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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

引きこもりその後

2022年10月29日 08時13分18秒 | つぶやき

 以下は日記のようなつぶやきです ― 。

 突然脚に痛みを覚えて、ほとんど歩けない状態に襲われてから、引きこもりになるのを余儀なくされて、そろそろふた月が過ぎ去ろうとしていますが、自由に歩けない状態は依然としてつづいています。
 ふた月の間、外に出たのは六日だけ、というか、六回だけ。うち五回は病院・クリニック通い、残る一回は、先月末に車を持っている知人が訪ねてきてくれたので、乗せてもらって近くのイタリアンレストランへ行って食事をともにし、コンビニに寄ってもらって、公共料金の支払いと引き落としに備えて銀行に預金をしました。
 引きこもり生活が始まってから、会った人はこの知人のほかは、病院の関係者など、会った、とはいえないような人々で、それも数えるほどです。

 無精髭が伸びていました。滅多に外には出ず、出るときはマスクをしますから、髭が伸びたままでも全然構わないのですが、電気シェーバーで口髭と顎鬚を剃ります。深剃りができる回転式を使っているので、剃り上げる方向を変える都度、ガリガリという音を聞きながら、何日かごとに髭が伸びてきているのを識るたびに、当たり前のことながら、自分は生きているんだな、と感銘に近いものを覚えたりします。
 食事は相変わらずネットスーパー頼みです。食べたいものがありますが、届けてもらえるのは限られているので、食べられないものがあります。魚類はまったく食べていません。辛うじて食べられるのは、鯖や鰯の缶詰、鮭ほぐしのたぐいだけです。

 最初は坐骨神経痛だと思いました。四~五年ぐらい前、同じような症状に見舞われて、そのときは病院に行くこともなく、薬を服むこともなく、数日で治ったので、今回も軽く考えていました。こんなに長引くとは考えてもみませんでした。したがって、病院へ行くのも遅くなりました。遅くなった上に、最初に訪ねた病院が大ハズレでした。

 近くにある総合病院で、かつては胃潰瘍で入院したり、大腸のポリープを切除してもらったりと何度かお世話になったことのある病院ですが、正直なことをいうと、行くのはあまり気乗りのしない病院です。
 そして今回 ― 。
 案の定というかなんというべきか、やっぱり! ということになりました。
 診療科も異なるし、医師も別人ですが、ずっと前にこの病院で右眼の眼瞼内反症 ― いわゆる逆さまつげです ― の手術を受けたことがあるのですが、術後、縫合跡が膿んでいないかどうかを確かめたいので、数日後にきてほしいということになりました。
 ところが、その日に行くと、ぬぁ~んと「休診!」ということがあったのです。
 当然担当医はきていないし、眼科ではない診療科へ行っても仕方がない。幸い膿んだ様子はなかったので帰りましたが、以降も受診することはありませんでした。

 手術が成功だったのか否か、私にはわかりません。
 いつからなのかは記録をしていたわけではないのでわかりませんが、しばらくすると、以前と同じように、右眼がショボショボしたり、涙が出たりする日があるようになりました。
 しかし、手術を受ける前に、その担当医がいうことには、今回の事案は加齢で皮膚がたるんだことによって起きたので、手術で引き詰めても、時が経てばまたたるんでくる、ということだったので、手術は成功したが、時が経った、ということなのかもしれません。けれども、約束破りのいい加減な医師の言葉ですから信用できるのか、という見方もありますが……。

 あるいは私には原因不明の鼻のアレルギーがあるのですが、初めてその症状が出たころ、同病院の耳鼻咽喉科を受診しました。受診したときはなぜか洟水は治まっていました。医師はインターンを終えたばかりではないかと思われる若い女医でした。
 体温計みたいな医療機器を鼻腔に突っ込まれ、アヒーッ! と叫びたくなるほどかき回されたあと、ご託宣は「わかんないっ!」という一言でした。憤りがこみ上げてきたのはしばらくたってからで、その瞬間は私は思わず笑ってしまいました。

 胃潰瘍で入院したり、大腸ポリープの切除をしてもらったときは全然問題はありませんでしたが、以上のようなことがあったので、そもそも病院へ行くこと自体、気乗りがしないものなのに、さらに気乗りがしないのです。
 気乗りがしないながら、整形外科がそこらじゅうにあるわけではないので、今回もやむなくその病院へ行きました。担当医の一覧表を見ると、常勤の医師はいないみたいで、名前は日替わりになっています。大腸ポリープの術後やそのころ発症し始めていた高血圧で通院していたころの消化器科と内科と同じでした。

