桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

シロバナタンポポを見に行く

2012年04月25日 22時36分06秒 | 

 半年ぶりに我孫子へ行きました。
 といっても、目指したのは我孫子市内ではなく、柏市です。

 柏市内のいくつかの地域は柏駅からはバスの便がなかったり、あっても不便だったりして、柏市なのに我孫子駅がターミナルになっているのです。
 この日、私が行った布施弁天(東海寺)周辺もその一つです。柏駅からバス便があることはありますが、朝夕限定の五本しかありません。

 布施弁天周辺を歩くのは四回目です。初めて歩いたのは去年一月。布施弁天の護摩供養を見たいと思ってやってきました。
 そのとき、近くに薬師堂があるのを知って、五月八日に薬師詣でをしようと決め、実際にきたのが二回目です。
 そしてそのとき、もう少し早くきていたら、シロバナタンポポ(白花蒲公英)が見られたのだと知って、来春になったら是非ともきてみようと思ったのでした。

 三回目は十月で、あけぼの山公園にコスモス(秋桜)を見にきました。
 そして今回 ― 。

 日々の散策コースでは、ところどころで蒲公英 ― セイヨウタンポポですが ― が咲いているのを目にしていたというのに、春になったらシロバナタンポポを見に行こうと思ったことはすっかり忘れていました。

 雨でない限り、毎朝一時間ほど庵の周辺を散策します。
 毎朝……のことであるのに、今朝に限って、あっと思いました。
 シロバナタンポポのことを思い出したのです。明日はまた雨、という天気予報だったので、足早に散策を切り上げて庵に帰り、昼食用に持って行く握り飯を握りました。



 我孫子駅北口からあけぼの山公園入口行のバスに乗り、布施荒屋敷というバス停で降りました。シロバナタンポポを見るために出かけてきたのですが、折角近くへきたのですから、二つのお寺へ寄って行くことにします。
 バスを降りて歩くこと十分。「開山七百年」と書かれた善照寺が見えてきました。

 東葛地区では珍しい時宗のお寺です。同地域では私が知る限り、時宗のお寺は野田市、松戸市とここ柏市の三か寺しかありません。いまから七百年前の乾元元年(1302年)、遊行寺二世・真教上人による開創です。



 
善照寺本堂。

 本尊は鎌倉時代の作といわれる阿弥陀三尊です。銅像、鍍金漆箔で、中尊阿弥陀如来は高さ46・4センチ、脇侍の観世音菩薩は35・9センチ、勢至菩薩は36・0センチ。開帳は毎年二度、八月二十一日と十一月十日だそうです。



 本堂前に建つ一遍上人像。

 

 善照寺から目的地へ行く前にもう一つ寄るところがあります。歩いて九分で浄土宗・南龍寺に着きました。
 正保四年(1647年)の創建。本寺は我が庵近くにある東漸寺です。

 


 南龍寺参拝を終えて群生地に向かうと、多分風で飛ばされてきた綿毛が根づいたのでしょう。道路端に花を咲かせるシロバナタンポポを見つけました。

 そして目的地のシロバナタンポポの群生地。すぐ近くにある布施弁天こと東海寺の境外地で、薬師堂など小さな御堂があります。

 

 訪ねるのが少し遅かったかもしれません。すでに綿毛と化し、それすらも風で飛ばされてしまった茎が目立ちます。

 利根川堤防では菜の花の花盛りでした。
 利根川堤防といっても、堤防に上っても川を見ることはできません。水辺まで800~900メートルも離れているのです。

 この堤防を背にして立つと、小高い丘の上に布施弁天が見え、いつになく車の往来が烈しい周辺が見渡せます。

 陽気もいいので、テントハウスで土産物を売る店もそこそこ繁盛しているようです。

 
 

 一面、色とりどりのチューリップです。1万2千平方メートルという広さに十五万球ものチューリップがあるそうです。

 あけぼの山農業公園で見かけたタケノコ(筍)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧中山道浦和宿小散歩

