桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

梨と松平定信

2009年07月30日 07時06分02秒 | 歴史

 通勤途中で見る梨には、このところ大きな変化が見られません。
 市川大野駅と勤め先の中間にある梨の即売所は、まだ店開きはしていないものの、佐川急便の幟が立てられて、開店を待つばかりです。



 通勤途上に二つの梨園があります。駅に近いほうから、私は勝手に、第一、第二と名づけていますが、第二梨園の画像です。
 スーパーでは十日ほど前から梨が出まわり始めているのに、この梨園の収穫はまだ先のようです。

 梨の木を見ると、私は松平定信(1758年-1829年)
という名を思い出します。
 なにゆえに松平定信か、と自分でも妙だと感じるのですが、梨というと、定信がある日記に記した、

「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ」

 という一文が思い出され、ねじ曲げられた梨の枝を、肩が凝るような思いで眺めている定信の姿が思い浮かぶのです。

 定信は「枝を繁く打ち曲げて作る」と記していますが、私が見る限り、梨の枝は最初に枝が広がるところだけ無理に横に伸ばしているという印象を受けるものの、あとは伸び伸びと育っているようで、一か所だけというのは「繁く」という言葉には当たらず、いうほど窮屈そうには見えません。
 定信が見た木と私が見る木では種類が違うのか。定信の時代からおよそ二百五十年経ったいまでは品種改良が進み、それほどねじ曲げずに済むようになったのか。

 以下、梨の話からそれます。
 定信は田沼意次のあと、老中首座に就任して糜爛した政治を立て直そうとしましたが、やがてあまりにも清廉潔白な政策が人々の不満を生んで、失脚した人です。



 奥州白河藩の藩主でしたが、もともとは御三卿筆頭・田安家の七男坊でした。八代将軍・吉宗の孫です。幼少のころから聡明で知られ、時の十代将軍・家治の後継と目されたこともありました。
 定信の青年期は田沼意次の全盛期です。反田沼の急先鋒となりました。
 ここに、暗躍する人物が登場します。定信より七歳年上の従兄弟・一橋治済(はるさだ・1751年-1827年)です。

 反田沼の黒幕として暗躍したものの、田沼の勢力があまりにも強く、我が身の危険を感じると、掌を返すように田沼に接近するという人物です。
 このへんの変わり身のよさは、いたく私の興味を惹きますが、また話頭を転ずることになってしまうので、治済の人品にふれるのは別の機会に譲ることにします。

 定信が老中首座に就任したのは天明七年(1787年)、二十九の歳です。
 先に老中を拝命していた先輩には鳥居丹波守忠意(七十一歳)、牧野越中守貞長(五十五歳)、水野出羽守忠友(五十七歳)、阿部伊勢守正倫(四十三歳)と四人おりました。二十九歳の定信から見ると、遙かに年上ばかりです。
 だからといって、臆していたのでは仕事にならない。ただ、臆さないことと相手を見下すような態度をとることとは別です。

 何か政策を提案したり、行なおうとする場合には、いかに老中首座とはいえ、「何々されてはいかがでござろう」というのが普通
です。年功序列の時代ではないといっても、定信はまだ新米の上に、若造です。
 ところが定信という人は「何々されよ」と命令口調でいってしまう人でした。いわれた側は、カチンときます。
 定信のほうでは決して見下しているわけではないのです。そういう言葉遣いしか知らないのです。だから、自分の言い方は少しも変だとは思わないし、そのことでカチンときている人がいることには全然気づかない。

 諸大名は将軍の家臣ですが、御三家御三卿は家臣ではありません。お城(江戸城)へ上がるときの決まりも、将軍に対面するときの決まりも、家臣である諸大名に較べれば特段に優遇されていて緩やかです。
 それは御三家や御三卿だからであって、その人個人に許されているのではないのです。定信は自分が生まれた田安という家に許された特権だったのだから、その家を出てしまえば将軍にとってはただの家臣の一人になった、ということに気づいていなかったようです。

 厳粛な評定の席で「何々されよ」ときたのでは、雰囲気は冷たいものになります。緊張してそうなるのではない。白けているのです。
 世間知らずの坊ちゃん一人が白けに気づいていない。いまでいう「KY」です。
 坊ちゃん育ちで、根は天真爛漫かというと、隠密を使うのに、その隠密が信用できず、さらに隠密をつけるという疑り深い性質でもあったらしい。

 若くして老中首座に推挙されたのは、将軍家の血を引いていたからではありません。白河藩主時代、財政を建て直した手腕を、とくに御三家が揃って評価した結果です。御三家、取り分け尾張は田沼に恨み骨髄のものがあったので、余計強く推挙したようです。

 定信が白河藩主となったのは天明の大飢饉の最中、天明三年(1783年)のことです。飢饉に苦しむ領民を救うため、定信はみずから率先して倹約に努め、素早く食料救済措置を行ないました。結果、白河藩では餓死者が出なかったといわれています。

 天明の大飢饉では東北地方における被害が取り分け大きかったのですから、これは特筆すべきことかもしれません。
 しかし、このときの食料救済措置は市場の米を買いあさるという方法だったため、米価の急騰を招き、他藩では餓死者が増える、という結果を招いてしまったのです。
 白河藩がとった措置の火の粉を被らなかった御三家は、天晴れ天晴れと手を打ちましたが、たかだか一藩における功績が全国に通用するものかどうか、と醒めた目で見る人たちもおりました。
 宮崎県でそれなりの腕を揮ったからといって、国全体を託すのに値するかどうかは疑問だ、と考えるのと一緒です。

 老中就任後六年の寛政五年、定信は失脚します。定信の倹約策は庶民には不人気な政策でしたが、解任の理由は政策の失敗ではありません。
 世が世なれば、みずからが就いていたであろう将軍の座にいたのは一橋治済の息子・家斉でした。この家斉が父・治済を、将軍経験者にしか許されない「大御所」として遇しようと望んだのに対して、定信が反対したのが直接の原因です。

 解任されたものの、定信が行なおうとした改革の精神は幕末まで引き継がれます。

 失脚後十九年、定信は白河藩主の座を退き、隠居して「樂翁」と号します。「樂」という字に、人生では肩の力を抜くことがもっとも肝要だと気づいた定信を見るような気がします。この時期に先の梨を見ていたら、違った内容になっていたのではないかと思います。

「松平樂翁公霊域」と記された深川・霊巌寺の定信廟です。鉄門には鍵がかけられていて、遠巻きに見るしかありません。警戒が厳重なのは将軍家の血筋だからでしょうか。

※定信の自画像は三重県桑名市にある鎮国守国神社所蔵のものです。奥州の藩主の遺品がなにゆえに桑名にあるかというと、定信の家系(久松松平家・家康の異父弟)の祖・定勝は元々桑名藩主であり、定信の嫡男・定永のときに桑名藩に戻ることになったからです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松戸宿余録

2009年07月27日 17時57分57秒 | 歴史

 昨日曜日、また松戸宿をそぞろ歩きました。
 前回は宿の外れにある平潟遊郭跡を見ることが主目的でありましたので、松戸宿に関する基礎知識は持たぬまま歩きました。庵に帰って見所を点検し、再度訪問した次第です。



 西蓮寺。
 松戸駅西口から徒歩六~七分。徳川家康の関東入国後、矢切村に創建されたお寺です。慶長十八年(1613年)、旧水戸街道沿いの現在地に移転。 現在の本堂は嘉永四年(1851年)の建立。



