今月十六日から昨二十二日までの一週間、我が地方でお日さまが顔を覗かせたのは、十六日と二十日の二日だけでした。それも十六日はたったの二・一時間、二十日に到ってはわずか〇・一時間。残りの五日間は日照時間ゼロでした。
我が庵のある千葉県松戸市には気象庁の観測施設(アメダス)がなく、最寄りでアメダスがあるのは我が庵から直線距離で17キロ離れた船橋の薬園台です。間には山があったり、大きな川が流れていたりする地形ではないので、恐らく船橋の数値と我が庵の実際とはさほど変わらないものと考えられます。
今日二十三日、一週間ぶりの晴れ間が出るのを期待しましたが、朝のうちは青空は垣間見えるものの、なかなか陽が射しません。窓の外が明るくなって、やっと……と思ったときは、すでに十一時を過ぎようとしていました。
散歩道のあちこちでアジサイ(紫陽花)が咲き出したのを目にするようになりました。
墨田の花火も咲き始めています。
慶林寺参道ではホタルブクロが満開を迎えています。
学名にCampanulaと付けられているところをみると、キキョウの仲間です。名前の由来は、子どもがこの花に蛍(ホタル)を入れて遊んだから、と植物図鑑には記されていましたが、それ以上の記載はなく、入れたあと、裾のようなところを何かで閉じたのか、閉じなくてもホタルが逃げることはなかったのか、不明です。
晴れは晴れでも久々ですから、さすがに雲一つない快晴……とは行かぬようで。
卯の花(ウツギの花)は最盛期を過ぎたようで、花の数が尠なくなったみたいです。
かと思えば、蕾も見られました。
栗はエイリアンの触手のような花を伸ばし始めています。
梨を見てみようと思ったのが今日の散歩の主題でしたが、近隣に二か所ある梨園では実はまだ小さいのに、両方ともネットが張られてしまっていたので、ハッキリと見ることはできませんでした。
キウイもようやく花が終わって、これから実を結ぼうかという状態です。
アテがハズレたような気になって帰途に着いたら、ヒメウツギ(姫空木)の花が咲いていました。
四日前の十五日からあまり陽射しがありません。おまけに昨日今日とまるで嵐のような風が吹きます。去年と較べると、5キロも軽くなった私の身体は、強い風にもてあそばれてどこかへ飛んで行きそうです。
週末まではずっと雨模様。梅雨入り宣言こそ出されていませんが、まるで梅雨です。
今日十八日は観音菩薩の縁日なので、観音さまをお祀りしている東漸寺と慶林寺をハシゴです。
東漸寺観音堂(上)と慶林寺の観音像。
慶林寺では梅の実が大きくなってきました。
散歩道ではところどころで白いアジサイ(紫陽花)が咲き始めたのを目にします。慶林寺ではカシワバアジサイが咲き始めました。
参道ではハナモモ(花桃)の実も。
七年ぶりに梅酒をつくろうかという気になりましたが、例年だとそろそろ青梅が出る無人の野菜直売所にはまだその兆しがありません。
ウツギ(空木)の花を見ました。もう少し季節が過ぎると、クサギ(臭木)が咲き始める斜面に一本だけ幹がありました。
♪卯の花の、匂う垣根に
時鳥、早も来鳴きて
忍音もらす、夏は来ぬ
♪さみだれの、そそぐ山田に
早乙女が、裳裾ぬらして
玉苗植うる、夏は来ぬ
♪橘の、薫るのきばの
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌むる、夏は来ぬ
♪楝ちる、川べの宿の
門遠く、水鶏声して
夕月すずしき、夏は来ぬ
♪五月やみ、蛍飛びかい
水鶏鳴き、卯の花咲きて
早苗植えわたす、夏は来ぬ
歌詞が五番まであったとは知りませんでした。
ナツグミ(夏茱萸)の実も色づき始めていました。
2021年五月の薬師詣での〈つづき〉です。
谷田部陣屋跡から七分ほど。緩い上り坂にさしかかろうというところ、「←ホテルニュー梅屋」という標識が見えました。それに従って道を折れると、奥まったところに御堂があるのが見えました。今日の目的の醫王寺薬師堂です。
