六月の薬師詣では埼玉県の久喜へ行くことにしました。
新越谷で乗り換えた東武線で久喜駅まで行き、そこでJR宇都宮線に乗り換え。一駅だけだけ乗って、東鷲宮で降りました。
出口は西口しかなく、そのまま駅を背にして歩き出せばよかったのですが、なぜか勘違いを起こしていて、線路の下をくぐる地下通路を通って、東側に出ていました。
東武線の電車が久喜駅に着こうとするとき、電車は北に向いて走っているのに、なんとなく東京方面(すなわち南)に向かっているような錯覚を起こしたのが原因です。
この日の天気は曇ときどき晴で、駅に降り立ったときは雲が厚くて、太陽が見えなかったことも災いしました。
いつもどおりコンパスを携帯していたので、逸早く見て確かめればよかったのですが、田んぼや野原の中ならともかく、まさか駅で方向感覚に狂いが生じているとは思わなかったので、コンパスは取り出すことなく、しばらく勘違いの中で時を過ごしたのです。
西口に戻って歩き出したあとも錯覚はつづいていて、駅をあとにしてすぐ、わりと交通量の多い埼玉県道・さいたま栗橋線を横断するのですが、実際は西に向かって歩いているのに、東に向かって歩いている感覚があるので、右折すべきところを左折してしまいました。
それが帰ってきてからも尾を引いているものか、この記事を書いているときも、東西を取り違える錯覚が起きます。
葛西用水路を渡ります。
道の両側にコスモスが咲き乱れていました。
川か用水路かわかりませんが、もう一つ橋を渡りました。
さらに青毛堀川を渡ります。
東鷲宮駅で右往左往した時間を除くと、正味十八分で最初の目的地・寿徳寺に着きました。
大同二年(807年)創建の真言宗豊山派の寺院です。かつては七堂伽藍を備えた大刹であったと伝えられています。
薬師堂です。
堂内に安置されているのは、久喜市有形文化財の木造薬師如来坐像です。像高52・6センチ、鎌倉時代の作といわれています。伝来は明らかではありませんが、像内に元禄十一年(1698年)、上内村自性院の住職・法印淳目という人が薬師如来を修理したという記録が残されていることから、本来は自性院に安置されていた仏像であると考えられています(自性院は明治三十九年に寿徳寺に統合されて、いまではありません)。
二つ目の目的地は光明寺ですが、寿徳寺からはおよそ三十分とちょっとホネのある距離を歩かなくてはなりません。近道はあるのですが、初めてきた土地です。迷わないよう遠廻りを承知で、東鷲宮駅を出たあと、最初に横断した埼玉県道・さいたま栗橋線を目指し、久喜駅入口交差点まで歩いて行きます。
途中で一か所だけ寄り道。甘棠院(かんとういん)です。
臨済宗円覚寺派の寺院です。開基は古河公方第二代の足利政氏で、永正十六年(1519年)の創建。
山門をくぐったあとはここで行き止まり。通せんぼの向こうには足利政氏の墓と館跡があり、さらに甘棠院史跡公園があって、こちらは違う径を辿れば行けたみたいですが、そうとは知らなかった現地では、ここでクルリとUターンします。
甘棠院門前から四分で、この日二つ目の目的地・光明寺薬師堂に着きました。
この薬師堂では正月に「どらなわ」という行事があります。江戸時代から受け継がれている行事で、一月五日の朝九時ごろから長さ15メートル、太さ30センチの大縄を綯い、昼ごろに薬師堂に飾られている古い「どらなわ」に替えて、新しく結い直した「どらなわ」を薬師堂に飾るというものです。江戸時代から受け継がれている行事です。
薬師堂の背後に光明寺の本堂がありました。
もう一度薬師堂の前を通り、四分で天王院。
大永三年(1523年)に開かれた曹洞宗の寺院です。
我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。
天王院境内の呑龍堂。
五月七日・八日の両日には「呑龍様の祭り」が開かれます。呑龍様とは子育て呑龍ともいわれている、子どもの守り神です。
天王院から久喜駅までは九分。帰りはここから東武線に乗ります。
地元に戻ってきて慶林寺に参拝。これにて今日のお勤めは無事終了しました。