2012年04月20日 17時40分38秒 | 歴史

 慣れぬことをしたので疲れてしまい、四日も前に更新するつもりだったブログが遅れ遅れになってしまいました。
 四日前の月曜日、所用で浦和へ行ったついでに、旧中山道・浦和宿のあったあたりを小散歩してきたのです。
 所用は午後早めに終わる予定だったのに、一時間も長引き、おまけにときおり陽射しは出るものの、肌寒い一日だったので、浦和へ行くことになって、楽しみしていたのんびり小散歩は駆け足で済ませることになってしまいました。



 浦和駅を西口に出て、400メートルほど歩くと、浦和駅西口という交差点です。交差するのは旧中山道で、いまは面影はありませんが、そのあたりが浦和宿のあったところです。その交差点を右に曲がり、600メートルちょっと歩くと、浦和宿二・七市場跡がありました。始まりは定かではありませんが、二・七というとおり、毎月二と七の日に開かれており、月に六回行なわれていました。



 二・七市場跡の標識の奥には慈恵稲荷神社がありました。

 さいたま市在住のメル友に「浦和へ行く」と報せると、玉蔵院というお寺の枝垂れ桜が有名だと報せてくれましたが、すでに花の時期は失しています。



 旧中山道からちょっと引っ込んだところにある玉蔵院山門です。真言宗豊山派の寺院。伝承によれば、平安時代初期に空海が創建したという。



 山門をくぐると、少し先にもう一つ門があり、その奥に玉蔵院の本堂がありました。
 左に枝垂れているのがお目当ての枝垂れ桜であったのですが、ほとんど散ってしまっていたので、本堂を撮そうとカメラのシャッターを押しているときには目の前にあったのにもかかわらず気がつきませんでした。枝垂れ桜は果たしてどこに? と、このあとしばし捜して歩くことになりました。



 境内の左手は小さな公園になっていて、その公園ともども境内は道路で分断されています。
 枝垂れ桜が本堂左手前にあったのにやっと気づきました。なかなか見つけられなかったのも道理で、ほとんど散ってしまっていました。



 地蔵堂。埼玉県指定有形重要文化財の木造地蔵菩薩立像を納めています。

 


 浦和駅西口交差点に戻ってきました。旧中山道と浦和宿を示す石碑です。

 
 


 街道沿いには歴史のありそうな家々が並んでいます。



 二・七市場跡からテクテクと二十数分、2キロ弱ほど歩いて、調(つき)神社に着きました。途中、立ち止まって写真を撮ったりしていましたので、足早に踏破しようとしたら、十五~六分か。
 調神社は江戸からくると、浦和宿の入口に当たります。私の小散歩はここで打ち止め。

 

 神社の入口で待ち構えていたのは狛犬ではなく狛兎(?)でした。
 社伝では由緒を神代としていますが、尠なくとも平安時代以前の創建と見られる古社です。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち年貢のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられました。
 しかし、その役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀二年(771年)で終わりを遂げました。 その後、「つき」という音韻は「月」と結びつき、月待信仰の地となって行きます。 月といえば、使いは兎。だから境内を守護しているのは狛犬ならぬ兎ということになるのだそうな。



 拝殿。


 
 神楽殿。



 手水も普通なら龍が水を吐いているところ、こちらも兎です。



 百度盤。

 この日、何を為すために浦和にきていたかというと ― 。
 ことのはじめは先月末のことです。仕事を捜すことはとうに諦めていたのに、どういう風の吹き回しか、気まぐれを起こして、ハローワークを覗いてみたのです。すると、松戸市の公共施設で受付の仕事があると紹介されました。詳しくはその施設の運営を受託している会社に訊かなければわからないが、施設を利用する利用者から利用料を収受するのと、簡単な清掃作業があるという。雑誌記者しか知らない私ですが、そんな私でもできそうだと思ったのと、ハローワークの職員が「大丈夫でしょう」というのに押されて紹介してもらったら、無事面接を終え、晴れて採用ということになったのでした。その試運転のようなことに臨むため浦和にやってきたのです。


 
 仕事をする場所は松戸市内です。
 松戸市内でする仕事なのに、なにゆえに浦和へ行ったのかというと、その仕事を請け負った会社が浦和にあるからなのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大勝院の山桜