扁額には「琉璃寶殿」とありました。お賽銭をあげて鈴紐を揺らし、鰐口を鳴らします。中を覗いてみましたが、堂内にはもう一枚ガラス戸が立ててあって、よく見えませんでした。
御堂前に建てられている「薬師堂再建記念碑」によると、この薬師堂は小渡山正明院と号し、平安時代初期の大同年間(806年-809年)の開基だそうです。本尊の薬師如来像は弘法大師の作と伝えられています。
天正十八年(1590年)、由良国繁が上野国金山城から牛久城に移ってきました。その翌年、国繁の母・妙印尼が戦で討死した将士を供養したいと国繁に勧め、近在に七観音八薬師の堂宇を建立することになりました。その八薬師のうちの一つです。
慶長年間(1596年-1614年)、戦火のため焼失しましたが、元和二年(1616年)、細川興元(幽斎の次男)が谷田部領主として封ぜられたとき、陣屋の鬼門除けの祈願寺として、ここに醫王寺を造営しました。
薬師堂手前には池があり、赤い太鼓橋の先に弁天様が祀られていました。背景にあるのがホテルニュー梅屋です。
薬師堂から次の善通寺までは五分。薬師堂前の緩い坂を上り詰めると、茨城県道460号谷田部牛久線との交差点です。そこを右に曲がって、すぐまた左折。
スマートフォンの地図では、目的地に到着しているはずなのに、寺院らしき堂宇が視界に入ってこない。と思えば、この御堂(地蔵堂)が善通寺なのでした。台町公会堂という地域の集会所にありました。
持っていた史料には真言宗善通寺とあるだけですが、かつてはここにお寺があったのでしょうか。
踵を返して県道谷田部牛久線に戻ると、すぐ先に長徳寺の参道入口が見えました。
建治二年(1276年)の創建。時宗のお寺ですが、時宗のお寺でよく見られる宗祖・一遍上人像はここにはありませんでした。
谷田部地区の寺院巡りはこれにて終了ですが、最後に羽成(はなれ)観音を巡って帰ることにします。
わりと長い距離を歩かなければなりません。この日の天気予想は夕方まで晴でしたが、幸いなことに昼を過ぎるころには曇ってしまいました。蒸し暑さはありません。途中、常磐自動車道を越えて行きます。
谷田部陣屋があったあたりは谷田部集落の中心街近くでしたが、コンビニが見当たりませんでした。常磐自動車道を越えたところにセブンイレブンがあったので、冷えたペットボトルの緑茶を求め、歩きながら喉の乾きを癒します。
長徳寺から二十分近く歩いて、帰りのバスを待つつもりの上宿(かみしゅく)バス停を過ぎると、「→羽成観音入口」という標識があるのが目に入りました。その標識に従って小径に折れると、この大きな堂宇の背面が見えたので、意外にあっさりと着いてしまった-そう思いながら、裏から入って伽藍に掲げられた扁額を見上げてみれば、羽成観音に着いたのではなく、真言宗豊山派の普賢院でした。
大同二年(807年)、弘法大師が羽成村にきたとき、仏像を彫って祀ったのが起源であると伝えられています。 先に参拝してきた醫王寺薬師堂の開基は大同年間(806年-809年)とアバウトでしたが、本尊の薬師如来像は弘法大師の作とされているので、この普賢院と同じ大同二年ということになるのでしょう。
境内に建てられている本堂再建記念碑によると、 開基は茨城県新治郡(現・土浦市大岩田町)法泉寺第十九世祐傳阿闍梨で 創立は寛永二年(1625年)とのことでした。
この法泉寺には寺宝とされている薬師三尊が祀られているので、そのうち参拝に行きたいと考えているのですが、なかなか機会に恵まれません。
扁額を見上げ、羽成観音に着いたのではない、と気づいたのは、バスがくる十三分前でした。どうしようかと考える前に歩き出していました。シミュレーションをした行程表には羽成観音までの所要時間が記してありましたが、立ち止まってそんなものを見ているよりは前に進もう、六分ぐらいで羽成観音に着けなければ引き返そうと思ったのです。
普賢院から野原と畑の中の径を歩いて六分弱。杉木立を通して御堂が見えました。
