桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

日光御成道鳩ヶ谷宿(前段)

2011年02月01日 20時00分28秒 | 歴史

 日光御成道の川口宿、大門宿につづいて鳩ヶ谷宿を歩きました。川口宿と大門宿の中間にある宿です。
 武蔵野線で東川口まで行き、埼玉高速鉄道に乗り換えて、二つ目の新井宿で降りる
つもりでいましたが、東川口の次に戸塚安行(とづかあんぎょう)という駅があるのに釣られて、一つ手前で降りることにしました。

 安行は植木の町です。庭いじりと盆栽が趣味だった私の父が「一度安行へ行ってみたい」と呟いたのを、小学校高学年のころに聞いた憶えがあるのを思い出したので、歩いてみようと思ったのです。小学生だった私には「あんぎょう」が何を意味するのかはわからず、理解できるようになったのはずっとあとのことですが……。



 午後早々という時間帯だったせいか、私が乗った車両はこのような有様でした。
 この埼玉高速鉄道が開通するまで、鉄道というものがなかった鳩ヶ谷市では、盛んに東京都心と直結と謳っているようですが、深夜の上り電車ならいざ知らず、日中がこのような有様では先が思い遣られます。というより、初乗り¥210というのはいくらなんでも高過ぎるんではないかい?



 戸塚安行駅。
 駅前にあった周辺の案内図を見ると、東福寺西福寺三仏寺……と、いくつかお寺がありましたが、デフォルメされた地図なので、正確な場所がわかりません。
 適当に歩き出しましたが、しばらく歩いてもお寺らしき建物が見えてきません。ここで手間取っていては鳩ヶ谷宿を歩いている途中で日が暮れると思ったので、引き返したところ、偶然百観音公園という小公園があり、そこで「→西福寺」という標識を目にすることができました。



 真言宗豊山派の寺院。弘仁年間(810年-24年)、弘法大師が開いたと伝えられる古刹です。



 境内に聳える矮鶏檜葉(チャボヒバ)。別名鎌倉檜葉。葉が矮鶏の足のようなので、この名があります。
 檜(ヒノキ)を園芸用に改良した樹で、普通は庭木や生け垣として用いられます。樹高は示されていませんが、これだけの高木は珍しい。



 高さ約23メートル。元禄六年(1694年)、徳川家光の娘で、尾張光友の正室・千代姫(1637年-99年)が建立。
 千代姫の墓所は芝増上寺ですが、この塔の中に位牌が納められているそうです。
 塔のあるお寺というのはいいもんです。



 西福寺から下る坂の途中、どこから出てきたのか、こんなんが散歩をしておりました。

 


 花山下という交差点で埼玉県道・越谷鳩ヶ谷線に出ました。日光御成道の鳩ヶ谷宿と日光街道の越谷宿を結んでいた赤山街道です。
 その交差点を過ぎると、安行です。

 さすがに植木の町です。道路の両側何百メートルにもわたって造園業者の畑があり、中にはこのように植物園みたいな庭園もありました。自由に入れます。

 なるほど、ここが安行でありますか、と思いながら、私は父のことより、ゴロのことを思い返していました。

 ゴロとは、私の小学校高学年から中学生時代にかけて、我が家にいた三河犬です。
 三河犬とはどのような犬種かと、改めて調べてみると、猟犬ですが、純血種はすでに絶滅しているようです。
 ゴロが純血種だったかどうかわかりません。犬関係の辞典によると、大きめの柴犬という感じで、和犬ブームがあったとき、三河犬と柴犬、あるいはチャウチャウなどを交配させた三河雑犬が生み出され、それが三河犬として売られた、とあります。
 しかし、ゴロは大きめの柴犬、という大きさではありませんでした。秋田犬と同程度の大きさで、前脚を伸ばして立ち上がると大人の背丈より高かったのです。

 ゴロがいた裏庭には円形に小径がつくってあり、ところどころに置かれた石の上に盆栽が乗せてありました。我が父が丹精込めてこしらえたものです。
 ゴロは日に何回かそこを歩き回ります。身体が大きいので、カーブを曲がるとき、尻尾が石の上の盆栽に当たって落っことしたりします。落っこちるだけならいいが、当たりどころが悪くて鉢が割れ、土も苔も散乱、ということもあります。しかし、ゴロにとってそんなことは知ったことじゃない。

 が、父にとっては一大事です。散乱した盆栽を見つけて、「こら、こいつ」とか叫びながら、庭箒を持って追っかけ回すことになるのですが、落っことした直後ならゴロにもわかるかもしれないけれども、昨日一昨日のことを責められてもわかりませんし、日頃無愛想な父が珍しく遊んでくれるとしか思えないのでしょう。バウバウと吠えながら、小径を走り回って逃げるのです。

 歩いているときより身体が大きく振れるので、尾当たり次第に盆栽を蹴散らかして行くことはいうまでもありません。父はさらに怒髪天を衝くという勢いでになって追いかけ回しますが、ゴロは捕まりません。
 いよいよ進退きわまったというときは、庭と道路を仕切っている塀(高さが1・8メートルはありました)に前脚をかけ、飛び越えて外に逃れるという最後の手がありました。
 私は内心ゴロを応援しながら、このチェイスを見つめ、ゴロが塀を飛び越えて無事逃げたのを見届けると、捜しに出たものでした。

 子どものころの想い出は、まるで宝石みたいに一生残るものなんですね。
 いまでも父が血相変えてゴロを追いかけている光景を思い浮かべると、忍び笑いが浮かんでくるのを禁じ得ません。

 この日もきっとニヤニヤしながら歩いていたことでありましょう。すれ違った人がいたら、まだこういう手合いが出てくる季節には早いのに、と思いながらも、気味悪がられたのに相違ない。

 


 花山下交差点から十分ほど歩くと、細い径を入ったところに関東代官・伊奈氏が祀った日枝神社拝殿と奥の院があり、その奥に赤山陣屋跡(画像下)がありました。
 陣屋とはいえ、北を除く三方に家臣団の屋敷を配し、二万四千坪という広さがあったようです。

 陣屋は当初小室(現在の埼玉県伊奈町)に置かれましたが、寛永六年(1629年)、この赤山に移されました。伊奈氏が関東代官となって、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄。
 世襲で十二代にわたって関東代官を勤めた伊奈氏ですが、忠尊(ただたか)のとき、後継を巡ってお家騒動が発生。寛政四年(1792年)、忠尊は改易、永蟄居の処分を受け、百六十三年の陣屋も破却となります。



 赤山街道が首都高川口線の下をくぐるところ。赤山陣屋跡からここまでおよそ800メートルありますが、このあたりが陣屋の南外堀だったという標識がありました。



 赤山街道が鳩ヶ谷市街に向かって「く」の字に曲がる直前、長い参道(目測300メートルはありました)の彼方に源長寺の甍が見えました。
 浄土宗のお寺で、創建は元和四年(1618年)。伊奈氏二代目の忠次がこの地にあった古寺を再興し、伊奈家の菩提寺としたものです。赤山陣屋の屋敷地とは寺の北側で隣接していました。



 五代忠常が伊奈家墓所に建てた頒徳碑。忠次、忠政、忠治の業績が刻まれています。



 赤山街道が日光御成道(県道さいたま鳩ヶ谷線)と合流するところに、地蔵院という真言宗智山派のお寺がありました。
 地蔵院縁起によれば、聖武天皇の時代より千百年の歴史を誇る古刹です。本尊は行基作と伝えられる地蔵菩薩。



 地蔵院本堂。



 境内に祀られている良縁地蔵。
 昔話では、村のお大尽の母親が息子の嫁取りでこのお地蔵さんに願をかけました。息子にはつきあっている娘がいたのですが、母親は別れさせて、お大尽家に相応しい嫁を、と願っていたそうな。
 ところが満願の日がくると、母親のまぶたには、別れさせたいと思っていた娘の素直で、優しい笑顔が次々浮かんできたそうな。

 お地蔵さんのおかげで、よい娘だと気がついたというお話。
 このお地蔵さんは良縁を結んでくださるだけではなく、悪縁なら断ち切ってくれるそうです。

 昔の赤山街道と御成道の分岐点から御成道に入って、いよいよ
鳩ヶ谷宿です。〈つづく〉

戸塚安行駅から地蔵院までの行程です。


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