通勤途中で見る梨には、このところ大きな変化が見られません。
市川大野駅と勤め先の中間にある梨の即売所は、まだ店開きはしていないものの、佐川急便の幟が立てられて、開店を待つばかりです。
通勤途上に二つの梨園があります。駅に近いほうから、私は勝手に、第一、第二と名づけていますが、第二梨園の画像です。
スーパーでは十日ほど前から梨が出まわり始めているのに、この梨園の収穫はまだ先のようです。
梨の木を見ると、私は松平定信(1758年-1829年)という名を思い出します。
なにゆえに松平定信か、と自分でも妙だと感じるのですが、梨というと、定信がある日記に記した、
「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ」
という一文が思い出され、ねじ曲げられた梨の枝を、肩が凝るような思いで眺めている定信の姿が思い浮かぶのです。
定信は「枝を繁く打ち曲げて作る」と記していますが、私が見る限り、梨の枝は最初に枝が広がるところだけ無理に横に伸ばしているという印象を受けるものの、あとは伸び伸びと育っているようで、一か所だけというのは「繁く」という言葉には当たらず、いうほど窮屈そうには見えません。
定信が見た木と私が見る木では種類が違うのか。定信の時代からおよそ二百五十年経ったいまでは品種改良が進み、それほどねじ曲げずに済むようになったのか。
以下、梨の話からそれます。
定信は田沼意次のあと、老中首座に就任して糜爛した政治を立て直そうとしましたが、やがてあまりにも清廉潔白な政策が人々の不満を生んで、失脚した人です。
奥州白河藩の藩主でしたが、もともとは御三卿筆頭・田安家の七男坊でした。八代将軍・吉宗の孫です。幼少のころから聡明で知られ、時の十代将軍・家治の後継と目されたこともありました。
定信の青年期は田沼意次の全盛期です。反田沼の急先鋒となりました。
ここに、暗躍する人物が登場します。定信より七歳年上の従兄弟・一橋治済(はるさだ・1751年-1827年)です。
反田沼の黒幕として暗躍したものの、田沼の勢力があまりにも強く、我が身の危険を感じると、掌を返すように田沼に接近するという人物です。
このへんの変わり身のよさは、いたく私の興味を惹きますが、また話頭を転ずることになってしまうので、治済の人品にふれるのは別の機会に譲ることにします。
定信が老中首座に就任したのは天明七年(1787年)、二十九の歳です。
先に老中を拝命していた先輩には鳥居丹波守忠意(七十一歳)、牧野越中守貞長(五十五歳)、水野出羽守忠友(五十七歳)、阿部伊勢守正倫(四十三歳)と四人おりました。二十九歳の定信から見ると、遙かに年上ばかりです。
だからといって、臆していたのでは仕事にならない。ただ、臆さないことと相手を見下すような態度をとることとは別です。
何か政策を提案したり、行なおうとする場合には、いかに老中首座とはいえ、「何々されてはいかがでござろう」というのが普通です。年功序列の時代ではないといっても、定信はまだ新米の上に、若造です。
ところが定信という人は「何々されよ」と命令口調でいってしまう人でした。いわれた側は、カチンときます。
定信のほうでは決して見下しているわけではないのです。そういう言葉遣いしか知らないのです。だから、自分の言い方は少しも変だとは思わないし、そのことでカチンときている人がいることには全然気づかない。
諸大名は将軍の家臣ですが、御三家御三卿は家臣ではありません。お城(江戸城)へ上がるときの決まりも、将軍に対面するときの決まりも、家臣である諸大名に較べれば特段に優遇されていて緩やかです。
それは御三家や御三卿だからであって、その人個人に許されているのではないのです。定信は自分が生まれた田安という家に許された特権だったのだから、その家を出てしまえば将軍にとってはただの家臣の一人になった、ということに気づいていなかったようです。
厳粛な評定の席で「何々されよ」ときたのでは、雰囲気は冷たいものになります。緊張してそうなるのではない。白けているのです。
世間知らずの坊ちゃん一人が白けに気づいていない。いまでいう「KY」です。
坊ちゃん育ちで、根は天真爛漫かというと、隠密を使うのに、その隠密が信用できず、さらに隠密をつけるという疑り深い性質でもあったらしい。
若くして老中首座に推挙されたのは、将軍家の血を引いていたからではありません。白河藩主時代、財政を建て直した手腕を、とくに御三家が揃って評価した結果です。御三家、取り分け尾張は田沼に恨み骨髄のものがあったので、余計強く推挙したようです。
定信が白河藩主となったのは天明の大飢饉の最中、天明三年(1783年)のことです。飢饉に苦しむ領民を救うため、定信はみずから率先して倹約に努め、素早く食料救済措置を行ないました。結果、白河藩では餓死者が出なかったといわれています。
天明の大飢饉では東北地方における被害が取り分け大きかったのですから、これは特筆すべきことかもしれません。
しかし、このときの食料救済措置は市場の米を買いあさるという方法だったため、米価の急騰を招き、他藩では餓死者が増える、という結果を招いてしまったのです。
白河藩がとった措置の火の粉を被らなかった御三家は、天晴れ天晴れと手を打ちましたが、たかだか一藩における功績が全国に通用するものかどうか、と醒めた目で見る人たちもおりました。
宮崎県でそれなりの腕を揮ったからといって、国全体を託すのに値するかどうかは疑問だ、と考えるのと一緒です。
老中就任後六年の寛政五年、定信は失脚します。定信の倹約策は庶民には不人気な政策でしたが、解任の理由は政策の失敗ではありません。
世が世なれば、みずからが就いていたであろう将軍の座にいたのは一橋治済の息子・家斉でした。この家斉が父・治済を、将軍経験者にしか許されない「大御所」として遇しようと望んだのに対して、定信が反対したのが直接の原因です。
解任されたものの、定信が行なおうとした改革の精神は幕末まで引き継がれます。
失脚後十九年、定信は白河藩主の座を退き、隠居して「樂翁」と号します。「樂」という字に、人生では肩の力を抜くことがもっとも肝要だと気づいた定信を見るような気がします。この時期に先の梨を見ていたら、違った内容になっていたのではないかと思います。
「松平樂翁公霊域」と記された深川・霊巌寺の定信廟です。鉄門には鍵がかけられていて、遠巻きに見るしかありません。警戒が厳重なのは将軍家の血筋だからでしょうか。
※定信の自画像は三重県桑名市にある鎮国守国神社所蔵のものです。奥州の藩主の遺品がなにゆえに桑名にあるかというと、定信の家系(久松松平家・家康の異父弟)の祖・定勝は元々桑名藩主であり、定信の嫡男・定永のときに桑名藩に戻ることになったからです。