桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

初雪のち快晴

2011年01月18日 17時38分44秒 | のんびり散策

 十六日、千葉県地方に初雪が降りました。



 目覚めたとき、家の周りがいつもと較べて一段と静かであるように思えたので、もしや、と思って窓を開けたら、このような雪景色でありました。
 一旦は熄んでいた雪が七時ごろにはまた舞いましたが、熄むと陽の光が漏れて、抜群に日当たりのよい我が庭の雪は一時間もしないうちに解けてしまいました。
 あとは快晴……。



 そして昨日も快晴、今日も快晴。富士川上空は雲一つ見えぬ快晴つづきです。

 


 前ヶ崎キャンプ場の下に湧水があったのを初めて知りました。

 キャンプ場を抜けると野球グラウンドがあり、その先に前ヶ崎香取神社があります。
 このところ毎日、猫の小春に会います。散歩に出るのは気が向いたときなので、時間は一定ではありません。それでも、概ね午後一時から三時にかけて、と決まっているので、私がくるのを待ち構えているのかもしれません。
 香取神社の脇を歩いていると、いち早く私を見つけて「ニャー」と鳴いたり、鳥居をくぐった途端にガサゴソと熊笹の葉の鳴る音がしたかと思うと、「ニャー」と鳴きながら姿を現わしたりします。
 首輪をつけているところを見ると、飼い猫なのだろうと思われますが、何も食べさせてもらっていないのか、いつもがっついています。

 


 顔を撮ってやろうと思うのですが、こやつは片時もじっとしていることがないのです。
 じっとしているのはおやつを食べているときだけ。食べ終わると「ニャーニャー」とおやつの追加を催促しながら私に迫ってきます。向かってくるところを撮ってやろうと腰を下ろしても、動きが素早いので、ピントを合わせるいとまがありません。
 で、いまのところ撮影可能なアングルは上か横からしかないのです。尻尾がないので、後ろから見ると茶色の兎みたいです。



 もう一匹の猫・うさ伎(うさぎ)に会いに行くためには、こんな泥の坂道を上って行きます。上り口は窪地になっていて、陽が当たらないので、二日前の雪が氷となって残っていました。

 この方面に散策に出たときは必ず覗いていますが、うさ伎の姿は暮の二十六日から見ていません。この坂道を上り切ると、日当たりのよい梨畑があって、日向ぼっこをしているうさ伎がいたものですが、くる日もくる日もガッカリして帰る日がつづいています。
 そろそろ……もうここにはいないのだ、と考えを改めるころなのかもしれません。

 わずか二度目にして私の膝下に蹲り、顔を洗うなどリラックスした様子を見せていたのですから、もともと人懐っこい猫だったのかもしれません。猫好きな人にもらわれたのならよいのですが……。



 泥道を上ったところは梨畑です。いつもうさ伎が日向ぼっこをしていた場所です。



 県立西部図書館で「徳川實紀」を借りるときに立ち読みした「松戸郷土史談」という本に、東雷神社のことが載っていたので、久しぶりに足を運んでみました。
 その本には、旧水戸街道を往来する旅人たちが落雷に難渋していたのを鎮めるために祀られた、と記されていましたが、「東雷」をどのように読んだらいいのか、書かれていません。

 かつて私が住んでいた新松戸のマンションと流山の東福寺の中間に雷(いかづち)神社という社があります。その社と連関があるのかどうかわかりませんが、その社から見ると東の方角にあるので、私は「ひがしいかづち」と呼ぶことにしています。



 うさ伎のいる梨畑から東雷神社へ行くのには富士川を渡り、この跨線橋で常磐線を越えます。
 この跨線橋は鉄道写真マニアの間では有名撮影地なのだそうです。この日も三人の若者が電車のくるのを待ち構えていました。

 北小金駅近くの花屋さんに秋桜(コスモス)の種が出ているのを見ました。買おうかと思ったら、早咲きも含めて五種類もあったので、播き時まではまだ二か月以上もあることもあって、しばらく逡巡することにしました。



 北小金駅北口に慶林寺という曹洞宗のお寺があります。
 駅から近いのですが、私が帰るのとは反対方向なので、滅多に立ち寄ることはありません。二、三度寄ったことがありますが、いつも門が閉じられていたのでなおさらでした。
 昨日、散策ついでに気まぐれを起こして通りかかったら門が開いていました。



 門前にある河津桜です。早ければ今月下旬にも花が見られるかもしれません。
 春の兆しを見つけたせいか、朝晩は厳しい寒さがつづく中でも、私の心の中に暖かい火が灯ったような感じがしています。
 日の出は少しずつ早くなり、日の入りも遅くなっています。



 門が開いていたので境内に入らせてもらいました。
 前々から見てみたいと思っていた高城胤吉夫人・月菴珪琳(げったん・けいりん)尼の墓です。
 慶林寺は胤吉の嫡男・胤辰(たねとき)が母の菩提を弔うために永禄八年(1565年)、桂林寺として建立したお寺です。
 高城氏は秀吉の小田原征伐によって没落しますが、それは天正十八年(1590年)のことです。お寺を建てた当時は小金周辺を支配する領主でした。そのわりには質素な墓石です。

 高城氏の没落後、家康から朱印を与えられたのを機に、名を桂林寺から慶林寺へと改めます。
 本尊は大福薬師瑠璃光如来、祀られている寺院を追々捜しながら詣でようと思っていた薬師如来です。想像もしてみなかった近いところでお会いすることができました。ただ、お姿は外からではまったく見えません。



 こちらは小金牧の野馬奉行だった綿貫夏右衛門の墓。
 これも先の「松戸郷土史談」で読んだ話です。

 夏右衛門は元の名を山梨十(重)右衛門といい、馬術の名手だったそうです。秀吉の小田原征伐のときは北条方に味方して小田原城に籠城しました。しかし、城はあえなく落城。慶林寺の住職を頼って落ち延びました。

 北条氏に替わって関東を支配することになった徳川家康は小金牧を再興しようと考えます。そこで事情に通じた者に訊ねたところ、奉行役と牧士支配は夏右衛門がよいということになり、早速引見することになりました。
 夏右衛門が招かれたのは四月といいますから、いまでいうと五月。そろそろ暑くなるころなのに、没落して以降、貧乏暮らしをしていた夏右衛門が持っていた外出着は綿入れしかありません。やむなくその着物から綿を抜いて出かけました。
 その姿を見て、家康は腹を抱えて笑い、向後、綿貫夏右衛門と名を改めてはどうか、といったので、山梨十右衛門が綿貫夏右衛門となった次第です。
 ここには「山梨」と記されていますが、北小金には「月見里」と書いて「やまなし」と読ませる家が残っているので、恐らくは月見里十右衛門であったのだろうと思います。



 一度家に帰ったあと、湯屋に行きました。
 電気風呂というものに初めて入りました。入っていると、ときどきピリピリッときます。それほど強い刺激ではありませんが、どんなときにくるのか、と考えていると落ち著かない。一回入ったら、もういいか、という感じです。
 出たあとに気づきました。入ってはいけない人に、高血圧症、心臓疾患などと並んで、老人、潰瘍、とありました。
 電気風呂のほかにはサウナと水風呂、露天、ジェットバス、それに白湯、とありますが、サウナ、水風呂、露天はまだ試していません。

 湯屋に行ったときの私のパターンは大体決まっています。
 足と下半身にお湯をかけて洗ったあと、一回目の入浴。いまの季節、冷え切った身体で、いきなりザブリとは行かないので、数分間半身浴。下半身と手が暖まるのを待って、ようやく全身を湯船に沈めます。スーパー銭湯と違って、街の湯屋の良さはなんといっても熱めの湯温です。

 額にうっすらと汗が滲むようになったら、湯から出て身体を洗います。そして二度目の入浴。今度は頭髪と顔を洗って三度目の入浴。最後にもう一度身体を洗って四度目にして最後の入浴。
 このころには、目に入るほどの汗が額から噴き出していますが、両肩だけは暖まっていない。
 両肩も暖かいと感じるまで入ったことはありませんが、そんなことをしたら恐らく逆上せあがってしまうほうが先でしょう。



 湯上がりに牛乳を飲みました。ここでもスーパー銭湯とは違って、硝子張りの冷蔵ショーケースに入っているのを自分で取り出し、番台に¥120也を払う昔ながらのシステムです。



 湯屋を出るときにはすでに陽は沈んでいます。
 これは行きに湯屋の近くで撮った写真。右のブロック塀の家の飼い猫殿です。三匹いますが、この猫殿だけ私を憶えていてくれるようです。市立図書館の小金分館へ行くときもこの道を通ります。立ち止まって「やあ」と声をかけると、「ニャー」と鳴いて近寄ってきてくれます。

 湯屋を出たあと、北小金駅のコンコースを通り抜け、本土寺参道入口までスタスタと急ぎ足で歩いても十一~十二分かかります。
 
寒々とした参道の並木道に差しかかるころ、少しずつ冷え始めていた身体が、覿面に寒さを感じるようになります。そこから我が庵まではさらに六~七分。
 汗をかくほど温まったはずの身体は完全に冷え切っています。

コメント (2)
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