 西蓮寺からものの数分、善照寺の不動堂です。
 この寺も当初は現在とは違う場所・
向山(現在の松戸駅東口先)に創建され、慶長十六年(1611年)、西蓮寺より少し南の現在の場所に移転しました。
 不動堂はそれから四十年後の慶安四年(1651年)に建てられました。右手にちょっとだけ見える屋根の庇が本堂。その手前が松戸七福神の一つ・布袋尊です。

 このあと、宝光院を訪ねました。千葉周作の最初の剣の師・浅利又七郎の供養塔のあるお寺です。
 ところが、本堂は真新しく、境内も各所で工事中でした。入れないことはありませんが、日曜日だというのに工事の人たちが行ったりきたりしていたので、興を削がれてカメラのシャッターも押さず、墓所も巡らず。
 先に見た善照寺とは庭つづき、ならぬ墓つづきでした。



 原田家店舗。
 幕末期から米屋を営む。現在も米屋で、道路のこちら側正面に店舗があります。



 御領榜示杭。もちろん復元されたもの。
 松戸宿の江戸側入口に当たっていて、「是より御料松戸宿」と、ここから天領であることを示しています。背後から近づいたので、とうとう渡船場跡を見つけたと思ったのですが、空振りでした。

 江戸川の土手に上がって周りを見渡しましたが、渡船場跡を示すような碑は目に入りません。川岸にあるとしたら、生い茂る葦に覆われているので見えませんし、近づくことすら叶いません。
 土手の上はときおり歩くのもままならぬほどの突風が吹き荒れていました。吹き飛ばされてはかなわないので、渡船場探索はさっさと諦めて土手を降りることにしました。



 松龍寺。
 元和元年(1615年)、松戸宿の南端、小山というところに建立された浄土宗の寺です。 慶安三年(1650年)に現在の場所に移転。
 左手の赤い幟の横に観音堂があり、すくも観音が祀られています。
「すくも」とはどのような字を当てるのかわかりませんが、藍染めの原料です。川があるので、このへんでも藍染めをしていたのか。あるいはまったく別のことなのか。
 観音様ですから、八月十日が四万六千日。それに合わせてとうもろこし市が立ち、坂川の献灯まつりが開かれます。
 なにゆえとうもろこしかというと、昔はとうもろこしは赤く、赤くて種の多いものは雷除けになると信じられていたからだそうです。浅草の浅草寺にほおづき市が立つのも、赤くて種が多いから……。



 徳川幕府との縁が深かったことをうかがわせる松龍寺山門の扉。
 歴代将軍が小金牧で鹿狩をするときは、ここが御小休所として休憩所になったのだそうです。さぞかし貴重な品々が遺されていたと思われますが、江戸時代に四度の火災に遭っており、寺宝はすべて焼失してしまったそうです。残念!



 この日も暑い一日でした。
 坂川で涼をとる羊……を見つけました。羊というのは冗談です。白い犬でした。
 決してヤラセではありません。自分の意志で石段を降り、川の水に浸かって、気持ちよさそうに目を細めておりました。
 犬の頭に被さっている黒い線は、こちらの川岸に立つ電柱の陰です。暑い陽射しを遮る陰のない川で、この電柱だけが唯一の日陰をつくっていました。
 もっとはっきりした写真が撮れるようにと、しばらく待機していたのですが、陽の移ろいとともに移動する陰を追って、この犬は少しずつ移動していました。
 いっそ縦になれば、頭だけでなく全身を陰の中に隠すことができるのに、と思いましたが、縦になるのには足場が悪かったのでしょう。

 今回再訪の主目的は二つ。
 浅利又七郎の供養塔と渡船場跡を見ることでした。二つとも叶いませんでしたが、この犬を見ただけで、充分にお釣りがきたような気分です。
 じつは先の松龍寺を捜して歩いていたときにこの犬を見ていました。物陰からトコトコと出てきて、行く方角を捜しあぐねているような素振りでした。迷子になって自分の家を捜しているのかと思いましたが、こんな秘密の場所を捜していたとは……。



 前回は人の出入りが多かったので、入るのをやめた松戸神社です。
 寛永三年(1626年)の創建。日本武尊が祀られています。
 日本武尊東征の折、ここを陣営地として吉備武彦(きびのたけひこ)、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)らと待ち合わせたところから「待所」→松戸、の地名が興ったとされています。

 


 松戸神社内の百度石。龍神水の前にありました。上部に算盤の珠のようなものが二〇個×五段でちょうど百個。
 お百度を踏む光景は時代劇でしか見たことがありませんが、若い女か母親と決まっているようです。
 恋しい人の無事を祈る女か、生死の境をさまよう我が子を命に替えても守ろうとする母親か……。本能の違い、といってしまえばそれまでですが、男にはそこまで壮絶な覚悟はないような……。



 坂川沿いの石畳。さりげなく敷いてありますが、松戸宿旧本陣に敷かれていた石だそうです。

↓今回のブログの参考マップです。
http://www.ka5.koalanet.ne.jp/~matusato/PAGE02/map02-00a.pdf

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梶山季之さんのこと

2009年07月21日 07時49分57秒 | つぶやき

 蒸し暑い中を二日つづけて外出したので、三連休の最終日、昨日の海の日は近場の散策にとどめました。
 その散策に出ようとした折、玄関を出ようとして、思わず蹈鞴(たたら)を踏んでしまいました。廊下に玉虫がいたのです。



 よくよく見ると相当弱っているようです。肉眼では気がつきませんでしたが、画像を拡大してみると、傷だらけで、かなり老齢のようです。若くて元気なら、樹木も草もないようなところにいるわけがありません。
 そのままにして散策に出ましたが、道を歩きながら、玉虫のことが頭から離れません。

 そうして、ふと梶山季之(1930年-75年)さんのことを思い出しました。
 かつては書店に行けば、梶山さんの著作が誰よりも広い棚を占領していたものですが、いまではもうその名前すら知らない人のほうが多いかもしれません。

 なぜ思い出したのかというと、連想ゲームのようなものですが、茨城県の守谷という町に行ったからです。
 守谷と梶山さんとは直接の関係はありません。その間を結びつける人がいるのですが、ややこしくなるので、その人のことはいまは割愛します。

 梶山さんに会ったのは、もう四十年近くも前のことで、たった一度だけでした。
 そのころ、私は駆け出しの週刊誌の記者でした。お会いしたのは、確か日比谷の東宝劇場の楽屋。いまはなくなってしまいましたが、文藝春秋社が主催する文士劇があって、梶山さんはそれに出演しておられたのです。

 楽屋を訪ねると、まだヅラ(鬘)を被って舞台衣装のままの梶山さんが独りで坐っておられました。
 事前に事務所に連絡を取り、取材意図も話してあったので、話はいきなり本題に入りました。
「僕もよく知らないんだけど、西洋人というのは髪がブロンドでも、シタもブロンドとは限らないと聞いたことがあるけど、あなたはどう思いますか」
と本題の質問に答える梶山さん。
 下ネタに関しては百戦錬磨のはずの梶山さんが知らないことを、駆け出しボンボンの私が知っているはずはありません。
 かつてトップ屋として鳴らし、「黒の試走車」や「赤いダイヤ」という産業スパイ小説、経済小説で一世を風靡したかと思えば、エロ小説も書くという人だったので、私はどちらかというと、ぶっきらぼうな人だと想像していました。
 年齢は私より十七歳も上。そんな人が楽屋の隅っこに、はにかんだ表情で坐っていて、丁寧な物言いをするので、愕いてしまいました。