 九時半ごろであったか、初診の受付を済ませました。歩けないので、タクシーを呼んで行きました。かつて通院していたことがあるので、本来は診察券を持っていたのですが、火事に遭ったときになくしています。それに、通院していたのは十年も前なので、新しくもらえるだろうと思っていました。再発行といわれて¥110也を徴収されました。
 ¥110ポッチですから、そんなことは些細なことですが、次に起こるようなことが、些細なことを些細でなくしてしまいました。

 一時間半ほど待ったころ、院内にスピーカーから流れる声がありました。理由はよく聞こえませんでしたが、整形外科の診療は突然中止、ということになったのです。
 私が腰を曲げてエッチラオッチラとやってきているのを心配してくれたのか、最初に病状を告げた受付嬢が申し訳なさそうな顔をしてきてくれました。整形外科医に何か事故が起きたみたいですが、受付嬢には打つ手がありません。明日出直してもらうか、受診はやめにするか。明日出直しても、私を含めて今日キャンセルを喰らった形の患者がたくさんいるので、今日以上に待つことになるかもしれない。どうしますか(他の病院に行きますか)、というわけです。
 そういわれても、ほかにアテはないので、出直すしかありません。帰りも通りがかるタクシーをつかまえる、という身体ではないので、タクシーを呼ばなければなりません。健常な身体であれば、歩いて十四~五分ぐらいのところなので、走行料金は¥600から700というところです。ただ迎車料金(¥300)が加わります。そのツケは誰にも持っていきようがありません。
 なんの成果もないのに往復¥2000というのも、まあ、些細なことと片づけてもいいかもしれない。しかし、(私にすれば)度重なる不祥事が些細なことを、やはり些細ではなくしてしまう。

 翌日、延々と待たされた挙げ句、なんとか無事に受診を終えました。レントゲン撮影があって、腰にも痛みの激しい左脚も、骨には異常がないので、神経痛となんらかの炎症であろうという診立てでした。一週間後にまたきてくれといわれ、痛み止めの服み薬と痛いところに塗る消炎剤、痛み止めの薬は胃を荒らすので、それを防ぐための胃薬を処方されました。
 消炎剤はリップクリーム大きくしたような塗り薬でしたが、ほとんど効果がありませんでした。立っているときだけではなく、眠っているときも脚が痛んで目をさますことがあったのですが、起き上がること自体が大変なことなのに、あまり効果のない消炎剤を手にとるべく起き上がる気にはなれない。拠って、ますます効果はない。
 一週間分で二本処方されていましたが、四~五日経っても、一本の半分も使い切れていない。肩こりと首コリに流用してみましたが、やはりほとんど効果がない。

 一週間後の診察で、そんなことを訴えると、「もう少し様子を見ましょう」といわれ、二度目の受診は数分で終わってしまいました。一時間半も待たされた挙げ句です。
 診察が終わると、診療科の受付に戻って、処方箋と次の診察日の予約表のようなものをもらう手筈ですが、そのときがくるまで、私はまだなんの疑問も懐いてはいませんでした。

 大きな病院なので、受診前も、受診後もいろいろ手数を踏まなければなりません。処方箋などをもらうときに、支払うべき診察料を示され、違うフロアの会計に行って支払い、それでその日はおしまいということになるのですが、名前を呼ばれて、エッチラオッチラと苦労しながら歩いて行くと、私に示されたのは診察料の請求書だけ。「?」と首をかしげると、処方箋も次の診察予約もないのです。
 どういうことなのか。医師の話を聞きたい、というと、受付嬢は姿を消し、また何分も待たされた挙げ句、戻ってきて、今日は患者が多く、非常に立て込んでいるので、医師の手が空くまでしばらく待ってくれ、という。
 そのときの私の状態は? というと ― 立っているのは非常に辛く、椅子に腰を下ろせばなんでもないのですが、その椅子のあるところを見ると、待ち人がどっさりいて、立って待っている人も数人いる。空いている席があったとしても、そこまでエッチラオッチラするのが辛い。さらに何分待てばいいのかわからないのに待った上、また名前を呼ばれてエッチラオッチラしなければならぬ、と思うと、「辞~めた」と即断してしまったのでした。

 じつは、病院へ行かねば、と考えたとき、思い浮かべたクリニックがあったのです。我が庵から歩けば三~四分という至近距離です。もちろん私は歩けないので、だれかに送り迎えをしてもらわなければならない。幸いそのクリニックには送迎サービスがあるのを知りました。即刻行くべし! と思って電話を入れたら、初診のときは送迎サービスは利用できない。診察を受けて、送迎が必要だと医師が判断したら、利用することができるが、付添がないとダメだといわれてしまったので、行くのは諦めたのです。

 その後、行くのは「辞~めた」ということになる病院へ行くまで、自分ではなんと迂闊であったのかと思うのですが、タクシーを使う、という考えが思い浮かびませんでした。我がことながら、何たるコッチャです。

 タクシーで行くのなら、最初に考えたクリニックでもいいわけで、受診先をそのクリニックに変えました。
 歩けなくなって一か月も経っていたときです。新しく担当医となった医師が、痛みが出てから一か月も経ってやっと受診しにきたのか、という感じで首を傾げるので、「じつは某病院で……」と話すと、「某とはどこですか」とたたみかけられました。
 前から高血圧で通っているもう一つの病院があるので、お薬手帳を見せなければならないと思っていました。見せれば、直近の処方でもらった薬のリストが貼ってあるので、「某」とぼかしたところで、どこかということはわかってしまいます。「某」がどこであるかを打ち明けると、思ったとおり「お薬手帳はお持ちですか」と、きました。

 ここでもレントゲンを撮られましたが、腰から背中にかけて多少の異常がある。私が訴えた、歩いたり立ったりしていると非常に痛いし辛いのに、坐るとなんでもない。あるいは身体を後ろにそらそうとすることはできないが、うつむき加減になると楽になる ― こういう症状と合わせると、典型的な脊柱菅狭窄症だということになりました。「某」では神経痛といわれ、確かに神経が圧迫されて痛むのだから神経痛には違いないが、そういう問題ではなかったのに、「某」では同じようにレントゲンを撮りながら、脊柱菅狭窄症と見抜けなかったのでしょう。

「某」で処方されたのは、ロキソプロフェンナトリウムという痛み止めと胃薬、それに消炎剤の三種だけでした。新しい医師はちょっと首を傾げて「私もロキソプロフェンを処方するつもりですが、これだけでは足りないですね」。そういって、しばしパソコンに向かってキーボードをカチカチしたあと、処方される薬のリストを見せてくれました。「某」とは違って、塗り薬はないのに、全部で七種類もありました。

 七種類もの薬を服み始めて三~四日すると、依然として四苦八苦することには変わりがないながらも、ほんのちょっとだけ腰を伸ばすことができるようになりました。すると、こたつの敷き布団として使っている長座布団を物干し竿にかけて干すことができたり、2メートルほどの高さにかけてあって、電池切れで止まったままだった掛け時計にも、辛うじて、という状態ではあるけれども、手が伸ばせるようになって、電池の交換もできました。
 少しずつではあるが快方に向かっている、と密かにほくそ笑んだら、翌日にはなぜか時計の高さより断然低い位置にある蛍光灯のスイッチ紐に手を伸ばせるのがやっとという状態に逆戻り。どうやら一進一退を繰り返しながら、やがて本復するとしても、長~い戦いになりそうです。 


引きこもり

2022年10月02日 14時19分04秒 | つぶやき

 ブログの更新を怠ることが多くなりました。先手を打って弁明に努めておくと、決して私の怠惰のせいばかりではありません。
 去年十一月に怠ったときは火事のせいです。当時、喫緊を要したのは新たな棲家を見つけることでしたから、落ち着けるかどうか、今後どうなるかどうかなどということはさておいて、とりあえずいまのアパートに居を定めることになりました。
 緊急避難の旅館暮らしで不便をかこったのはわずか六日間で済みましたが、火事でノートPCもデスクトップPCも失ってしまったので、本当はブログの更新どころの騒ぎではなかったのですが、仮に気持ちに余裕があったとしても、物理的にブログを更新することはできませんでした。

 あれから一年近く ― 。
 毎月の薬師詣でも、ひと月休んだだけで再開し、ようやく気持ちも落ち着いてきた、と思ったところ、先月初めにはまた思わぬ災難に見舞われてしまいました。坐骨神経痛に見舞われて、今日までの一か月、歩くこと能わず、という毎日を送ってきたのです。

 発症したのは先月七日朝です。
 前日はボランティアで小金地区を歩いていました。ボランティアの日は、様子を見に訪ねる家が三軒ほどあって、六~七千歩は歩きます。それに北小金へ行くために、新松戸から一駅だけ電車に乗りますが、自宅と新松戸駅との往復で約二千歩。〆て八~九千歩。薬師詣での日などは一万数千歩も歩くこともありますから、私にとっては特段の歩数ではありません。
 その日はなんでもありませんでした。
 翌朝、トイレに行くために目覚めました。立ち上がろうとすると、臀部左が痛く、布団に尻餅をついたまま、どうやったら立ち上がれるのか、と考え込んでしまいました。やっと立ち上がることができて、歩き出そうとすると、左脚が攣ったようになっていて、歩くのがぎこちない。ヤヤっと思っているうちに左脚全体が痺れて、やがてシクシクと痛むようになりました。
 横になっていれば楽なら横になって過ごすのですが、仰向けでもうつ伏せでも脚が痛んで眠れません。右側を下にして、まるで胎児のように丸まった姿勢だけが痛みがないのです。しかし、その姿勢をつづけていれば、神経痛のない右腰が痛くなります。結局、二時間ぐらい眠ったかと思うと右腰の痛みで目が覚め、そうでなければ思わず身体をひねるために左脚に強烈な痛みが出て、目が覚めるのです。



 発症したのが七日ですから、翌八日の薬師詣ではとても行けませんでした。十二日の縁日も行けません。東京・本郷にある薬師堂には二十二日も縁日だと記してあったので、これまで出かけたことはありませんが、苦肉の策でこの日まで延期しようと考えました。まさか当日になっても歩けそうもない、という事態になろうとは考えてもみませんでした。

 じつは坐骨神経痛かどうかはまだわからないのです。突然歩けなくなったので、病院に行きたくても、すぐには行けませんでした。痛む箇所は違っていますが、何年か前に坐骨神経痛が出たことがあって、そのときはいつの間にか治まって、以降発症することはなかったので、今回のように長引くことは想像しなかったのです。
 近くに整形外科のあるクリニックがあって、送迎してくれるということを知ったので連絡をしてみると、診察する前に送迎することはできないから、とりあえずは診察を受けてくれという。一度ならタクシーを頼めば行けないことはないので、壁伝いではあっても、独力でどの程度歩けるか試してみてから行こうと思ったら、受診したあとでも、付添がないと受け入れられないという。友人知人の誰かが付き添いを引き受けてくれるかどうかわからないが、一度だけなら誰かに頼めないわけでもない。
 しかし、まだ診察を受ける前です。どのような頻度で通わなければならないのかわからないうちに決めてしまうことはできない。かくて、病院探しはまた遅れることとなりました。

 やっと玄関から道路までの数メートルを歩くことができるようになって、独力でタクシーに乗ることができるようになりました。介護タクシーなら別ですが、普通のタクシーは運転手が乗客の手助けはしてはいけないことになっているそうです。独力でエッチラオッチラと道路まで出て、付き添い不要の別の病院へ行き、レントゲンを撮ってもらいましたが、脚の骨に異常はないということがわかっただけで、原因はまだわかっていないのです。
 二週間分の痛み止めの薬と消炎剤を処方されて、様子を見るということになって、いまはその二週間が経過するのを待っている状態です。

 痛みは多少軽くなったように感じられるときと、あまり変わりはないと思えるときがあります。

 腰を伸ばしてピンと立とうとすると、左脚が痛むので、腰を伸ばすことができません。元気なころは腰を屈めて歩いている老人を見かけることがありましたが、自分はまさにその老人なのだと気づかされました。
 発症する前に洗濯をして、ハンガーに吊るしたTシャツが二枚、鴨居にかけてありますが、手を伸ばして取ることができないので、いまだにかけたままです。柱にかけた時計の電池が切れてしまいましたが、むろん電池交換はできないので、止まったままです。
 洗濯機は外、共同の通路にあります。玄関の三和土を上り下りするのは生易しいものではないので、頻繁に洗濯はできないとはいえ、しないわけにはいかないので、エッチラオッチラ、よいしょドッコラショ、と掛け声をかけながら、玄関を出たり入ったりしています。幸い全自動洗濯機なので、エッチラオッチラしなければならないのは二度で済みます。
 郵便等は通路入口の郵便受けまで取りに行かなくてはなりません。距離にして10メートルちょっと。10メートルがこんなに遠いとは、初めて悟りました。
 ごみ置き場はもう少し近いのですが、郵便物と比べれば多少なりとも重量があるので、苦労するのは大差ありません。

