桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

石蕗(ツワブキ)と萬葉植物園

2010年11月28日 07時42分18秒 | のんびり散策

 ふと、あの石蕗(ツワブキ)を見に行こうという気になりました。かつての勤め先があった市川大野駅近くに咲いている花です。

 ツワブキは知っていても、花を咲かせるとは知らなかった私が、初めてそのことを教えられたのがその花でした。
 ただ、その勤め先には重苦しい思い出しかないので、「市川大野」と聞くだけで口の中が苦くなるような思いがしていました。それが増幅されたものか、市川大野というところのすべてが忌むべきところに思えました。
 ツワブキの花も見てみたい、ときおりミオを食べてもらった野良のオフグたちが元気にしているかどうかも気に懸かる……。
 しかし、二度と行くことはないだろうと思っていました。

 ところが、なぜか急にそんなわだかまりが溶けてなくなったのです。
 別に勤務先に顔を出すわけでなし、万が一、だれかと顔を合わせたとしても、春風駘蕩+飄々+恬淡、という感じで受け流しておけばいいじゃないか、と。
 おぢさん、なんのために歳をとってきたのですか、と。



 で、七か月ぶりに市川大野駅に降り立ちました。
 真っ先にツワブキを見に行きましたが、そのあとでオフグたちを訪問するのは当然としても、すぐ近くにありながら、行く機会のなかった萬葉植物園と平將門が勧請したという言い伝えのある天満天神宮もついでに訪ねてみようと、身も心も軽い思いで歩き出しました。



 市川大野駅から歩いて三~四分のところ。今年も見事な咲きっぷりです。ただ、私が知る限り、咲いているのはこの一画だけです。

 


 ツワブキに気を取られていて、ふと気がつくと背後に何かの気配。
 あれ、こういうことはいつかもあったな……と思いながら振り返りつつ、おお、そうであった……と思い出しておりました。
 去年、勤め帰りにこのツワブキを見てみようと寄り道したとき、背後に人がいるような気配を感じた、と思ったら、私の脚に身体をすり寄せてきた野良の猫殿がいたのです。
 夜だったので、毛並みをはっきりと見ていませんが、同じ場所で、野良でありながら人懐っこいというのは、同じ猫殿と断言していいと思います。早速ミオを……。

 さて、次はオフグ一家です。
 最後に見たのは勤めを辞めるときですから、今年四月上旬。そろそろ八か月が経とうとしています。ちょっと胸がワクワクするような気持ちと、もしかしたらもういないのではないか、という気持ちを交錯させながら、いつもいたところに着きました。
 ところが……いない。先ほどの野良殿に、一袋の半分を贈呈してしまいましたが、今日はオフグたちに会えるかも、と考えたので、40グラム入りの袋を四袋も持ってきていたのです。



 いつもオフグ一家のいたねぐら
です。
 道路にある白いものはごみ袋ですが、二か所ある塊の真ん中あたりがねぐら(いつも仔猫殿がここから顔を覗かせていたので、多分)です。
 十数メートル離れた家の門柱の上や玄関前の石段で見かけることもあったので、そちらへも行ってみましたが、やはり姿はありません。
 たまたまどこかへ出稼ぎに行っているのか、あるいは子どもたちは独立して、それぞれ縄張りを持ってしまったのかもしれません。
 バッグから取り出していたミオを味気ない思いを味わいながら、再びバッグに戻す私。



 駅前からつづくバス通りを横切って、中世、大野城があった高台に向かいました。上り切ったところに市川市萬葉植物園があります。万葉時代の人々が愛で、生活の糧ともしていた草木を中心に一五五種の植物を集めています。
 前々から覗いて見たいとは思っていたのです。ことに今年の正月、筑波山神社へ初詣に行こうかと考え、結局は行けなかったのですが、ツクバネソウという草があるのを知りました。秋になると黒い実を結び、その実は羽根突きの羽根に用いられた草です。それがこの植物園にもある、と知ったので、是非に、と思いを強くしていたのです。
 私が勤めていたころ、出勤する時間は開園時間前、帰る時間はとうに閉園、という状態だったので、五年間近くを通りながら、ついに一度も覗いてみる機会がありませんでした。

 坂を上りながら、入園料の用意をしておこうと小銭入れをまさぐりました。
 ところが、なんと財布がない!
 出かける前、いつもは鞄にバラバラに突っ込んでいる長財布と小銭入れをポーチにまとめていました。買い物をしたときに、長財布はすぐに見つかるけれども、小銭入れが鞄の奥深く沈んで見つからない、ということが往々にしてあったからです。
 結局、お札で会計を済ませるので、小銭入れを持っていながら、どんどん小銭が貯まって行く。そういう悪循環に終止符を打たんものと知恵を働かせたのですが、そっくり忘れてきたのでした。

 電車賃を払う必要があれば、くるときに気がついたはずですが、幸か不幸か、スイカを持っているので、気づきませんでした。いつかもこんなことがあったような……。


 まったく余計なことばかりして、どうしようもないオヤジだなぁと呆れながら、入口直前まできていたので、そのまま入口に到り、掲げられた利用上の注意書きを読みました。開閉園時間、休園日が書かれた最後に「入園無料」とありました。
 前に下総国分寺を見に行ったときに通りかかった郭沫若記念館も入場無料でした。市川市はお金に余裕があるようです。



 いまの時期はほとんど花がありません。多年草の草も葉を枯らせてしまっているものがほとんど。

 


 上・野路菊(ノジギク)、下・足摺野路菊(アシズリノジギク)。



 翁草(オキナグサ)。
 ……と数少ない緑と花を見ながらツクバネソウを捜しましたが、見当たりません。さほど広い敷地ではないので、もう一度巡ってみましたが、やはりありません。

 捜しあぐねた挙げ句、水遣りをしている職員を見かけたので、訊ねてみました。なんと無情にも、去年枯れた、というのです。

 その人は話し好きの上に、植物採集と植物の世話が大好物というおじさんで、ツクバネソウ目当てにきてくれたのは残念だけれども、大変うれしいといって、その他もろもろの話を聞かせてくれました。ツクバネソウは宿り草なので、草だけ採取すると、やがて枯れてしまうということ。栽培するつもりなら、種から育てるのがいいということ……。その間、立ったまま三十分。

 次は天満天神宮です。
 植物園を出ると、入口すぐ横にあった跨線橋で武蔵野線を越え、歩いて六分ほどで市川市立五中に着きました。



 校庭が大野城主郭のあったところです。が、遺構は何もありません。周辺には、かすかながらも土塁跡が遺されているようですが、見当のつかないまま眺めても、どこにあるのかわかりません。
 伝承ではこの城を築いたのは平將門だといわれていますが、昭和四十四年と五十四年の二度にわたる発掘調査の結果、將門の時代(十世紀)ほど古いものではなく、十三世紀の遺構としか判明しなかったそうです。
 目的の天満宮は城の鬼門に当たる方角にあります。従って將門が勧請したという言い伝えが遺されているのですが、城を築いたのが別人であれば、天満宮もその別人が勧請したものです。

 学校は崖っぷちに建っています。校門すぐ脇からかなり急な下り坂。

 


 谷に当たるところを天満天神宮を捜して歩いている間、道路に案内標識が出ていたり、墓所が見えたので寄ってみた充行院(画像上)と礼林(らいりん)寺。二か寺とも日蓮宗の寺院なので、参拝はしません。
 このほかにも、かつて大野城内にあった本将寺、法蓮寺、浄光寺、本光寺と、市川大野というところにある寺は日蓮宗ばかりです。



 しばらくさまよったあと、ようやく天満天神宮を見つけました。急な石段の上に小さな祠だけがありました。
 市川市教育委員会が石段下に建てた説明板によると、菅原道真を描いた掛け軸があって、そこに「平親王將門公、皇都天満宮、下総大野ニ移ス」と由来が示されている、とありますが、その掛け軸がどこにあり、時代的にはいつのものなのかは説明がありませんでした。

 


 天満天神宮から市川大野駅までの途中にある、天満天神宮の別当・本光寺です。ここにも將門ゆかりの天満宮が建てられていました。画像下は本堂。町にある医院の玄関を思い起こさせます。

 この寺を出たあとに思い出したのですが、以前、この前を通ったことがあります。そのときは本堂の建設工事中だったので、入りませんでしたが……。


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