2012年04月15日 22時56分56秒 | 

 三日前、二日前の暖かい、というより暑いほどだった日々と較べると、今日は少し肌寒く感じる陽気でしたが、散歩で歩いているうち、うっすらと汗を浮かべました。



 先月、夫婦連れらしき二人が富士川の土手で何かを摘み取っているのを見て、それが辛子菜(カラシナ)という菜で、おひたしにしたりして食べられること、こんなところに自生していることなどを識りました。
 それから二週間経ってみると、スルスルと茎が伸び、花を咲かせていました。アブラナ科特有の花です。葉っぱはすでにゴワゴワしていて、コリャ食べられそうもないナ、という感じです。

 ふと大勝院の山桜を観に行こうかと思いつきました。樹齢七百五十年という桜です。
 大勝院は真言宗豊山派の寺院です。北小金周辺では由緒ある寺院の一つなのですが、私が普段散歩をするのと正反対の方角に当たるので、行く機会は滅多にありません。



 山門に到るまでに、かつては両側に塔頭が並んでいたのだろうと思わせる、長さ300メートルほどの参道があります。



 これは山桜ではありません。前の画像で山門左に写っている染井吉野(多分)。



 大勝院を紹介している松戸市のホームページには、「境内に入るには事前許可が必要」という注記がありますが、ほとんど誰もいないことが多く、私がくるのも数か月に一回程度という頻度なので、無断でお邪魔させてもらってもいいんじゃないでしょうか、と独り言を呟きながら入ります。第一、入山如何を問うべく、庫裡らしきところを訪ねようとすれば、とりあえず無断で境内に入って、縦断しなければならないのです。



 樹齢七百五拾年と記された山桜の石碑。



 これが山桜です。主幹は割り竹で覆われたところから少し上で朽ちてしまっています。

 


 墓域のあちこちで咲いている東洋錦です。
 去年のいまごろ、山桜を観にきて、初めてこういう花があることを識りました。薄いピンクの花びらに紅の筋が入るというのも不思議ですが、同じ枝からまったく異なった紅一色の花が咲くというのも不思議です。
 園芸図鑑には改良された品種で人気、と書かれていましたが、そういう不思議を「改良」といっていいのかどうか。



 大勝院からの帰り道、新しい猫スポットを見つけました。目隠しの陰にもう一匹います。初めて会う私に物怖じしないところをみると、二匹とも飼い猫のようです。
 ここもいつもの散歩コースではありませんが、本土寺の参道からはわりと近いので、これからはキャットフードを持って、ちょくちょく寄ろうかと思います。



 本土寺参道の桜は半分ほど散ってしまいました。正面が仁王門です。
 現金なもので、日曜だというのに花見客の姿はパッタリと途絶えました。雪柳も盛りを過ぎました。



 桜と選手交代して山吹が満開期を迎えています。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梨の花が咲いたよ

2012年04月12日 22時44分36秒 | 風物詩

 今日四月十二日の午前十一時台、アメダスを見ると、我が松戸地方の気温は20度を超しました。
 半袖のTシャツはまだ衣装ケースの奥深く眠ったままなので、冬のままの長袖Tシャツの上に薄目のトレーナーを着て、ちょっと寒いかもしれぬが……と思いながら外に出ました。

 本土寺参道の桜は東京より四日も遅れて満開を迎えました。平日の朝なのに、参道には結構な数の見物客が出ていました。



 桜の樹の下は両側とも雪柳です。



 五重塔と桜。



 仁王門の屋根と桜。
 本土寺の周囲を半周ののち、後ろの森に到ると、盛んに鶯が啼いていました。ほかにもいろんな鳥の囀り。



 先日、花屋で名前を憶えたばかりのムルチコールかと思って写真を撮り、庵に帰ってから図鑑と照らし合わせてみたら、ペチコート水仙でした。



 毎月八日の薬師詣でで遠出をしたり、雨が降ったりしなければ、一日に一度は訪れる流山・前ヶ崎の香取神社の桜です。
 本土寺の桜は満開を過ぎて散り始めていたというのに、こちらはまだ蕾が残っていました。