 前々から噂は消えては立ち、立っては消えていたのですが、銀座あたりでマリリン・モンローの陰毛を売っている男がいる、という莫迦莫迦しい企画が立てられて、私はデータ集めに駆り出されていたのです。
 私は見たことがありませんが、懐紙のようなもので丁寧に包まれたブロンドの縮れ毛が二~三本。お金持ちで好色なおじさんたちがたむろする銀座のバーに一人の男が現われて、随分高値で取り引きされているということでした。

 売っていたのは自称元帝国ホテルのルームボーイ。
 バスタブの排水孔に引っかかったモンローの貴重な毛をせっせと集めたという噂でしたが、本当にルームボーイだったかどうかは?。

 マリリン・モンローが結婚したばかりのジョー・ディマジオと来日、東京の帝国ホテルに投宿したのは1954年の二月のこと。招いたのは讀賣巨人軍です。
 招かれたのはモンローではなく、ディマジオです。
 ディマジオは野球関係のイベントで毎日外出します。しかし、行くところのないモンローは一日じゅう部屋に籠もり、次第にノイローゼになって行ったといわれていました。部屋に籠もるしかないのだから、日に何度もシャワーを浴びたかもしれない。そのおこぼれ……。
 信憑性がなくもない話です。

「結局、僕は人から聞いた話しか知らないのです」と梶山さんはすまなさそうにはにかみ、「浪越さんには会わないんですか?」とまた丁寧な口調です。

 浪越さんというのは浪越徳治郎さんのことで、指圧の大家です。
 胃を悪くしたモンローに招かれて指圧を施し、日本人でただ一人モンローの裸身を見たことがある人だといわれていました。

 しばらくすると、梶山さんは内線電話の受話器を取ってダイヤルを回し、誰かと話し始めました。
「あなたのところは○○の信号をどっちへ行けばよかったんでしたっけ?」
 などと喋っているので、私は何かの仕事の話が始まったのだと思って、素知らぬふりを装っていました。
 やがて「あなたはモンローの裸を見ているんだから、毛も見たんじゃないの? 僕の後輩の○○君という人があなたを訪ねて行きますから……」という声が耳に入ったので、私はハッとしました。

 梶山さんが電話をかけたのは浪越さんで、電話口を通して独特の「ワッハッハー」という笑い声が聞こえていました。
 電話をしながら、梶山さんはメモ用紙に何かを書いていました。あとで手渡されてみると、手書きした浪越さんの家の地図と電話番号でした。
「では……」と辞去しようとすると、「お金はありますか?」と訊かれました。
「?」
 首を傾げましたが、梶山さんが訊ねたのは、これから浪越さんを訪ねて行くタクシー代を持っているのか、という意味でした。
 私がいくら若造だったとはいえ、初対面で、しかもこちらが押しかけて行っているのに、そこまで心配してくれた人は、前にもあとにも私は知りません。

 梶山さんの死後、梶山さんの周囲の人から、梶山さんはこのように気を遣う人、面倒見のいい人というより、良過ぎた人だと聞かされました。

「一度事務所へ遊びにおいでなさい」
 去り際、そう声をかけられました。私は所謂外交辞令だと思いましたが、そうでなかったことは、経験を積むのに従ってわかるようになりました。

 その晩は浪越さんを訪ねませんでした。というより、翌日以降も訪ねたかどうか、記憶がはっきりしないのです。
 それからずっとあと、浪越さんにはモンローとは関係のない取材で会ったことがあり、モンローと梶山さんの話をしたような記憶があります。

 モンローの陰毛というのは与太話ですから、話の真偽はどうでもいいこと。そのときにはモンローもすでに死んでいたし、棺桶まで持って行くような話ではないのですが、「腰からシタはバスタオルを巻いていたし、ワッハッハー。ベッドに俯せになっていたから、オッパイすら、ワッハッハー」と浪越さんには煙に巻かれてしまいました。
 ただ、それが別の機会に会ったときの話だったのか、まさにモンローの取材で会ったときの話だったのか。とんと記憶がないのです。

 私がお会いしたその年、梶山さんは三十一歳のときに患った結核が再発。
 入院加療を経て元気になられたかと思いましたが、三年後の五月、取材先の香港で客死されてしまいました。

 梶山さんの事務所は新宿・曙橋にありました。
 駆け出しの私はテレビ局廻りが多く、そのころは市ヶ谷河田町にあったフジテレビに繁く通っていたので、ときおり事務所の前を通りがかることがありました。確か三階建てのビルだったと思いますが、いつも煌々と灯りが点いていました。

「一度事務所へ遊びにおいでなさい」
 その都度、その言葉が耳の中にこだまして、私はビルを見上げるのですが、ついに訪ねることはありませんでした。

 梶山さんが亡くなってもう二十四年……。いまさら悔やんでも詮無きことなれど、一度事務所を訪ねればよかった、と年を追うごとに後悔の念が募ります。



 新松戸のキョウチクトウ通りではキョウチクトウの花盛りでした

※このブログを書いた時点ではユリノキだと思い込んでいたので、そのように記していましたが、後日誤りに気付いたので訂正しています。

 道路の中央分離帯に何十本と植えてあって、よってキョウチクトウ通りと呼ばれるのですが、何千何万という花が咲いているのに、私には物悲しい花としか見えませんでした。

 我が庵に戻ったとき、玉虫は姿を消していました。元気を恢復してどこかに飛び立って行ったのならよいのですが……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸道中松戸宿

2009年07月20日 12時09分26秒 | 歴史

 連休二日目の昨日曜日。水戸道中お江戸日本橋から三宿目-松戸宿跡を彷徨しました。
 宿の中心から少し離れたところに平潟という地区があります。



 この地区の鎮守であり、水神を祀る平潟神社です。
 なにゆえに水神を祀るかといえば、橋のない時代、松戸は舟運の中心地であったからです。
 舟運といえば切っても切れない関係にあるのが色街です。ここも平潟遊郭という歓楽街が自然発生的に発生しました。

 平潟神社のすぐ横にある来迎寺。建立はちょうど四百年前の慶長十四年(1609年)。
 平潟遊郭の遊女を弔った寺と聞いていたので、江戸吉原でいえば、浄閑寺のようなものかと考えていましたが、浄閑寺が屍体を厄介払いした寺だったのに対して、こちらは郭が遊女を弔って建てた墓が少なくない寺だと知りました。
 北小金にある東漸寺の末寺ですが、いまは無住の寺のようです。墓所を見たかったのですが、柵があって入ること能わず。

 この通りが平潟遊郭の大通りであったようです。建物は跡形なく壊されましたが、この柳一本だけ遺されました。
 社会的背景は時代に応じて変わるとはいえ、平潟遊郭跡という記念碑すら遺さぬとはいかがなものか。

 記念碑を遺すということは決して賛美することではない。ここに遊郭が存在したのは紛れもない事実(私がこの目で見たわけではありませんが)であり、当時の文化です。人受けのいいものだけを遺し、その他は見て見ぬ振りをするというのは現今のテレビと同等で、いまに文化を滅ぼし、歴史を滅ぼすであろう。(??)何をいっているのだろう。
 江戸吉原の見返り柳は代替わりして、いまは往時を知らぬはずの柳がありますが、こちらの柳は遊郭の最盛期を見ているのでしょうか。

 江戸川の土手に出ました。次に目指すのは渡船場跡です。

 江戸時代初期、幕府が設けた利根川水系河川十五か所の渡しのうちの一つ・松戸の渡しで、対岸の金町松戸関所を結んでいました。少し下流には有名な矢切の渡し(当時は下矢切の渡しという呼び名)があります。
 この日、私が携帯していたのは絵地図のたぐいだったので、距離感が曖昧でした。川岸に降り、すると見晴らしが利かぬので、また土手に上がることを繰り返しながら、ずっと下って葛飾大橋まで歩きましたが、発見すること能わずでした。