 台所の洗い物も以下同文ですが、何日かに一度はしなくてはなりません。両手を膝につき、腰を屈めて台所まで行くのはなんとかなっても、絶対に不可能なのが立ちつづけていることです。二~三分立っているだけで、脚の痛みもさることながら、腰を伸ばせないので、すぐ腰に痛みがきて、息も上がってしまうのです。
 考えた末、アマゾンでバーに置いてあるような、カウンターチェアを買うことにしました。買ったからといって、万事解決とはいきませんが、立っているよりは長時間シンクに向かっていることができるようになりました。

 買い物はもちろん行けません。幸いネットスーパーというものがある時代なので、餓死しないで済んでいますが、普段のように手にとって買うことができないので、買えるものには限度があります。
 台所に立っていることが苦行なので、手の込んだもの、ガス火にかけて、見ていなければならないような調理はできません。おかずが尠なくて済む炊き込みご飯を炊いたりして飢えを凌いでいます。

 歩けないことを除けば心身ともに快調なので、食欲が減退していないのも困りものです。動かないぶんだけ食欲も衰えているかもしれませんが、服薬、とくに痛み止めのロキソプロフェンナトリウムは胃を荒らすので、必ず三食とったあとで服むこと、と釘を差されています。量的なものはともかく、後始末を尠なくしようとして食事を抜くことはできません。

 先月の中秋の名月のとき、LINEの仲間たちはお互いに満月を撮って送り合ったりして賑わっていましたが、私独りは蚊帳の外でした。窓辺まで行くのが億劫だし、月が出ている角度によっては見上げることができないので、最初から見に行かないのです。

 窓の外を眺める、というのも、いつの間にか、一週間に一度、あるいは十日に一度、と間遠になってしまいました。幸か不幸か、涼しくなってきていたので、窓は閉めたまま、開けたり閉めたりするのに立ち上がらなくてもいいのは助かります。



 引きこもっている間にニラ(韮)の花が咲き、終わりました。



 前の住人が植えたままにしたらしいスイフヨウ(酔芙蓉)はオクテのようで、花の季節は七月から始まるはずなのに、いまごろになってやっと咲き始めました。 

 

 去年、
引っ越してきたときはわりと大きな切り株がデンとあっただけなので、なんの樹なのかわからず、そもそも枯れているのかどうかもわかりませんでした。春がきて葉が顔を出すようになって、ようやくスイフヨウだとわかるようになりましたが、こんなに枝を張るとは予想もしませんでした。
 道路からの目隠しにはなるかもしれませんが、正直なところ、なり過ぎです。

 

 スイフヨウの花言葉は「繊細な美」「しとやかな恋人」「幸せの再来」、そして「心変わり」です。「しとやかな恋人」から「幸せの再来」までの三つは本家であるフヨウ(芙蓉)の花言葉で、スイフヨウは寸借しているのに過ぎません。スイフヨウだけの花言葉は「心変わり」。朝から夕方まで、同じ花が色を変えるというのはあまりいいことではない、と花言葉はいっているようです。

 

 次々と咲き始めるまでは、このように蕾をいっぱいつけていながら、花はポツリまたポツリと咲くだけ。首を傾げていたら、季節遅れのいまになって次々と咲き出したというわけです。

 前回、坐骨神経痛が出たときは病院にかかったわけではないので、実際は坐骨神経痛だったと断言はできませんが、毎日の散歩や買い物、慶林寺への参拝で歩いていたとき、突然脚が痛くなって歩けなくなりました。どうしたんだろうと思いながら、とにかく脚が痛くて敵わないので、近くにあった駐車スペースのポールにお尻を載せて、しばらく休憩すると、やがて痛みは去って行きました。それ以来、ときどき突発的にやってきましたが、最初に偶然身体を預けて、楽になれると識ったポールと同じ程度の高さのものがあって身体を預けることができれば、しばしの休憩で再び歩けるようになったのです。その間に学習しましたが、不適格な高さがあって、どっかりと腰を下ろすような低さではいつまでも痛みは引きませんでした。
 当時、たまに会う元ナースがいて、症状を話すと、「坐骨神経痛ね」といわれました。「また出るかもしれないけど、じきに治まりますよ」と付け加えられましたが、彼女のご託宣どおり、痛みはじきに引いて、以後再発することもなく、苦しんだこともすっかり忘れていました。