寒波が押し寄せるこの時節、私は決まって鼻風邪をひいています。たんなる鼻風邪であれば、洟水が垂れるのと戦えばよいのですが、ごくごく稀に熱を出すことがあります。
そのごくごく稀なことが日曜日の朝、目覚めたときに起こっていて、ぼんやりしたまま今日までを過ごしてしまいました。
四日も前の一月八日。薬師如来の縁日なので、お参りに行ってきたのですが、その夜からなんとなく身体がだるくなり、翌朝から熱っぽい頭を抱え込むことになったので、ブログを書こうと思っても、てんで文章がまとまらず、私と一緒に今朝まで布団の中で暖まっていました。
八日は年が改まって最初の縁日、すなわち初薬師でした。
去年の十一月、入院後一年を経過した日に、薬師如来を訪ねてお礼参りをしようと決めていました。十二月八日に早速、と思ったのですが、十二月は終い薬師(しまいやくし)ということになります。初め、が終(しま)いではなんとなく腰の据わりもよくないと感じて、一月八日になるのを待っていたのです。
入院する直接の原因となった病気は完治しましたが、その後、発覚した別の病気-体質といったほうがいいかもしれません-があって、これが治るまでには時間がかかる。投薬と規則正しい生活と食餌療法とで気長に治して行くしかないようなのです。
完治したはずの病気も、私はどうやら再発しやすい体質の持ち主であるようなので、それを防ぐためにも薬を服みつづけねばなりません。
毎日欠かさず薬を服んでいるから、曲がりなりにも体調はよいのかというと、日によって偏頭痛に悩まされたり、胸苦しさに襲われたりします。去年はそういう日が何日もつづくことがありました。
しかしいまでは、「きたな」と思うことがあっても、不快な気分が一日じゅうつづくようなことはなくなりました。しばらく横になっていれば治まったり、なだめすかしながら庭仕事をしていたりすると、いつの間にか去っていたりします。
すっかりなくなってくれれば、それに越したことはありませんが、毎日毎日おかしな状態がつづき、次第に心も弱って、このまま逝くのかもしれない、と不安にさいなまれた日々を思い返すと、ときたま、それもほんのしばらく我慢していれば、遠ざかって行く、という現在の状態はじつにありがたいことである、と思えるようになりました。
治ってほしいと思って薬師如来に願をかけたことはありませんが、よくなったのは私のような者にも薬師如来のご加護があったおかげであろうと考えて、毎月八日の縁日には薬師詣でをせむ、と決めたのです。
さて、薬師如来をお祀りしているところといっても、近場でとっさに思い浮かぶのは、市川にある下総国分寺、我孫子の興陽寺、柏・鷲野谷の醫王寺、同じく柏・酒井根の薬師堂ぐらいしかありません。四か所とも一度ずつ訪ねて、御堂を見ています。
薬師詣でというと、数に決まりはないようですが、一日にいくつか巡るのが本来のようです。しかし、私が思い浮かべた四つの御堂は離れ離れに点在しているので、一日一か所しか行けません。
と、なると……と心を巡らせると、一番心を惹かれるのは柏の醫王寺です。しかし、距離的には四つの候補の中では一番遠い場所にあります。
迷っているうちに、時間は昼を過ぎてしまったので、酒井根の薬師堂に行くことに決めました。
この薬師堂と馬橋の萬満寺はなんの関係もありませんが、萬満寺の終い不動(しまいふどう)の催しは午後三時までだったので、時間的にはどこもそんなものかと考えると、間に合うように行けるのは、酒井根しかなくなりました。
決めたあとも迷いのようなものが残っています。それは、ほかの三つがいずれもお寺の境内にあるのに対して、こちらは無住の御堂である、ということでした。
酒井根の薬師堂までは、歩いておよそ一時間かかります。途中でかつて水源を探索して歩いた富士川を渡りますが、このあたりでは暗渠になっています。多分この道路の下を流れているはずです。
裏口から迫った薬師堂はひっそり閑としていました。
御堂の脇を抜けて前に回ると、予感は当たっていました。
扉は閉まったままで、錠前が下ろされています。何か催しがあったけれども、早めに終わってしまった、という余韻は感じられません。持参の線香をあげようと思いましたが、小さな賽銭箱があるだけで、香炉もありません。
何はともあれ、お賽銭をあげて……。
自分の願はかけないけれども、他人の幸せや病気治癒を願うのは抵抗がないし、奥ゆかしいヤツじゃ、とお薬師さまが聞き届けてくださるような気もするので、最近交流を始めたばかりのメル友が転んで尻の骨を打ったというのと、慢性の病を抱えているもう一人の友のために、一日でも早くよくなるように祈願致しました。
中を覗いてみようと近づいてみましたが、磨り硝子なので何も見えません。
どんな仏像が安置されているのか気になるところではありますが、まあ、イワシのアタマも信心から、というぐらいですから、中には何もなかったということでも構わないわけです。
この薬師堂の創建は正長元年(1428年)と伝えられています。
四百年後の安政二年(1855年)になって、河瀬鳳瑞という人が堂守りになりました。武蔵国葛飾郡長島村(現在の江戸川区東葛西)の梵音寺というお寺の住職でした。
それまでは荒れ果てた御堂だったようで、この人の手によって境内の清掃と整備が進められました。
御堂の後ろには四国八十八か所を模した石像が建立されていますが、これを建てたのも河瀬鳳瑞です。実際に四国八十八か所を巡って、それぞれの土を集めて帰り、石像の下に埋めたと伝えられています。
梵音寺というお寺はいまも東葛西にあるようですから、いつか訪ねてみようと思います。
御堂の左に、薬師堂の由来を記した、このような説明板が建てられています。
無住なので誰の手によって管理されているのかわかりません。無縁仏ではないけれども、昔は村落の住民たちが共同で管理していたものが、時代を経て、顧みる人がいなくなってしまった、ということではないのか。
そのように思っていたら、クレジットに柏市文化財保護委員会、柏市教育委員会と並んで、すぐ近くにある龍光寺、とあったので、この御堂を管理しているのは龍光寺なのであろうと思って、寄ってみることにしました。
石段を降りると、四国霊場八十八箇所○(最後の一文字・○の部分だけ読めませんでした)と刻まれた石碑があります。
文化九年(1812年)、いまはバス通りになっている御堂の入口に道しるべとして建てられたものです。昭和の初め、バス通りが改修されるのに伴って、ここに移されたのだそうです。
龍光寺の山門(画像上)と安永二年(1773年)建築の本堂です。
こちらもひっそり閑としていました。いつもの例で、私が訪れる寺院は十中八九人影がありません。
庫裡を見ると、窓にはカーテンがかかっていて、物音もしません。子ども用の自転車が置かれていたので、たまたま一家揃って外出、ということだったのでしょう。
本堂前に線香とチャッカマンが置いてあったので、お賽銭をあげて線香をいただくことにしましたが、よくよく見ると空っぽの火鉢が置いてあるだけで、ここも香炉がない。線香はやむなく持ち帰ることと相成りました。
龍光寺を出ると、すぐ近くに南柏駅に出るバス停があります。なんとなく消化不良のような気分で歩いていたら、バスがやってきたので、とっさに乗ってしまいました。
この日はちょっぴり暖かい日でした。油断したのかもしれません。慣れぬことをしたからかもしれません。
病気が治った御礼参りと友人の病気平癒の祈願に行ったのに、風邪をもらって帰ってくることになりました。