※庵に帰ったあと、よくよく見ると、碑は土手の外側にあったようです。絵地図には渡船場跡の印は川のすぐ近くに描かれていたからなのですが、川岸のほうばかり注目していたのでは見つけられるはずがありません。

 源内橋跡。
 青木(屋号は利倉屋)という江戸川舟運の船問屋でもあった、名主が自家用の船着き場としてつくったもののようですが、いまのところは詳しい史料が見つからず、詳細は不明です。
 以前はこの標識の右手にある橋を渡って船着き場跡まで行けたようですが、現在は補修中で渡れませんでした。土手から渡船場跡を捜しながら歩いているときに見つけたものです。

 葛飾大橋まで歩いて渡船場跡探索は諦めました。



 坂川に沿って中心街方向に戻ると、通称レンガ橋がありました。正式な名称は小山樋門橋。松戸市内では結構有名な橋のようです。下を流れるのは坂川。
 江戸川からの逆流を防止するため、明治三十七年に建設された樋門で、千葉県内に現存するレンガ造りのものでは最古といわれます。
 新松戸あたりでは滔々と流れている坂川も放水路で分水され、痩せ細った川に変じてしまっています。

 レンガ橋から松戸随一の歴史スポット(多分)戸定が丘歴史公園(重要文化財の徳川慶喜の弟・昭武の別邸があります)は間近ですが、なぜか会津贔屓の私には興味を呼び起こさない代物なので行きません。
 昭武は会津とは直接の関係はありませんが、坊主(兄貴)憎けりゃ……でしょうか。

 松戸神社。
 日本武尊が東征の際に従者と待ち合せた地に建てられた祠がその発祥といわれています。祭礼が近いようで、境内ではテント張りに忙しそうな氏子たちが多かったので、入口を覗いただけで退散です。

 松戸宿中心街に遺る福岡家店舗。
 江戸時代からの薪炭商です。現存する建物は明治末期の建築。背後の森は屋敷森です。

「春雨橋」という名に惹かれて寄ってみましたが、なんということはない橋でした。ここも下を流れるのは坂川です。橋の左は前の画像の福岡家店舗。
 橋から上流は福岡家の森の木々が川を覆い隠すように垂れ下がっていて、なかなかに風情があります。 

 さらにゆっくりと巡れば、宝光院(剣聖・千葉周作の最初の剣の師である浅利又七郎の供養碑があります)、旧本陣、脇本陣跡など見どころ、写真の撮りどころはほかにもあったのですが、なにせ連日の猛暑です。歳をとって足の運びは遅くなっても、セカセカと歩く癖は若いころから変わらないので、バテてしまいます。

 江戸川堤防では結構涼しい風があって、しばし立ち止まって一呼吸つけば汗も引いたかもしれないのに、セカセカブンブンと歩き回るものですから、全身汗みずくです。
 松戸駅に戻り、ドトールで冷たいアイスティを飲んで帰るとしましょう。

このブログの参考マップです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤代から我孫子へ

2009年07月19日 07時13分47秒 | 歴史

 十七日の土曜日、我孫子の天王台という駅近くに所要ができたので、所要を済ませたあと、そこから二駅先の藤代というところまで足を延ばしました。
 相馬神社という社があって、立派な彫刻の奥院があると知ったからです。


 
 藤代駅から十分ほど歩くと、道はT字路になり、突き当たりに小さな鳥居が見えてきました。鳥居のすぐ後ろに社殿があり、近づくまでもなく小さな社だというのがわかります。
 
地図上ではT字路の突き当たりに相馬神社の鳥居のマーク。まさか、この小さな社ではないだろうな、と思いながらさらに近づくと、鳥居に掲げられた神額には「相馬神社」とあるのが読めました。

 途中の道路際に、間もなく執行される例祭では交通規制が行なわれるという注意書きが出ていたので、さぞ大きな神社で、盛大な祭があるのだろうと想像をふく
らませてしまっていたのです。
 社殿には人が上がり込んで、何事か議論をしているようでした。想像するに、祭礼の打ち合わせをしていたのでしょう。 

 社殿の背後に廻りましたが、奥院というのはありそうもない。物置みたいな建物がヤドカリの貝みたいに拝殿にくっついているだけです。
 間違えたかと思って、もう一度正面に戻ってみました。神額をとくと見上げてみれば、間違いなく相馬神社です。奥院の沿革を記した標示も鳥居の横にありました。
 もう一度背後に廻って、物置みたいな建物に近づきました。なんと……笑ってはバチが当たると思いましたが、それが奥院だったのです。
 雨除けの屋根と高い木の柵で囲ってあるので、近づかないと中が見えません。近づいても暗いので、よく見えません。



 柵の間から手だけ突っ込んで写真を撮りました。カメラのモニタを見る限り、大きめの神輿が置いてあるのかと思ってしまいます。神輿でない証拠は石造りの台座の上に鎮座して、担げそうもないことです。

 この神社の建立はいまから七百年前の元享元年(1321年)。
 現在、鎮座ましますのは火災に遭ったあと、慶応三年(1876年)に再建されたものだということです。



 相馬神社に隣接している高蔵寺です。



 高蔵寺の薬師如来(坐像)です。
 寄木造りの坐像で、室町時代以降の彫刻。かなり大きな仏像です。天正末期、由良国繁という人が岡見家滅亡の将兵供養のため、配下の諸将に命じて七観音八薬師を祀る深堂を建てたとされています。この藤代薬師堂はその一つで、落成は天正二十年(1592年)。
 背中を丸めて覗き込むと、ガラス戸越しに拝むことはできましたが、カメラに収めることはできませんでした。よって、画像は取手市のホームページから寸借しました。



 行きには気がつきませんでしたが、帰りに駅に近づいたとき、伽藍の屋根が見えたので、寄ってみました。
 浄土宗信樂寺(しんぎょうじ)。まだ真新しい朱色が特徴的で、奈良か京都にあるお寺を思い起こさせるような境内です


 藤代駅からもう一度天王台に戻りました。

 天王台へ行くことになったとき、藤代行も決めたので、地図を用意しましたが、天王台付近の地図や案内図は持ってきていませんでした。近くに城趾でもあれば、と思ってあらかじめ調べましたが、それらしきものがなかったからでもあります。
 城趾関連のホームページやブログも検索しましたが、私の興味を惹くような城趾もありません。あるブログには「我孫子市は城趾の保存に関して熱心ではない」ということも記述してあり、市のホームページを見ても、城趾を含む史跡というものに関してはお世辞にも至れり尽くせり、とはいえない状況でした。

 近くに手賀沼があります。せっかくだから、そこだけ見てみようと思い、天王台に戻ったのです。天王台の駅からは徒歩でおよそ二十五分の距離です。



 沼と池の違いは何か。河童がいるかどうかだ、というNTTドコモのテレビCMがありました。そのCMでは答えは示されなかったと思いますが、推測するに、河童がいるほうが沼でしょう。
 とすると、手賀沼は沼ではない。河童が住むのにはあまりにも広過ぎます。かといって、池でないことは確かです。

 梅雨明け宣言が出されたばかりだというのに、雨こそ降らないものの、朝から曇り空で、かなり蒸し暑い。

 手賀沼を見渡していたら、あろうことか雨が降ってきました。
 右も左も田んぼと畑で、
身を隠せるようなところはどこにもありません。きた道を引き返すとしても、雨宿りのできる喫茶店や食堂のたぐいは、かなり戻らなければならない。
 エエイッと肚をくくって、手賀沼添いに歩くことにしました。
 水生植物園があり、長い藤棚がありました。強い雨でなければその下でしばし雨宿り、と考えていたら、幸いにして雨はやがて上がりました。



