桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2013年十一月の薬師詣で・白井市

2013年11月08日 22時48分35秒 | 薬師詣で

 三日前の朝、目覚めると、これまで経験したことがないような妙な体調でした。横になったままで身体の向きを変えようとしても、肘に力が入らないので、ゴロンとはいかないのです。
 それが原因で少々寝不足状態がつづいて、薬師詣での当日も体調も万全とはいきませんでしたが、白井市に出かけました。
 北小金から新松戸、東松戸、白井と小刻みな乗り換えです。 



 東松戸で運賃が高過ぎると評判の悪い北総鉄道に乗り換えて、小室駅で降りました。私が乗った東松戸-小室間(12・3キロ)の運賃は¥580。キロ程でいうと、JRなら北小金-亀有(12・1キロ)に等しく、こちらは¥220ですから、明らかに高過ぎます。
 目指すお寺があるのは白井市ですが、最寄りの小室駅があるのは船橋市です。



 小室駅を出てすぐ、変わった建物があると思ったら釈迦寺という寺院でした。元は天台宗の寺院だったようですが、現在は単立。なんだかよくわからないので、写真だけ撮って素通り。



 左手に石段があったので上ってみたら、日蓮宗の本覚寺でした。

 


 本覚寺の境内を通り抜けて、本堂横から元の道に戻ります。元の道に戻るのに、こんな道を通りました。画像下はむき出しになった籐の根っ子です。



 北総鉄道の高架を除くと、見晴るかす田園風景です。



 鎌倉橋で神崎川を渡ります。この川が船橋市と白井市の境になります。神崎川は白井市を水源として印旛沼放水路に流れる一級河川です。



 本覚寺前から十分とちょっとのところにトンネルがありました。



 ちょうど一週間前、友人が写真ブログを更新したと報せてくれたので、視ると、見事に紅葉した樹々が写っていましたが、友人が棲む地域よりほんのちょっぴり南のこのあたりの紅葉はまだでした。



 トンネルを出ると、交通標識がありました。直進すれば印西・成田、右折すれば船尾、左折すれば神々廻と記されています。

 神々廻は難読地名です。読みは「ししば」。


 交差点を難読地名方面に向かって左折。歩くこと四分ほど。道路に背を向けて御堂がありました。前に回り込むと西福寺でした。天台宗の寺。開基は不詳。



 西福寺の公孫樹(イチョウ)。乳房公孫樹と呼ばれ、戦前は東京からも乳飲み子を抱えた母親たちが訪れたそうです。幹周りは5・1メートル。白井市の指定文化財です。



 周辺には立派な門構えのお屋敷がいくつもありました。


 こちらは堂々たる四脚門。



 小室駅からはショートカットがありましたが、慣れぬ道なので、わかりやすい経路を選んだこともあり、寄り道をしていたこともあって、三十六分かけて目的の薬王寺に着きました。



 創建については不詳ですが、言い伝えでは大同年間(806年-10年)の建立と伝えられています。本尊は阿弥陀如来です。



 しろい七福神のうち、弁財天。



 本堂の右奥に薬師堂がありました。



 すぐ近くには子安観音。
 帰りはショートカットを通って小室駅に戻りました。

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川口を歩く

2013年11月02日 22時10分51秒 | 寺社散策

 埼玉県の川口市を散策しました。



 武蔵野線で東川口まで行き、埼玉高速鉄道に乗り換えて鳩ヶ谷駅で降りました。



 鳩ヶ谷駅前から草加駅行のバスに乗り、辰井公園という停留所で下車しました。流れているのは見沼代用水東縁です。



 最初の目的地は曹洞宗の圓通寺です。参道を上ります。



 一風変わった山門。



「新編武蔵風土記稿」には「開山の僧を萬照高國禅師英峻と云、この僧は永平寺廿六世の住職にして、初め本郷村傑傅寺を開き後當寺を開けり、延寶二年四月十二日寂す、開基は金子左太郎と云ものにて村民藤左衛門が先祖なりと云、本尊観音を安ず」と記されています。



 私が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。

 圓通寺の次に目指すのは「新編武蔵風土記稿」によれば、圓通寺の前に開かれたという傑伝寺です。



 文化放送の川口送信所がありました。



 圓通寺から二十分近く歩いて、傑伝寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」の記述は「禅宗曹洞派、越前国永平寺末、天桂山理應院と號す、本尊釈迦を置。當寺は寛文四年(1664年)の草創にして、開山英峻萬照は本寺二十六世の住持にて、高國禅師と云、延寶二年四月十二日化す、開基は酒井讃岐守忠勝なりと云、されど此人寛文二年七月十二日卒したれば、草創の年代齟齬せり、思ふに忠勝が追福の為起立せしなるべし、法名傑傳長英と云、當寺境内は古太田道灌が築きし壘跡なりと云」



 ここでも歴住の墓所に参拝。



 傑傅寺から七分で寶泉寺。
 境内の掲示によると、「当寺の開基は新井太郎右エ門勝行と称し清和源氏十五代の後胤江戸城主太田資長入道道灌の曾孫高公の三男源四郎資行が岩槻城内にて成長し後岩槻領内の大田新井村(現・白岡町)隠穂し姓を新井名を太郎右エ門勝行と改め初祖となる(草加市花栗現新井義春氏の祖先現在十五代目)大竹村花栗村の両村長をつとめる勝行は大竹村に堂宇を建立し自ら開基となり安行吉岡の金剛寺四世高庵永薫禅師を招請して開山とし、長久山宝泉寺と称した(天正年間今より四百二十年前) 開山金剛寺四世高庵永薫大和尚(天正十五年四月十六日卒三百二十五年前) 開基新井太郎右エ門勝行(慶長十五年六月二日卒三百八十二年前)」



 ここでも歴住の墓所に参拝します。



 寶泉寺から十分で東養寺。「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、原村密蔵院末、護国山と號す、本尊地蔵は古境内の土中より得たる由、古色なる像なり」とあります。



 再び見沼代用水東縁を渡ります。



 東養寺から十分で昌福寺。
 境内の掲示には「室町時代、苗運惠胤大和尚(天正四年1576年三月二十日没)による開山。山号の荷葉山の由来は、当時当所が、蓮沼田の湿地帯であったことから生まれたものである。 江戸時代は寺子屋として、地域の子弟の教育の場であったが明治初めの学制発布によって、明治六年(1873)から明治三十八年(1905)まで新郷村の小学校であった。 当時の本堂は安永五年(1776)正月十日に建設された広い本堂で、法堂としてばかりではなく、学校教育の教室としての地域の重要な施設でもあった」と記されています。



 ここでも歴住の墓所に参拝。



 昌福寺と普門寺は隣り合わせでした。
「新編武蔵風土記稿」には「熊野山(ゆやさん)と號す、新義真言宗、原村密蔵院末、本尊薬師を安ぜり」とありますが、本尊は大日如来です。



 観音堂。聖観世音菩薩を祀っています。武蔵国三十三観音札所の第二十四番札所。「新編武蔵風土記稿」には菩薩像は行基の作と記されています。



 帰りは川口市役所の新郷支所から鳩ヶ谷駅まで国際興業バスに乗りました。

この日歩いたところ

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