桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

福満寺へ行く

2011年09月13日 16時15分40秒 | 歴史

 平將門の王城の地跡が柏市内にあると知りました。
 その近くに將門の愛妾だった車ノ前の五輪塔と鏡の井跡があるということも知りました。車ノ前は將門の死後、この地に隠れ棲み、將門が信仰していた妙見菩薩を祀る御堂を建ててその菩提を弔ったというのです。
 それが妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年二月二十一日には將門の命日と称して妙見講を開くのだそうです。

 柏駅東口からバスに乗り、大井というバス停で降りて歩くこと六分。持ってきた地図に従って酒屋さん前のT字路を左に折れ、すぐ右に折れます。
 すると、左手に見える畑地の中に車ノ前の五輪塔があることになっているのですが、それらしきものは見当たりません。もう少し先か、と歩を進めると、径は右に曲がって、遠くに香取神社の鳥居が見えました。香取神社まで行ってしまっては明らかに行き過ぎです。
 五輪塔らしきものは依然として見当たりませんが、姿は見えなくとも、畑の中で農作業をしているらしい人の声が聞こえていたので、先に福満寺へ行き、戻ってきたら訊ねてみようと歩を進めました。



 香取神社です。
 この鳥居をくぐろうとすると、左手に山門が見えたので、ちょっと愕きました。福満寺の山門でした。
 地図では「卍」のマークが打ってある場所まではかなりの距離があると考えなければいけないのに、山門が見えたので愕いたのです。



 香取神社の創建は元和五年(1619年)とされていますが、古くからの言い伝えでは、江戸初期(1610年ごろ)からこの地に鎮座していたようです。現在の社殿は昭和五十年に再建されたものです。



 神社へのお参りは早々に済ませて、隣に見えた山門らしき建物に近づいてみると、山門を兼ねた鐘楼堂でした。
 私が携帯していた地図で「卍」のマークが打ってあるのは、本堂がある場所なのでしょう。

 福満寺は奈良時代、桓武天皇の代(781年-806年)の開創といわれる古刹ですが、戦国期に兵火に遭遇したあと、江戸期には二度(延宝年間と享保年間)の火災に遭って、堂宇伽藍の多くは灰燼に帰し、その後、再興なった諸堂も、本堂や薬師堂は明治三十六年(1903年)の火災でまたもや失われてしまいました。こうして江戸期の伽藍で現存するのは観音堂(現本堂)とこの鐘楼堂のみとなっています。

 鐘楼堂の横に立つと、目の下の谷底に拡がっている境内が見えました。かなり広そうです。木立に隠されていることもあるのですが、境内全体を見渡すことができません。



 鐘楼堂横の急な坂を下って行きます。
 下り始めると、木立の隙間を通して伽藍が見え隠れするようになりました。どことなく比叡山を歩いているような気にさせて、なかなか佳い雰囲気です。



 観音堂。祀られているのは聖観世音菩薩で、聖徳太子作といわれています。
 住職一代に一度だけ開帳が許されるそうです。世代交代の平均値から推し量れば、三十年に一度ということになりますが、前回の開帳はいつで、次の開帳はいつなのでしょうか。



 本堂。本尊は阿弥陀如来。妙見大菩薩も安置されています。妙見様は平將門の守り本尊でもあり、重臣の一人・坂巻若狭守の守り本尊でもありました。



 本堂右に平將門大明神を祀る小祠がありました。




 上野の不忍池と弁天島を模した弁天池。

 境内を一周しましたが、車ノ前の五輪塔らしいものはありません。
「柏市文化財マップ」を持っていたことを思い出しました。生憎庵に帰らないと見ることはできません。わりと苦労して手に入れた資料ですが、これまで役立った試しはないので、ファイルに放り込まれたまま、棚の一画を埋めているのでした。

※庵に帰ったあと、「柏市文化財マップ」を開いてみると、車ノ前の五輪塔は載ってはいましたが、地図上では径もないところに印があるだけです。妙見堂跡地にある、と添え書きしてありますが、妙見堂跡地がどこなのかわからないので、独力で辿り着くことはむずかしそうです。