 そのまま手賀沼に沿って歩いて行くと、尖塔を持った建物が見えてきました。
 連れ込みホテルかと思いましたが、手前に広い駐車場があるのが見え、わりと頻繁に車が出入りしているところを見れば、こんなあからさまな連れ込みホテルはないと思えます。

 やがて「鳥の博物館前」という交差点の交通標識が目に入るようになりました。駐車場には手賀沼周辺で観察できる野鳥の絵看板もありました。
 そういえば、山階鳥類研究所が渋谷から引っ越してきて、我孫子は一躍野鳥観測のサンクチュアリみたいになったのでした。
 入場料金次第だが、ちょっと覗いてみるか、と思いながら歩いていたとき、実際は右手にあった博物館前を通過してしまっていたのです。尖塔が博物館だろうと早合点して、左手ばかり見ていたので気づきませんでした。

 尖塔の正体は手賀沼親水広場の「水の館」でした。てっぺんのドームはプラネタリウムらしい。博物館を行き過ぎてしまったこともあり、あまり興味も湧かなかったので、近づいただけで素通り。

 親水広場を通り抜けて交差点を渡ると、「→志賀直哉邸跡」という標識が目に入りました。
 志賀さんは日本の小説家の中で、私がもっとも敬愛する人です。
 そういえば、志賀さんは結婚したばかりのころ、我孫子に住んだ(大正四年から七年半)ことがあったのでした。
 標識に従って交差点から路地に入ると、すぐ村川別邸がありました。村川堅太郎氏の著作は一冊だけ(確か中公文庫)読んだ記憶がありますが、内容も題名も憶えておらず、まして別荘など興味もないので、高みにある建物に一瞥をくれただけで通過。

 その先で道は二股に分かれます。さあ、どちらの道かと思案して周りを見渡しましたが、どちらが志賀邸か、と示す標識はありません。
 志賀さんのことだから山手だろうと勝手に決めて、ちょっと胸を突くような坂道を上りました。

 坂を上り切ったところで、我が選択は失敗であったと悟らされました。
 門を二つも持つ、かなり豪勢な邸宅がありましたが、あとはとくにどうということのない住宅地で、志賀邸らしきものはありそうもない。
 それでももしや、と期待しながら歩みを進めましたが、交通量の激しい道に突き当たって、完全に失敗だったと自覚。

 手賀沼から噴き出していた汗は、もはやとどまることを知りません。自販機で飲み物を買うだけでは、喉の渇きは癒されても身体が癒されない。涼しいところに坐りたい。そういう気持ちが勝っているので、引き返そうという気にはならない。
 住んだ家なんか見ても仕方がないと思いながら、どこへ向かっているともしれぬ道を黙々と歩くだけです。
 家を見ても仕方がないというのは負け惜しみ。奈良・高畑の志賀邸跡はわざわざ見に行ったことがあるのですから……。

 ほうほうのていで我孫子駅に辿り着きましたが、いっぺんに力が抜けてしまいました。駅前(南口)を見ただけですが、腰を落ち著けて涼めるような場所がない。小腹も空いていましたが、狭そうなラーメン屋が一軒あるだけ。それも、店を開けているのかそうでないのか、微妙な暖簾の出し方。
 北口に廻ってみても、やはり狭そうなラーメン屋が一軒だけ。無駄な彷徨などせず、早々に電車に乗ったほうが得策でした。

 庵に帰ってもろもろ調べてみれば、我孫子にも將門伝説の残るところがありました。ただそこは成田線の湖北駅まで行かねばならず、ついでに行くにはチト遠かった。事前に知っていても行ったかどうか。
 今日の藤代~我孫子行の自己採点は20点。大きいこと、広いことが寺社の価値を決めるものではない、ということは当然ですが、トップバッターの相馬神社で拍子抜けしてしまって、あとは挽回不可能でした。

 うかつなことに庵に帰るまで、土・日・月と三連休ということを知りませんでした。知っていれば、JRのツーデーパスを買って、もっと遠くまで行ったのに、と悔やんでもあとの祭り。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56250.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手再々訪(2)

2009年07月13日 06時26分08秒 | 歴史

 前回は高井城を西側から攻めましたが、今回は北側から攻撃しました。
 
 


 高井城址公園の桔梗の群落です。
 これをカメラに収めれば、今日の所期の目的は果たしたようなものです。まだ萎れた花は見当たりません。ちょうど最盛期に訪問できたようでした。
 あとはお義理で城址を視察。



 西側から見た高井城址です。初めて訪れたときとは逆に、稲戸井駅目指して帰りの行程に入ることにします。

 


 帰り途、すぐ近くなので高源寺に寄り道をしました。
 前回も寄りましたが、樹齢千六百年といわれる通称「地蔵ケヤキ」のあるお寺です。六地蔵が祀ってある参道から見た山門と「地蔵ケヤキ」を撮影しました。大きく開いた木の祠の真ん中に鎮座ましますのは子育て地蔵様。

 高源寺から稲戸井駅までは徒歩二十分です。途中、小雨がぱらついたこともあったのに、帰るときは強い陽射しが出ました。

 東漸寺を訪ねるために西取手駅から歩き出して稲戸井駅に着くまで、間にほんの少しの電車の待ち時間と乗車時間がありますが、ほぼ二時間半ぶっつづけに歩きました。
 こんなに歩いたのは近来ないことです。いつもならもっと短い距離で疲れてしまって、つくづく「ぢぢい」になったと痛感させられるのに、この日は確かに疲れはしましたが、若いときを思い出させるような疲労感でした。

 遙か昔の高校生大学生時代、ラグビーの練習で90ヤードを何本も何本も走り(というより走らされ)、身体じゅうの水分という水分が汗で出尽くし、粘ったようになった喉が完全に乾き切って、膝が声を立てて笑うのですが、終わったあと、冷たい水をガブ飲みして、しばし風に吹かれていると、疲労感は嘘のように去ったものでした。
 そんな爽やかな疲労を感じながら歩いていましたが、直射日光を受けた猛暑の中の二十分はさすがに堪えます。今日の締めくくりに長禅寺……と考えていましたが、「やめじゃやめじゃ」と思いながら、自販機もない道をトボトボ、と。

 取手駅に戻ってきたとき、小腹も空いていたので、天麩羅を摘みに生ビールを一杯だけやりました。プワーッ……極楽極楽。
 瞬時といえど、極楽をさまよったら元気を取り戻したので、やはり長禅寺へ行くことにしました。落慶法要の日、平將門が桔梗御前を見初めたといわれているお寺です。



 取手駅方向から見た長禅寺の森です。
 森になっている突き当たりを右に折れてしばらく歩くと、山門につづく急な石段があります。その手前に、薄暗く、目立たぬ石段があって、そこからも境内に上がって行けることを他の人のブログで知りました。まだ二度目の訪問に過ぎませんが、すでに勝手知ったる他人の家、という感じです。



 長禅寺の三世堂です。二階建に見えますが、内部は三層になっています。



 山門の下は急傾斜の石段です。この画像は石段を上るときに撮ったのではなく、下るときに振り仰ぎながら撮ったものです。
 高所恐怖症の患者に、急石段の途中で振り返る心の余裕のあるはずがありません。生ビールによるかすかな酩酊状態が恐怖心を拭い去ったものとみえます。