 香取神社から眺め下ろした梨畑です。遠目ではなんとなく白っぽいと見えるだけですが……。

 



 近くまで行って見上げると……桜に代わってほぼ満開を迎えた梨の花盛りです。このあとしばらくすると、キウイの花が咲きます。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年四月の薬師詣で・印西市

2012年04月08日 20時37分36秒 | 薬師詣で

 三月に薬師詣でをした川口三薬師のうちの二薬師になぞらえて、四月は印西市にある二薬師を巡ることにしました。詣でるのは松虫寺と栄福寺。

 奈良時代、聖武天皇(701年-56年)の第三皇女に松虫姫という姫君がいたそうです。
 年ごろになって重い病に罹りました。それは現代でいうハンセン氏病とも、瘤(こぶ)のできる病だったともいわれています。そういう病に罹ってしまったので、姫はもとより父帝や母の后の嘆きはひとかたではなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが、病は重くなるばかりでした。
 ところがある夜、天皇が見た夢に、坂東の下総に効験あらたかな薬師如来があるというお告げがあり、天皇は藁にもすがる思いで松虫姫を下総に下向させることにしたのです。

 しかし、当時の坂東は都から見れば聞くも恐ろしい化外(けがい)の地であったので、心細いこと限りなく、進んで行くうちに、従者は一人逃げ、二人去りして、下総の国府(現在の市川市)に着いたときには、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
 一行は国府をあとに、疲れた足を引きずるようにして、印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上にありました。

 都を遠く離れて、見知らぬ坂東の、人家もまばらな貧しい村里にたたずむ心細さはたとえようもなく、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりでしたが、松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかに生きる望みがないわけです。
 必死に祈ることだけが、ただ一つの生きる証しなのでした。
 姫は気を取り直して、薬師堂のかたわらに草庵を結びました。
 雨の日も風の日も、粉雪が舞い乱れて寒風吹きすさぶ冬の日も、その草庵で朝夕一心に祈りつづけたということです。
 乳母や従者たちも、近くに小屋をかけて、姫と行をともにしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝えて、生活の糧としながらかしづいていました。

 瞬く間に数年の歳月は流れましたが、姫の一念は御仏に通じて、さすがの難病もあとかたもなく全快しました。
 姫はもとより従者たちの喜びは一方でなく、また都の技術を教わった里の女房や娘たちも、すっかり松虫姫を慕うようになっていたので、ともに喜んで、病気全快の報せはただちに都へ届けられました。
 都からはさっそく迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は見知らぬ下総の地で途方にくれる自分たちを親切にいたわってくれた淳朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自をこの地に残し、都の技術を広めよと命じて、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
 都から姫を乗せてきた牛は年老いていて、乗るのに耐えられなくなっていたので、乳母とともに残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたといいます。
 村人はその牛の心根を哀れみ、いまも「牛むぐりの池」と呼んで語り伝えているということです。

 松虫姫から詳しい様子を聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師仏を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧・行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立しました。それが松虫寺です。

 その後、松虫姫がどのような運命を辿ったかというと ― 。
 異母兄・塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争にまきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えました。



 北小金発九時五十二分の我孫子行に乗って、終点の我孫子で成田行に乗り換え。六つ目の小林駅に降り立ちました。

 松虫寺の最寄り駅は北総鉄道の印旛日本医大駅です。それなのに成田線に乗ったのは……。
 目的は薬師詣でではありますが、その前に吉高というところまでバスに乗って、有名な吉高の大桜を見ようと思ったのです。
 やってきたのはマイクロバスでした。乗客は私ともう一人の二人だけ。乗車時間は十五分。
 途中、道路を外れて狭い坂道に入ります。そこは吉高台団地という分譲住宅地で、バスはクネクネと曲がりながら走り、誰も乗らず、誰も降りることなくもとの道に戻って、ひたすら走りつづけました。



 教習所前という停留所でバスを降りると、畑のほかには何もないようなところなのに、結構な数の人が行き交っていました。



 これが吉高の大桜です。樹高11・7メートル、枝張24・5メートル。残念なことに花はまだ咲いていませんでした。
 印西市のホームページには開花状況が載せられていたのですが、そのことを知ったのは帰ったあとのこと。
 この桜を観るのが今日の目的ではないので、気を取り直して本来の目的であるところの薬師詣でを果たすため、およそ2キロ先にある松虫寺を目指すことにします。