 結局、車ノ前の遺跡にはお目にかかることはないのかも、などと ムニャムニャと独り言を呟きながら、ネットサーフィンをしていると、Webの柏市地図情報配信サービスというのに行き当たって、これを見ると詳細な地図がついていました。

 五輪塔と鏡の井を捜してグルグルと歩いているとき、私が持っていた地図には南に折れる小径があったので、そこを歩いてみようとしたのですが、その曲がり角がなかなか見えてこなかったので、引き返してしまったのです。
 じつはその角を曲がってしまったのでは駄目で、もう少し先に行くと、やはり南に折れる道があり、そこを曲がると、突き当たりに五輪塔があったのです。
  

 前々から不満に思ってきたことですが、柏市は史跡や文化財に標識を立てて説明することが嫌いなようです。
 そのことと関係があるのかどうか、柏駅東口にはバス乗り場の案内図がない(西口にはあるので、どこかにあるのかもしれませんが、私は見たことがない)ことも不親切で、私にはすべからく文化というものに対する、この市の体質が顕われているのだろうと思えます。

 
市のホームページのつくり方にもそれは現われているようで、ほかの項目についてはわかりませんが、史跡・文化財に関する限り、調べようと思うと、かなり苛々させられます。ホームページ内で「車ノ前&五輪塔」をキーワードに検索しても、そのページに飛ぶようにリンクが張られていないのです。

 もう一つ ― 。
 郷土資料室というのがどこにあるかというと、市の中心部ではなく、沼南庁舎です。六年前に吸収合併されて消滅した旧沼南町役場です。

 旧沼南町は柏市に較べると、史跡・文化財には関心が高かったようで、神社仏閣には簡素ながらも木標が建てられています。合併してこの世から沼南町が消えてから六年も経っているのに、旧沼南町で出会う史跡前に建てられている標識がなんびとによって建てられたことになっているかというと、いまだに「沼南町教育委員会」のまま、というのが多く残されています。

 私がちょくちょく訪ねる醫王寺も旧沼南町にありますが、ここの薬師堂前には木標より詳細な記述のある説明板があります。木標よりは断然目立つし、「○○指定有形文化財」と「○○教育委員会」の「○○」の部分には、風雪に晒されているので、画一的なシールを貼ったのか、白ペンキを塗って書き加えたのか判然としませんが、一応「柏市」と書き換えてありますが……。
 役所仕事で、やっつけ仕事、ぶん投げ仕事の最たるもの。
 しかし、ま、文句を垂れるのはこのへんで……。

 これらは庵に帰ったあと、もろもろ調べ始めてわかることどもでありますが、現地でも五輪塔捜しは諦めて、王城の地の捜索に移ることにしました
 


 最初の酒屋さん前に出て歩き出すと、十分ちょっとで「平将門王城通り」という標識に出会いました。



 武家屋敷を思わせるような塀がありました。

 


 標識がある、ということはここが本丸? 王城の地は畑だった?
 ほかに何かあるのだろうか、と思いながら先に進みましたが、何もないうちに道は下り坂になり、人家も絶えて、心細い思いで歩きつづけると、目の前が開け、手賀沼畔に出たのだとわかりました。



 王城通りを抜けて手賀沼畔に出ると、こんな標識もありました。
 去年十一月、同じ柏市の岩井にある將門神社を訪ねたあと、やはり手賀沼畔を歩いたことがあります。この標識の前を通過しているはずですが、気づきませんでした。時刻はすでに夕暮れだった上、雨が降り出したので、脇見もせずに歩いた、という記憶があるので……そういうことだからでしょうか。



 手賀沼越しに我孫子市街(我孫子駅あたり)を眺めました。



 遊歩道はこんなに広々としているのに、自動車は通行禁止になっているので、本来なら非常に快適……といいたいところですが、夏 ― とりわけ残暑の季節の真っ昼間 ― はいただけません。この道には一息つけるような日陰がまったくないのです。



 九月もなかばだというのに、真夏と同じような雲が湧いているのですから、暑いのも当たり前。



 手賀沼畔に出たところから炎天下を歩くこと四十分。常磐線の北柏駅に到着。この日の難行苦行は終了しました。


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