 長禅寺下には森に押し潰されるようにして店が並んでいます。中には居酒屋らしき店もありますが、日曜日はみんな休みらしい。
 見知らぬ都市にきて、風情のある町並みの中に居酒屋があると、私は無性に愉しくなり、なぜか物悲しい気分にも襲われます。

↓高井城址→長禅寺までの参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56401.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

取手再々訪(1)

2009年07月12日 18時48分11秒 | 歴史

 また取手へ行きました。
 今日の目的はただ一つ-高井城址公園に咲く桔梗の群落を新しいカメラで撮ることです。
 前回は雨に祟られて、行くのを断念した延命寺と東漸寺も、ついでの予定に組み込みました。ともに平將門に縁のあるお寺です。

 最初に訪れたのは東漸寺です。松戸の北小金にも同名の寺がありますが、まったくの別物。松戸は浄土宗、こちらは真言宗です。
 取手で関東鉄道のディーゼルカーに乗り換え、一つ目の西取手で下車。




 西取手駅は高架上にありました。



 西取手駅前にこんな名前のスーパー(SUPERおっ母さん)がありました。まだほとんど歩いていなかったのに、これから襲いくるであろう暑さに備えて、ここでレモンウォーターを買いました。



 東漸寺まではわかりやすい順路で、十分ほどで到着しましたが、あいにく山門は修復工事中でした。

 平將門が生まれたのは、この寺の近くともいわれ、いまの千葉県佐倉市とも、茨城県常総市ともいわれています。
 鎮守府将軍だった父・平將持は將門の小さいころに亡くなりました。県(あがた)・犬養春枝の娘だった母は東漸寺から1・6キロほど離れた北相馬郡寺田(現在の取手市寺田)周辺に住んでいたといわれていますから、ここで生まれたかどうかは別として、父の死後はこのあたりで育った、ということはあり得るでしょう。

 こうして將門は出生地も不詳なら、生没年も不詳です。付近には將門にまつわる言い伝えが多く遺っていると聞きましたが、いまのところは資料を得られず、付近とはどのあたりまでを指すのか、そしてどんな言い伝えが遺されているのか、皆目わかりません。



 行きと同じ道を西取手駅に戻りました。
 関東鉄道はエライ!! 西取手駅下りホームの喫煙コーナーです。首都圏のプラットホームで煙草が吸えなくなって、まださほど月日も経っていませんが、古き佳き時代の遺物のように感じられます。

 次に目指したのは延命寺です。將門が信仰していた地蔵尊のお告げによって創建された、と伝えられているそうですが、どんなお告げだったのか、これもいまのところは資料がなく不明です。
 延命寺は西取手から二駅先の新取手で降りて、結構な距離を歩かなければなりません。地図を見ると、迷わず辿り着けそうな道はありますが、かなりの大回りを強いられます。よくわからないショートカットの径を選ぶか、安全な大回りを選ぶか、駅頭に佇んで、しばし沈思黙考。

 出かける前に見てきた天気予報は終日曇でしたが、どうも空模様が怪しい。沈思黙考ののち、黙考したまま歩き出しました。方角としては北の方角です。自然にショートカットの径へ……。

 駅を出てから随分歩きました。まだ住宅地がつづき、このへんの人はどうやって通勤しているのだろうか、と思い始めたころに突然住宅が途切れて、先には砂利道の農道しかなくなりました。
 遠くに農作業をしている人の姿が見えます。森で鶯(ウグイス)が啼いているのも聞こえます。
 進むのにつれて、人の姿はなくなりました。いつの間にか道は大きく曲がっていました。曇って太陽の位置もわからない。それどころか、時折ポツポツと雨粒も落ちてくるようになりました。

 地図では高井小学校を目印にすると、その先に主要地方道があり、その道を進むと延命寺に到るようでしたが、田圃と畑だけで見晴らしはいいはずなのに、小学校らしき建物はどこにも見えません。
 やがて用水路のような細い川を渡りました。格好の目印だと思って地図を見ましたが、川らしきものの記載がない。オー・マイ・ガッ!

 農道はクネクネと曲がり、もはやどこに向かって歩いているのか、わけがわからなくなりました。
 そのとき、遠くでスポーツをしているような子どもたちの声が聞こえました。道は時折反対方向に曲がっていたりするため、声が遠くなったりしますが、全体的には近づいて行きます。
 遠くに何かの造成工事をしているらしい、だだっ広い地面が見えてきました。野球のユニフォーム姿をした子どもたちが見えます。

 
そこが高井小学校でした。
 改築工事をしていたようで、建物はなかったのでした。



 新取手の駅をあとにしてから、一時間ぶっつづけに歩いて、ようやく延命寺に辿り着きました。
 境内には將門が討たれたときに乗っていた馬を埋めた、と言い伝えのある「駒形様」という塚があるのだそうですが、見つけられませんでした。代わりに「將門大明神」と彫られた石塚を見つけました。



 延命寺は高台の端にあります。裏門の階段を降りるとき、堤防らしきものが見えたので行ってみたら、思ったとおり堤防で、上ると小貝川の岡堰(右遠景)と小貝川に突き出した水神岬(左の木立)を望むことができました。

 旧岡堰は寛永七年(1630年)、利根川河口を銚子沖に付け替える東遷事業の一環として設けられた堰です。



 水神岬から高井城址公園までは500メートルほどです。
 高井城址に到る手前の風景-小貝川の堤防まで見渡す限り一面の稲田でした。

 玩具を与えられた子どものように、私はそこらじゅうで新しいカメラのシャッターを押しました。この日だけで50カットも撮影しておりました。
 たいした写真はありませんが、文章を推敲するように、極力そぎ落としても、添付したい画像は減りません。全部添付すると、猛烈に長いブログになってしまうので、念願だった桔梗の群落以降は明日に回します。

↓参考マップ。
http://chizuz.com/map/map56252.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アザイ・パンタックス

2009年07月11日 20時48分01秒 | 風物詩

 昨十日、ついに新しいカメラを手に入れました。
 実際に手に取ってみるまで、心の中では十中八九パナソニックのルミックスを買おうと決めていたのですが、いざ現物を目の前にすると迷ってしまいました。

 勤め帰りに下車駅を通り越して越谷レイクタウンまで行きました。
 前に行ったのは土曜日の午後だったので、人混みにうんざりしただけで早々に帰りましたが、昨日は金曜日の午後八時だというのに、唖然としてしまうほどに森閑としていました。通路を歩いている人もチラホラ。
 前は何十メートルもの行列ができていたクリスピー・クリーム・ドーナツには行列なし。それどころか、店内に坐っている人もほとんどいませんでした。施設としては完全な赤字でしょうが、私にとってはこの上もなく気持ちのいい空間でした。

 目指したのはチェーンの家電量販店です。
 買おうと思っていたパナソニックは七月三日に発売されたばかりの新製品だったので、一番目立つところに置いてありました。
 手にとってみましたが、すぐ横、浜崎あゆみの笑顔の前に上級機種が置かれていました。考えていた予算の二倍の価格なので、買うつもりはないし、買えませんが、見た目はやはりいい。私は買うはずのカメラを手に持ったまま、目は上級機種に惹かれていました。

 カシオ、フジのコーナーを挟んでペンタックスがありました。こちらの陳列はオプティオP70という一機種だけ。
 ペンタックスとパナソニックの間を蟹のように横這いしながら往復すること三度。迷いに迷った末、ペンタックスを我が物とすることに決しました。