 何かのおまじないでしょうか。根が二股に別れていて、絡まったりしている大根もありました。



 吉高から松虫寺へ向かおうというのは私独りだったようです。径を外れると、もともと鄙だった周りの雰囲気がさらに鄙びて、行き交う人の姿も消え、こんな標識が現われました。

 描かれている猪突猛進するヤツは私の干支ではありますが、テキにとってはそんなことは全然関係がない。熊には鈴が効果的と聞いたことはあるけれど、猪に効果があるかどうかは知らないし、効果があるとしても、持ち合わせていません。
 たまたま長さ1メートルほどの棒切れが落っこちていたので、杖代わりにもしようと拾って、おっかなびっくり歩き出しました。



 やがて径が下りになって、畑が見え、農作業をしている人の姿が見えて、やっと一安心……と思って棒切れを棄てました。ところが、今度はこんな山径が待ち構えていました。



 幸いにして何にも襲われることなく、松虫寺に到着しました。吉高の大桜から歩くことおよそ三十分でした。



 仁王門。仁王は運慶作。先に触れたように、松虫寺は天平十七年(745年)、僧・行基の開創と伝えられ、はじめ三輪宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属して今日に至っています。奈良・東大寺(大仏殿)の建立は752年のこととされているので、松虫寺はそれよりも七年も遡った年の開創ということになります。



 薬師堂。祀られている七仏薬師如来は榧材の一本造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定されています。

 


 瑠璃光殿。ここに薬師如来が祀られているはずです。開帳は三十三年に一度。



 本堂。寛政十一年(1799年)の建立、阿弥陀如来、不動明王とともに松虫姫尊像を祀っているので、松虫姫堂とも呼ばれています。



 松虫姫神社。



 松虫姫の病が癒えて京に帰るとき、植えて行ったとされる樹。

 近くにもう一つ薬師如来を祀るお寺があるので、足を延ばします。



 松虫寺から徒歩十八分。帰りの電車に乗るつもりの印旛日本医大駅ですが、横目に見ながらいったん通り過ぎます。



 松虫寺から三十七分。天台宗栄福寺に着きました。。



 栄福寺薬師堂。棟札には寛正七年(1466年)六月柱立、応仁三年(1469年)霜月上棟、文明四年(1472年)二月成就と墨書銘があり、建立年代の明確な建造物としては千葉県下最古として知られています。堂内は赤や青など鮮やかな彩りで飾られており、国の重要文化財にも指定されています。

 栄福寺の沿革は明らかではありませんが、本尊の薬師如来像は天平元年(729年)に造られた、とも伝えられています。

 印西にはもう一つ訪ねたいと思う薬師堂があります。栄福寺と同じように国の重要文化財指定を受けた泉福寺の薬師堂です。
 しかし、どこにあるのか場所がわかりません。印西市のホームページには所在地は「印西市岩戸1671番地」と記載されています。早速インターネットの地図ソフトで捜したのですが、1671番地という地番は存在しない(ことになっています)。
 ウニャウニャ、どういうこっちゃ? と思いながら千葉県学事課の宗教法人リストに移動してみても、地番は一緒です。
 親切な自治体であれば、リンクが張ってあって、クリックすれば地図のページに飛ぶ、というような仕掛けがしてありますが、印西市にはそういう仕掛けがありません。
 観光協会のホームページがあったので、視てみましたが、市と同じく名称・所在地などが記載されているだけで、地図がありません。



 北総鉄道の印旛日本医大駅に戻りました。ここから帰りの電車に乗ります。駅名表示板には松虫姫という副名があります。



 印旛日本医大始発の電車。この車両に乗ったのは私ともう一人だけでした。

➡JR成田線小林駅から北総鉄道印旛日本医大駅までの行程です。小林駅から吉高の大桜近くまではバスを利用。電車とバスの待ち時間も含めて四時間半の行程でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする