桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

利根町を歩く(2)

2011年05月22日 19時44分56秒 | 歴史

 利根町の〈つづき〉です。

 徳満寺がかつては布川城という城であった、ということを示す標識が建っているのは、徳満寺の本堂を正面に見る入口でした。
 そこから出たところは、利根川を渡る栄橋から茨城県になるために、千葉県道から茨城県道へと名称を変える4号線の布川陸橋でした。
 利根川堤からつづく道路は非常に高いところを貫いているので、町は遙か下に見えます。

 


 利根川堤を下り、堤沿いに下流へ歩き始めたところに赤松宗旦の旧居跡を見つけました。

 赤松宗旦、本名は赤松義知。民俗学の柳田國男がもっとも愛読したであろう一書「利根川圖志」の著者です。
 文化三年(1806年)、現在の利根町布川(下総国相馬郡布川)に生まれましたが、八歳のとき、父親が亡くなったので、母方の実家(印旛村吉高)に預けられ、そこで医術と漢学を学びました。
 天保九年(1838年)、三十三歳のとき、生まれ故郷に帰って医院を開業するかたわら地誌研究に打ち込み、安政五年(1858年)に完成させたのが「利根川圖志」でした。



 あまり賑わいの感じられぬ道ですが、銀行があるところを見ると、利根町のメインストリートのようです。この銀行は郵便局を除くと、町内でただ一つの金融機関なのです。
 左に見える青果店の一軒先が赤松宗旦の旧居跡。突き当たりに見える緑が利根川堤防です。

 地図を手に入れられなかったので、適当に歩くほかありません。
 布川横町というバス停がありました。取手駅から大利根交通というバスが走っているようですが、行き先はどんなところなのか見当もつかないし、日中は二、三時間に一本ぐらいしかないので、実際にバスの走っているところは見ていません。



 適当なところで町中に折れて歩いていたら、布川不動堂に出くわしました。
 扉が閉まっていたので見ることはできませんでしたが、入口に建てられた説明板によると、御堂の中には不動明王坐像と大日如来坐像が祀られているようです。
 不動明王は南北朝時代、大日如来は鎌倉時代に製作されたと推測されています。開帳は毎年三日だけで、一月、五月、それに九月の二十八日。
 御堂そのものはいつごろ建てられたものかはっきりしませんが、文政五年(1822年)の再建という説明がありました。

 布川不動堂をあとにまた適当に歩いていたら、「しらさぎ団地中央」というバス停が目に入りました。利根川堤下で見たのと同じ大利根交通ですが、行き先が違うし、始発も取手駅ではなく、私が降りた成田線の布佐駅でした。
 しらさぎ団地がいかなるところであるのか知るよしもありませんが、なんとなく町の中心を外れてしまっているという気がして振り向いたところ、伽藍の大きな屋根が目に飛び込んできました。運のいいことに、それが目指す曹洞宗の来見寺でありました。



 来見寺の赤門と本堂遠望。赤門は宝暦五年(1755年)の再建。



 来見寺本堂。
 創建は永禄三年(1560年)。布川城主だった豊島頼継が創建したので、当初は頼継寺と呼ばれていましたが、徳川家康が立ち寄って以来、来見寺と名を変えることになったのだそうです。
 きっかけは慶長九年(1604年)のこと。鹿島参宮のおり、家康はこの寺を一夜の宿としました。なぜかといえば、来見寺三世の日山という和尚が三河国岡崎生まれで、幼いころから顔見知りであったというのです。
 で、自分がきた(来見)からには寺の名も変えてしまえ、ということだったのです。
 また布川という地名も家康がくるまでは「府川」と記したのですが、上流に絹川(鬼怒川)があるのだから、という駄洒落のような理由で変えたのだとか……。



 赤門や おめずおくせず 時鳥(ほととぎす)

 赤門前に建つ一茶の句碑。文化十二年の句。門を赤く塗ることが許されたというのも、家康ゆかりの寺だからこそです。臆す、という言葉が使われているのはそのため。

 来見寺を出たところで一人の老人と行き合いました。
 布佐の駅を降りてから利根川を渡り、町役場を経てここに到るまで、そもそも人とはほとんどすれ違うことなくきましたが、初めてすれ違ったようなその老人が「こんにちは」と声をかけてくれたので、それに釣られて柳田國男記念公苑はどこかと訊ねてみると、わざわざ角まで戻ってくれて道を指し示し、ものの七~八分のところだと教えてくれました。
 途中に布川神社があるので、寄って行くように薦められました。



 老人と別れて四分ほどで布川神社の前にさしかかりました。石段はかなり急な上に長いので、鳥居の左にある女坂を上ることにしました。



 坂を上り切ったところは小学校の校庭でした。
 平日でしたから授業があるはずなのに、いやに静まり返っていて、物音一つしません。校舎をよくよく見ると、人の姿というものがないのです。ちょっとゾクッとするようなものを感じて右手に廻ると、布川神社の社が見えました。



 布川神社拝殿。
 祭神は久々能智命(くくのちのみこと)と書かれていました。
 久々能智命は伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた御子神の一人ですが、「久々」とは茎もしくは木々を意味し、森林業の神とされています。
 この神社は寛元年間(1242年-46年)、豊島摂津守が建立したと伝えられていますが、森林とはあまり縁のないような布川になにゆえに森林業の神が祀られたのかは不明です。

 誰でもいいから人がいればいいと思うのに、来見寺前で道案内を乞うた老人と別れて以来、人影を見ていません。拝殿の左背後が無人の小学校ということもあり、境内が薄暗いということもあり、なんとなく不気味になったので、そそくさと境内を出てしまいました。
 あとで知ったのですが、小学校は別の小学校と統合されて、廃校になった跡でした。



 布川神社から四分ほどで柳田國男記念公苑に着きました。
 旧小川家跡という標識があるのは、柳田國男の兄・松岡鼎(1860年-1934年)がこの家の離れを借りて医院を開業しており、柳田國男はその兄を頼ってこの地にきたのです。



 恐らく建て替えられているのでしょうが、小川家の土蔵の遠望です。
 土蔵には柳田國男の好奇心をくすぐる本がたくさんあって、自由に読むことが許されていたのだそうです。「利根川圖志」もこの土蔵で見つけて貪り読んだのでしょう。
 とはいうものの、柳田國男がここにやってきて滞在したのは十三歳の年から二年あまり。いまでいえば中学生時代を過ごしたことになります。並の少年であれば遊びたい盛りです。

この歩いたところ。布佐駅~利根町~布佐駅。


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