羽成観音堂と扁額です。ここも由良氏にまつわる七観音八薬師の一つで、本尊は馬頭観音です。
羽成観音への参拝を終えて、無事上宿のバス停に着きました。事前のシミュレーションに遅れることわずか三分。牛久駅からやってきたバスは二分遅れだったので、悠々間に合いました。
日中は一時間に一便しかない路線なので、逃したら大変なことになるところでした。
薬師詣での日には、私が極力プラス思考で考えるせいもあって、何かしら佳きことがあります。ちゃんと帰りのバスに間に合った、というのも、お薬師さんの功徳だったと考えることにします。
上宿から終点のみどりの駅まで所要約十五分。乗客はずっと私ただ独り。図らずも貸切になりました。スイカで支払ったのはわずか¥294だけだったとは申し訳ないような気がします。
私が乗った関鉄(関東鉄道)バスです。終点のみどりの駅へ到着後に撮影しました。
→この日歩いたところ(みどりの駅から羽成観音まで。上宿バス停からみどりの駅まではバスを利用)。
今日八日の「天気予想」が十日間天気に示された先月二十八日。八日の「予想」は曇のち雨で、降水確率は70%でした。五月一日になると、天候は変わらず、降水確率は10%増えて80%に。しかし、翌二日には雨の「予想」が消えてしまって、降水確率も50%と急減。五日には晴のち曇で、降水確率は40%とさらに下がり、当日の実際の天気は晴のち曇。降水はゼロということになりました。
天気予報など頭から信じておらず、あたりハズレはプロ野球の順位予想や競馬の勝ち馬予想と同程度なのだから、天気予報ではなく、「天気予想」と謳うべき、いわんや十日間天気をや、なのだといいながら、自分では予報の材料など持っていないのですから、毎月八日が近づくころは日々変わって行く「天気予想」を見て、一喜一憂しています。
雛まつりの夜を最後にアルコールを絶って、今日八日は六十六日目になりました。永年の飲酒生活で溜まりに溜まったヘドロのようなものがほんの少しは抜け始めたのか、ひところはそろそろ薬師詣でで歩くことは不可能になるのではないかと思った体調、脚の具合がほんのちょっぴりですが、よくなったみたいです。
今月はつくば市を歩きました。久しぶりに長距離を歩いたのにもかかわらず、バテることなく薬師詣でを終えることができました。
つくば市へ少しの遠出をする前に地元の慶林寺にお賽銭をあげ、参拝して行きます。
北小金~新松戸~南流山と一駅ずつ乗って、南流山からつくばエクスプレスに乗ります。
土曜日だったからか、電車はほんの少し混んでいましたが、立つ客がいるほどの混み方ではありませんでした。
南流山から区間快速で二十一分、みどりの駅で降りました。
みどりの駅をあとにするとすぐ、こんな林の中を歩かされることになったので、先行きどうなることかと思いました。
みどりの駅から十分。萱丸橋で西谷田川を渡ります。川はこの先、牛久沼に流入して、利根川に合流して行きます。
葭原があって、ギョシギョシゲシゲシとうるさく囀るヨシキリの声。久しぶりに耳にしました。
みどりの駅から歩くこと二十三分、道林寺仁王門前に着きました。
今日の行程はずっと徒歩。最後の最後に、一時間に一便しかないバスに乗る予定だったので、乗り遅れては大変と事前にグーグルマップをベースにシミュレーションをしてありました。経路を間違えたりもしなかったので、みどりの駅-道林寺間二十三分という時間はシミュレーションどおり。
浄土宗の寺院ですが、由来などのわかる史料がないため、いまのところは創建の年代などはわかりません。
幼稚園が併設されていましたが、土曜だったからか、新型コロナ禍のせいか、日本の宝・子どもたちの姿は見られませんでした。
次は明超寺。浄土真宗大谷派の寺院です。
道林寺への参拝を終えて前の道に出ると、左手に大きな伽藍の背面が見えて、それが明超寺でした。シミュレーションでは所要二分でしたが、当然のことながら参道入口は背面が見えている伽藍の向こう側にあるので、実際の所要時間は四分。わずか二分の誤差ですが、先行きは怪しくなってきたか、と思わせました。
明超寺参道入口の隣に五角堂がありました。この地域の名主であり、発明家であった飯塚伊賀七(1762年-1836年)が設計。一見四角に見えますが、中に入ると、正五角形をしていることがよくわかるそうです。
伊賀七は人力飛行機や自動製粉・精米機、からくり人形など数多くの発明をして村人たちを驚かせました。当時は「からくり伊賀」「からくり伊賀七」と呼ばれ、最近では「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び名も生まれているそうです。
土曜日なので、もしかしたら開いているかも……と期待して行きましたが、残念ながら扉は閉ざされていました。その代わり、ここで五分ほどの見学時間が必要と想定していたところ、ほとんどゼロ分で終わってしまったので、シミュレーションとの誤差は解消して、わずかながらもお釣りができました。
五角堂から五分で谷田部陣屋跡に着きました。いまは谷田部小学校です。中世には岡見氏の谷田部城があったところです。
谷田部藩(一万六千石余)の藩祖は細川幽斎の次男・興元(1566年-1619年)で、元和五年(1619年)から明治までつづきました。小学校周辺に遺されている陣屋の遺構は御殿の玄関だけ。それも周辺を経巡って歩かないと見つけられない、というような記述に触れたので、シミュレーションのこともあり、今回の目的は城跡巡りではないということもあって先を急ぎ、この日の目的地・醫王寺薬師堂を目指します。
いかにも陣屋があった町らしい名の搦手(からめて)橋で谷田川を渡ります。川は前に渡ってきた西谷田川と牛久沼で合流することになります。〈つづく〉
五月になりました。
空だけを見ていると、いかにも薫風薫る五月、という明るさですが、地上はとても薫風とは呼べないような風が荒れ狂っています。
慶林寺参道のハナモモ(花桃)の樹です。
濃い緑の木陰なので、注意して見ないことには見過ごしてしまいがちですが、小さな実をつけ始めました。
午後、遅めの散歩は慶林寺とは反対方向へ。とちのき通りです。
栃の葉はすっかり大きくなりました。
あまり歩くことのない径に足を向けてみました。とちのき通りを少し外れたところにある市営住宅です。
あまり歩くことはないので、こんな高木があったとは憶えがありません。もう少し早いか遅いか、別の季節に歩いていたら、この樹々があったことすら記憶には刻まれなかったのに違いありません。
通り過ぎて行くと、目の前に大きな花がありました。富士川に向かって下る斜面を均した土地に建てられているので、私が歩いている道路は市営住宅の二階から三階に当たる高さを走っています。市営住宅の庭は数メートル下です。普通なら真横に花を見ることなどできないでしょう。
見たときはなんという樹なのかわかりませんでした。庵に帰ったあとで調べて、北米中部原産の樹木で、ユリノキというのだと知りました。英名はアメリカン・チューリップ・ツリー。手許にある樹木図鑑には秋の黄葉が見事、と紹介されています。
二年間だけ棲んだことのある新松戸のマンション近くに、ゆりのき通りという名のつけられた並木道があります。棲んでいたのが十年以上も前なのと、当時は樹木などに関心もなかったからかどうか、並木道の光景は思い浮かびません。
秋になったら……と、忘れぬようメモを残しました。
歩いているうちに、右手の甲をひやりと冷たいものがかすめました。なんだろうと思って空を見上げると、いつの間にかこんな黒雲が空を覆っていました。西に傾きかけた太陽に照らされているので、周辺は明るいのです。空だけ真っ暗。狐の嫁入りのようです。
百八十度身体を捻ると田んぼ。こちらは陽射しがあります。例年なら田植え風景を見るのは二日後のこどもの日です。梅も桜も早かった今年は田植えも早いのか。