路の片隅です。だれかが植えたとは考えられません。アスファルト舗装のわずかな隙間に根づいています。
様相は全然違いますが、真っ黒な実を目にしたとき、かつて摘んだことのあるヤブミョウガ(藪茗荷)を思い出しました。触れてみると、ヤブミョウガとは違って、柔らかです。季節が移ろって行けば硬くなるのか。
摘んだあと、そのままトートバッグに入れ、そのあと買い物をして、買ったものを無造作にバッグに詰め込んで帰ってきたので、半分ほどが潰れてしまいました。
ヤブミョウガに似て、色は漆黒で艶がありますが、かなり硬いヤブミョウガの実とは異なって、干し葡萄よりも柔らかいような手触りです。
かすかに花が残っていました。花図鑑には、茄子の花によく似ている、と書かれていますが、小さ過ぎてよくわかりません。
図鑑には画像が何葉か載せられていますが、イヌホオズキという名から自然と連想される、ホオズキを思わせるような花も実もありません。似ても似つかぬのに、なにゆえに「ホオズキ」という名がつけられているのか、そしてカラスノエンドウやカラスウリに「カラス」という名がついているのは、「鴉」が食べるということにちなんでいるらしいのですが、イヌホオズキの場合は「犬」がこの花や実を見て何をするのかは書かれていません。
この草は全草毒、と記されているので、この実も葉も茎も根も毒を含んでいます。含まれているのはソラニンです。ソラニンとはじゃがいもの芽に含まれているもので、間違って食べたとしても、死に到る、ということはないらしい。
今日の入道雲二題。
十日前、病院帰りにふと気まぐれを起こして、ほとんど通ったことのない小径を歩いたら、ムラサキシキブ(紫式部)を見つけました。紫色に熟した実を見たことはありますが、花を目にするのは初めてのような気がします。といっても、見てすぐムラサキシキブだと理解できたわけではありません。
スマートフォンで写真を撮り、グーグルレンズで検索してみたら、Callicarpa macrophyliaというご託宣が出ましたが、日本語の名はつけられていません。
格別珍しい樹ではありませんが、私が常々散歩をしている地域では見かけないので、花の盛りを見たことがありません。
少しだけ花が残っていました。樹木図鑑によると、花の最盛期は先月六月だということですから、盛りは過ぎてしまっていたのです。
緑色の小さな実がいっぱいできています。う~む、これも熟したら少し失敬して帰り、我が庭に播いてみましょうか。
梅雨が明け、ぎらぎらとした夏の到来とともに、慶林寺・観音様の前を彩っていたハス(蓮)の花が終わりを告げたようです。
ハスに代わってキクイモモドキが花盛り。
ガマ(蒲)は新しい白い花穂を出しています。画像下は先に穂を出したガマ。
紫陽花も今年の花期を終えました。
ボタンクサギ(牡丹臭木)は第二陣がありますが、ひと休みです。
先月十四日の梅雨入り宣言から半月もして、ようやく本格的に梅雨、と思ったら、まるで満を持していたかのような雨、雨、雨……。先月二十九日(降雨量46ミリ)から三十日(5・5ミリ)、今月一日(44ミリ)、二日(71ミリ)、三日(66・5ミリ)、そして今日四日(16ミリ=夜九時現在)と、例年になく多い雨です。おまけに先月三十日から五日連続でまったく陽射しがありません。
雨の様子を窺っていたので、普段は朝のうちに済ませる慶林寺参拝は午後になってしまいました。
観音像前のプランターに植えられている蒲(ガマ)。昨日(三日)撮影した画像です。
蒲の穂といえば、茶色くてフランクフルトソーセージのような形だと思いこんでいるので、出たばかりの穂が白いのを初めて目にして、少なからぬ感動を覚えました。
人生の残りが尠なくなってきているのに、なお初めて見たり、初めて知ったりすることがあると、ほんのちょっとだけ心が揺さぶられるのです。
これまで「穂」と呼んで、♬「大黒様」の中の因幡の白兎がくるまって元に戻ることができたもの、と漫然と思い、漫然と眺めていたものが、じつは花であり、上部が雄花で、下部が雌花という、奇妙な形態をしている、ということも、今回初めて植物図鑑に当たってみることで識りました。
ところが、一日経った今日、再び眺めてみると、色はまだ淡いのですが、茶色く変わってしまっていました。
我が庵近くには野生の蒲のある小湿地帯が三か所あります。前はいまごろの季節になると、わざわざ見に行ったこともありましたが、慶林寺参拝や日々の散歩は欠かすことがなくても、いつの間にか行動範囲が狭まって、尠なくとも一昨年、昨年は見に行っていません。
近く、とはいっても、もっとも近いところこそ歩いて十六分ぐらいですが、残り二か所は三十分と三十五分と結構遠いのです。
お隣の流山市ほどではありませんが、私が棲んでいる松戸市北部も新しい住宅を建てようとする人が多く、ちょっと足を運ばないでいると、畑や林が潰されて、真新しい家ができていたりします。しばらく観察に出向いていないので、もしかすると、湿地帯はなくなっているかもしれません。
観音様のお召し物は雨でまだら模様です。
ハスの葉に溜まった雨。息を詰めて五分ぐらい眺めていると、雨が溢れて、ポロポロと流れ落ちるのを見ることができます。
このあと参道に戻って帰路につこうとしたとき、またちょっぴり心が揺さぶられるようなことがありました。参道に出ると、ちょうど小さな赤い傘が翻るところでした。小学校三~四年生とみられる女の子が山門の数メートル手前でお寺に向かって拝礼し、歩き去ろうとするところだったのです。
初めて見かける女の子でしたが、きっとお母さんと連れ立って通りかかったとき、お母さんに教えられて拝礼したことがあり、以来独りで歩くときも拝礼するようになったのだろうと思うと、何かが胸に詰まるような気がしました。
紫陽花(アジサイ)の見頃は過ぎたとみえて、見物客の姿は消えて、日曜日だというのに本土寺の参道は閑散としていました。
慶林寺の蓮(ハス)の花が咲き始めました。
ピンクの、一番手前の花は確か二日前-二十二日に初めて開いたはず。
ハスは四日間咲いて、キッチリ四日目には散り始めるので、この日が最期と見えます。ということは、初めて花開いたのは二十二日ではなく、二十一日でなくてはなりません。
一説では花を開く四日の間、花弁が緩み始めて全開になる時間は少しずつ違うのだそうです。初日は全開せず、朝八時ごろには閉じ始めてしまうそうなので、二十一日に私が参拝に行った時刻には閉じてしまっていたのでしょう。
今日はボランティア活動があったので、日課の慶林寺参拝は夕方になりました。
参道に幾株か植えられている牡丹臭木(ボタンクサギ)です。蕾の一つ一つはひところより大きくなったようですが……。
近づいて目を凝らしてみても、う~むまだまだ。
と、思ったら、四つも花を咲かせている一株がありました。今年の初開花です。
こんなに花を咲かせている株もありました。
去年の初開花は二十四日。今年はちょうど一週間早いということになります。
観音像前にある水盤の蓮(ハス)の蕾も、明日にでも咲きそうなほどにふくらんでいます。