 大学に入って初めてフランス語を学び始めたころ、「望遠だよ、ワイドだよ」という旭ペンタックスのテレビCMがありました。当時は、というか、つい七年前まで、ペンタックスはブランド名の一つで、会社は旭光学工業といったのです。
 そのCMの最後で、なぜかフランス人女性が「アザイ・パンタックス」と一言叫び、我らフランス語を学ぶ学生たちは「フランス語だ、フランス語だ」といって悦んでいました。他愛ない話です。
 そういえば、デジカメの前に私が使っていたAPSカメラもパンタックスでした。電池を抜かれて使われないままですが、そのパンタックス・エフィーナはいまでも我が押入の中で健在です。

 その店のポイントが一万円以上あったことと定額給付金(まだゲットしていませんが)を合わせると、長期保証も付けてもらったのに、自腹を切ったのは百円単位で済みました。電車賃を加えても千円以内。



 今朝、新しいパンタックス片手に小散策に出ました。
 勤めがある日、出勤前に散策に出ることは、まずありません。庵の近くに立葵の群生しているところがあって、撮影に及ぼうと行ったのですが、前のカメラが壊れてから一か月の間に、すでに立葵の花期は終わって、ヒョロリと背の高い向日葵が二本立っているのみでした。朝日の出る(出ていませんでしたが)ほうを向いているので、二本ともそっぽを向いています。
 ヤレヤレと思いながら視線を落とすと、なんと! 桔梗がありました。萎れ掛けた花が目立ちますが、こんなところに咲いているとは……と、うれしくなって撮影。
 出勤後の長い一日を控えているのに、一日の目的を全部果たしたようなウキウキとした気分になって庵に帰りました。



 流鉄踏切際の朝顔です。出勤時に撮り直しました。



 久しぶりに紫陽花径(あじさいみち)を歩きました。
 一か月歩かなかった間に、紫陽花の花期はほとんど終わっていました。途中でいつもの通勤路に戻り、民家の生け垣前の桔梗を撮影。生け垣の下にあるので、地植えだと思っていたら、鉢植えが置いてあったのでした。



 梨の実。直径6センチほどに育っています。半分ほどはすでに袋が掛けられていました。



 雪割荘。
 勤め先近くでこんな名前のアパートを見つけました。できちゃった婚で所帯を持った、若かりしころを思い出します。しかし、まさに光陰矢の如し、です。 

 明日、雨でなければ、真っ先に撮り直しに行きたいのは高井城址の桔梗の群落です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平將門のこと

2009年07月10日 21時38分07秒 | 歴史

 昨日からの強い風が今朝も吹いていました。勤め先の近くまできたとき、ドクダミの匂いを嗅ぎました。強風で葉がちぎられているのかと思いきや、「こざと公園」で草刈りをやっていたのです。
 いつの間にか行行子(ヨシキリ)の声を聴かなくなりました。

 

 ブログの順序が前後してしまったのですが、取手の桔梗塚を手始めに平將門伝承の地を訪ねようと思い立ったきっかけは勤務先の近くにあるこの丘でした。
 現在の勤務先に籍を置くようになって、来月で丸五年になります。通勤時にこの丘の下を通るようになったのは一年半前からですが、煙草を吸うために社外に出ると、この丘が必ず目に飛び込んできます。

 いつのころからか、この付近に城を築くとしたら、絶好の起伏ではないのかと考えるようになっていましたが、ここが本当の城跡だったとは思ってもみませんでした。
 城跡といっても、本郭はもう少し奥のほう……。いまは市川市立五中のグラウンドに姿を変えたところにありました。私が眺めている丘は城内には違いがないが、一番外側の一部で、付帯施設のようなものがあったのだろうと思われる場所です。

 城の名は大野城。
 平將門の築城による、という俗説があります。
 本城のすぐ北には將門が京の北野神社を勧請したと伝えられる天満天神宮がいまなおある、とはいうものの、俗説は俗説。実際は將門の時代より二百年近くあと、鎌倉時代に築かれたものだそうです。

 築城主はわかっていません。はっきり
しているのは日蓮聖人と同時代の大田左衛門尉という人が、ある史料に「大野城主」と記されているのが初出のようです。そのあとは曽谷氏→原氏→高城氏と支配者が替わって行きます。
 曽谷氏は同じ市河(市川)の曽谷城、高城氏は松戸の大谷口城を本拠としていたので、大野城に居館を移すということは考えられません。有力な家臣を封じたのでしょうか。

 

 坂の上り口に残る「南無妙法蓮華経」の道標。
 かつてはこの坂道を上り切ったところ、城の南端に本将寺という日蓮宗の寺がありました。大田氏、曽谷氏ともに日蓮宗の大檀越でした。開山は正応年間といいますから、1288年-92年の間。二度目の元寇(弘安の役)直後のころです。

 道標と思っておりましたが、よくよく見ると、右側には「當寺開基権大僧都日寶聖人 正應五壬辰八月朔日寂」と彫られてあります。大聖人(日蓮聖人)からじきじきに法を授けられた人、という但し書きも彫られています。
 墓石ではないか、とも思わせます。しかし、ここを墓所とするには不自然な場所にあります。時代物らしいことは時代物らしい。
 本将寺は直線距離にして400メートルほど離れた場所に移転しています。いずれ本将寺の住持を訪ねて直接訊いてみなければなりますまい。

 東京・九段の筑土神社にある將門の肖像です。
 一説によると、歿したのは三十七歳とのことですが、最晩年の肖像画であったとしても、いかにも老けています。

 子どものころ、私の周りにはたくさん絵本がありました。両親が買ってくれたものか、兄弟のお下がりなのか、明確な記憶はありませんし、内容もほとんど記憶から消し去られています。
 ただ、ヒーローやヒロインの名前だけは憶えていて、百合若大臣や中将姫と並んで俵藤太がいました。俵藤太とは平將門を討った藤原秀郷の伝説上の別名です。
 俵藤太の絵本の内容はまったく憶えていませんが、平將門征伐ではなく、琵琶湖に住む龍神を助けて、三上山の大むかでを退治した話だったろうと思います。

 小さいころの本や映画の影響で、私は自然に源氏贔屓(八幡太郎義家や鎮西八郎為朝によって)であり、勤王贔屓(嵐寛寿郎の鞍馬天狗によって)であり、清水次郎長贔屓(東映の任侠東海道によって)であり、ジャンルが異なるところでは相撲の出羽の海部屋贔屓(千代の山によって)になりました。
 その意味では藤原秀郷も、私が贔屓すべき対象だったはずですが、なぜかそのようにはなりませんでした。
 將門を贔屓していたから、というわけではありません。多分そのころの私は將門など知らなかったのですから……。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松ヶ崎城址

2009年07月07日 20時43分26秒 | 城址探訪

 今日は七夕。そして今日から暑中。
 昼間は予想外に晴れたのに、夕方には雲が出て、天の川は見えそうもありません。これで天の川には2005年からずっとご無沙汰です。
 依然としてカメラはないままですが、カメラ付き携帯を武器に、日曜日は松ヶ崎城址の視察に行ってきました。
 新松戸から常磐線緩行で四駅目 ― 乗車時間わずか十分余、北柏で下車です。初めて降りる駅です。

 改札口を出て、常磐線快速の線路と国道6号線を一気に跨ぐ長い通路を抜けると、北柏の駅は台地の上にあるというのがわかります。左手は下り坂になっていました。
 その坂を下り切るあたりで、右手遠くに高さ10メートルほどの台地が見えました。どうやらそれが城址らしいと見当をつけましたが、携行して行ったマピオンの地図には楕円形の空き地が示されているだけで、そこが城址である、という表示はありません。

 その台地が目前に迫ってくると、道はY字型に分かれます。詳しい地図もなく、案内板もないので、勘(どちらかといえば草食系、どちらかといえばインテリ系の私は動物的な勘など乏しいのですが)を頼りに左に曲がりました。
 台地の下は住宅地がつづき、途中の二か所に路地がありましたが、いずれも行き止まりのようです。

 住宅が切れると、畑地になりました。依然入口らしきところは見当たりません。このぶんでは一周させられてしまうことになるのではないか、と思ったところに狭い石段がありました。
 丘の上に上らなければ話にならないので、先行きどうなるかわからないが、上ってみることにしました。



 石段の右手は森、左手は民家が建ち並んでいます。石段の先を見上げる位置で撮ると逆光なので、振り返って、上ってきたところを撮りました。
 石段を上り切ったところに、「この先、行き止まり」という表示がありました。見ると一番奥の民家の前で道の舗装が終わって、その先は泥道になっていましたが、道そのものは林の中につづいていて、四駆の車らしい轍(わだち)がありました。
 前方には林を切り拓いただけ、という印象の空き地が見えますが、入口には何も案内がありません。



 城址らしいといえば、ここしかないが、と思いながら歩みを進めると、いきなり、という感じで、「柏市指定文化財(史跡)松ヶ崎城跡」という説明板が現われました。
 説明板は奥まったところにも一か所。そこここに「土塁」とだけ書かれた表示が数か所にあって、整備しようとしている姿勢は窺えますが、道はとても道とは呼べぬ、人が踏みならした跡が残るのみ。
 舗装してしまうことが整備とは思わないが、せっかく文化財に指定したというのなら、もう少しやりようもあるのではないか、と思いながら抜き足差し足で進みました。
 前に拡がるのは一面の草叢です。
 こういうところは私は大の苦手。蛇が出るのではないか、と思うからです。



 台地の先端に立って、手賀沼が見えるらしき方向を望みましたが、それらしきものは見えませんでした。

 この城は築城年代も代々の城主も不明のようです。
 匝瑳(そうさ)氏が拠点としたらしいという言い伝えがあるそうですが、それは匝瑳氏がこの一帯を領有したということからの類推で、はっきりと断定できるものではないようなのです。付近の見晴らしは確かによかっただろうと想像されるので、臨時の物見台兼砦として活用されただけなのかもしれません。

 台地の端っこ(上ってきたところとは真反対の方向)に行くと、木で土留めをした階段がありました。階段はやがてジグザグの坂になり、降り切ったところでやっと松ヶ崎城址を示す表示と出会いました。



 大堀川を渡る常磐線鉄橋です。
 この川が松ヶ崎城の南側を流れて、天然の要害の役を果たしていました。ここから1キロほど下れば手賀沼です。ただし、画像は自分でも呆れるほどの画質の悪さ。

 匝瑳氏は守谷城の相馬氏、高井城の高井氏、小金大谷口城の高城氏らとともに千葉一族です。小田原の役ではこぞって北条方につき、秀吉に敗れてすべて没落しました。

 後世の人間は勝手なことを考えます。
 関ヶ原の合戦のとき、真田昌幸は長男・信幸(信之)を徳川方につけ、自身は次男・信繁(幸村)を連れて豊臣方につくことによって、いずれが勝っても家が存続するという方法を選びましたが、そういう知恵を出す者はいなかったのでしょうか。
 小田原城がいくら堅固だとはいえ、そもそも秀吉と雌雄を決する、というときから戦況は思わしくなく、籠城を決めた時点で北条の負けは決まったようなものです。なにせ相手は城攻めにかけては天下一品の秀吉だったのですから……。

 武装解除に応じれば命までとらぬ、という調略の天才によるたぶらかしがあったのでしょうか。
 没落とはいっても、武門の家が断絶しただけの話で、多くの一族は名を変え、農民に姿を変えて、家そのものは生きながらえます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

守谷城址

2009年07月05日 13時33分46秒 | 城址探訪

 昨日は第一土曜だったので仕事は休みでした。
 朝から曇り空でしたが、ときおり陽射しが出ます。雨にはなりそうもないと踏んで、今週も利根川を越え、守谷城址を訪ねました。

 目指す守谷駅は取手から関東鉄道で行くと、桔梗塚や高井城址の最寄り駅・稲戸井の四つ先ですが、つくばエクスプレス(TX)が開通したので、南流山からTXを利用したほうが早いし、乗り換えの回数も少なくて済む、料金も安い……と、いいことずくめです。
 庵を出てから三十分ほどで着いてしまいました。

 ところが、どっこい、でありました。昼時に着くように出たので、守谷駅で昼食……という腹づもりだったのですが、駅前には何もありません。
 改札を出たところに、何形式と呼ぶのでしょうか、吉野家や築地銀だこなどが店を並べていて、料理や食器の上げ下げはセルフサービス、テーブルは各店共通、という店があるだけです。他にはマツモトキヨシがあるのみ。
 近場の小旅行とはいえ、旅行なのに立ち食いそばを食う、というようなことではあまりにも芸当がない。まあ、あとで食べればいいわいと軽く考えて、地図を頼りに歩き始めました。
 駅から徒歩約二十分で城址の入口に到着しました。



 かつての水濠跡です。
 周辺はもともとは沼沢地で、いまも残っている守谷沼を通じて、小貝川と繋がり、さらに利根川と繋がっていたようです。その沼沢地に半島のように突き出している台地が城址です。



 結構広い本郭跡です。
 城域そのものも広かったようです。
 先週訪ねた高井城と同じように、ここも平將門が築城したとう伝聞がありますが、実際に築城されたのは鎌倉期だといわれています。
 ただ、城は築かなかったにしても、將門が根拠地の一つとしていたらしい確率はかなり高いようです。

 高井城も松戸の大谷口(小金)城も、秀吉の小田原攻めではこぞって北条方についたため、ことごとく廃城の憂き目に遭いました。
 守谷城も同じ運命を辿るところでしたが、四方を天然の水濠に囲まれているという立地条件がよかったのでしょう。天正十八年(1590年)の北条氏滅亡後は、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が一万石で封じられて守谷城主となりました。
 この菅沼氏は明智光秀公と同じ出自です。

 菅沼氏は元和三年(1617年)、摂津高槻に移封されましたが、定政の孫・頼行の代に再び守谷城に戻り、寛永五年(1628年)に出羽上山へ転封となった際、守谷城は廃城となりました。



 写真を撮った場所が低過ぎましたが、ポコポコと並んでいる樹の向こうの森が守谷城址です。

 帰りは古城川に沿って歩きました。水源はどこなのかわかりませんが、守谷城址の濠跡に注ぎ込む小川で、河畔は遊歩道になっていました。
 細い川です。しかし、そのわりに谷は深い。
 道はつくばエクスプレスの高架に突き当たるところで行き止まりになります。そこは岩を配して、渓谷ふうのつくりになっていました。



 突き当たりになる手前、ベンチで猫がのんびり昼寝をしている……と思って近づいてみたら、置き物でした。

 地図上では守谷駅まで道がないことになっていましたが、つくばエクスプレスの高架に沿って幅6~7メートルほどの遊歩道がつづいていました。
 ただし、途中には昼飯を供してくれるような店は一軒もありません。
 駅に戻り、再び吉野家などを眺めてみましたが、う~むと唸るばかりです。歩いて少し汗をかいていたので、冷やし中華を食べたいという気分でした。

 南流山まで戻ってから食うことにしよう、と意を決してつくばエクスプレスに乗りました。
 南流山から我が庵までは徒歩二十分ですから、歩いて帰ることもできます。大通りを避けて路地を歩いたので、中華屋らしき店には出会いませんでした。
 途中のスーパーで買ったチキンかつサンドが冷やし中華の代わりとなりました。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする