簪抜きという犯罪に手を染めた以上、八丁堀を敵に回すのは当然のことですが、切支丹お蝶には八丁堀を揶揄するつもりは毛頭なかった。ただ家紋つきの銀簪がほしいから犯罪を重ねたのです。
お蝶許すまじ ― この時点ではまだ犯人は何者とも身許は知れていないのですが ― と八丁堀を躍起にさせたのは、お蝶ではなく、江戸の庶民でした。
庶民にとっては神出鬼没の犯人の小気味よさを囃し立てて、奉行所のみならず、奉行までも落書落首のたぐいでからかってしまったのですから、八丁堀は黙っているわけにはいかない。
高価な銀簪は庶民には無縁のものです。狙われるのは大店や高級武家の娘たち、もしくはパトロンがついている芸者や小唄長唄の師匠などに限られています。
庶民から見れば、つまりは金持ち小金持ちだけです。賊が狙うのはそういう金持ちで、自分たちが狙われることはまかり間違ってもない。
ということは、鼠小僧……とまではいかないとしても……義賊……である。そういう風潮が落書や落首となって現われたのでしょう。
簪抜き事件が多発したのは、文久二年(1862年)から慶応二年(1866年)にかけての五年間です。
この五年の間に、南町奉行は八人、北町奉行は七人も交替しています。
江戸の町奉行所(御役所)が南北二つに分けられた慶長九年(1604年)から、廃止される慶応四年(1868年)五月十九日までの二百六十四年間で、奉行を勤めたのは延べ九十人です(一時期だけ設置された中町奉行は除く)。
平均すると、一人の在任期間は二年十か月ということになります。ところが、この五年間に限ると、平均在任期間はわずか四か月。いくらなんでも慌ただし過ぎます。
中でも慌ただしいのは、文久三年(1863年)四月十六日に北町奉行に就任した佐々木信濃守顕発(あきのり)の場合です。わずか一週間で退任して、今度は南町奉行に就任するという不可思議。その南町奉行の座も十一か月足らずで退任。
元治元年(1864年)十一月二十二日、佐々木のあとを受けて南町奉行に就任した有馬出雲守則篤(のりあつ)も、ちょうど一か月で解任されています。
有馬の場合は南町奉行から大目付に横滑りしているのですから、解任というのは不適当かもしれませんが、大目付は幕臣トップの役職とはいうものの、閑職です。奉行としての才能があったのなら、もう少しその座に置いておけばいいはず。
「江戸から東京へ」で、お蝶のことを書いた矢田挿雲は、簪抜きをお縄にすることができないので、歴代町奉行の首が次々とすげ替えられた、と読者に思わせようとしていますが、それはあまりにもうがちすぎ。本当のところは「徳川實紀」などで当たってみないとわかりませんが、それ相応の複雑な事情があったのでしょう。
なにしろ慶応二年という年は、二年後に幕府が瓦解してしまう年なのですから、奉行所どころか、幕府そのものが大忙しだったはずです。
大体において、簪抜きはそれほど重大な犯罪だったのだろうか、と思います。
数多くの被害者はいますが、怪我人は勿論死人が出たわけではありません。
幕府は金銀が絡んだ泥棒にはことのほか目を光らせていました。贋金づくりを恐れたからです。しかし、何十本あろうとも、それが簪というのでは、鋳潰したところでたいした量の銀貨にはなりません。贋の銀貨をつくるのが目的だったら、銀の茶釜とか銀食器を盗んだほうが手っ取り早い。
それなのに捕縛しようと躍起になったのは、なんとか面子を維持しようとした幕府(奉行所)の断末魔の声だったのでしょう。
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