桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

松ヶ崎城址

2009年07月07日 20時43分26秒 | 城址探訪

 今日は七夕。そして今日から暑中。
 昼間は予想外に晴れたのに、夕方には雲が出て、天の川は見えそうもありません。これで天の川には2005年からずっとご無沙汰です。
 依然としてカメラはないままですが、カメラ付き携帯を武器に、日曜日は松ヶ崎城址の視察に行ってきました。
 新松戸から常磐線緩行で四駅目 ― 乗車時間わずか十分余、北柏で下車です。初めて降りる駅です。

 改札口を出て、常磐線快速の線路と国道6号線を一気に跨ぐ長い通路を抜けると、北柏の駅は台地の上にあるというのがわかります。左手は下り坂になっていました。
 その坂を下り切るあたりで、右手遠くに高さ10メートルほどの台地が見えました。どうやらそれが城址らしいと見当をつけましたが、携行して行ったマピオンの地図には楕円形の空き地が示されているだけで、そこが城址である、という表示はありません。

 その台地が目前に迫ってくると、道はY字型に分かれます。詳しい地図もなく、案内板もないので、勘(どちらかといえば草食系、どちらかといえばインテリ系の私は動物的な勘など乏しいのですが)を頼りに左に曲がりました。
 台地の下は住宅地がつづき、途中の二か所に路地がありましたが、いずれも行き止まりのようです。

 住宅が切れると、畑地になりました。依然入口らしきところは見当たりません。このぶんでは一周させられてしまうことになるのではないか、と思ったところに狭い石段がありました。
 丘の上に上らなければ話にならないので、先行きどうなるかわからないが、上ってみることにしました。



 石段の右手は森、左手は民家が建ち並んでいます。石段の先を見上げる位置で撮ると逆光なので、振り返って、上ってきたところを撮りました。
 石段を上り切ったところに、「この先、行き止まり」という表示がありました。見ると一番奥の民家の前で道の舗装が終わって、その先は泥道になっていましたが、道そのものは林の中につづいていて、四駆の車らしい轍(わだち)がありました。
 前方には林を切り拓いただけ、という印象の空き地が見えますが、入口には何も案内がありません。



 城址らしいといえば、ここしかないが、と思いながら歩みを進めると、いきなり、という感じで、「柏市指定文化財(史跡)松ヶ崎城跡」という説明板が現われました。
 説明板は奥まったところにも一か所。そこここに「土塁」とだけ書かれた表示が数か所にあって、整備しようとしている姿勢は窺えますが、道はとても道とは呼べぬ、人が踏みならした跡が残るのみ。
 舗装してしまうことが整備とは思わないが、せっかく文化財に指定したというのなら、もう少しやりようもあるのではないか、と思いながら抜き足差し足で進みました。
 前に拡がるのは一面の草叢です。
 こういうところは私は大の苦手。蛇が出るのではないか、と思うからです。



 台地の先端に立って、手賀沼が見えるらしき方向を望みましたが、それらしきものは見えませんでした。

 この城は築城年代も代々の城主も不明のようです。
 匝瑳(そうさ)氏が拠点としたらしいという言い伝えがあるそうですが、それは匝瑳氏がこの一帯を領有したということからの類推で、はっきりと断定できるものではないようなのです。付近の見晴らしは確かによかっただろうと想像されるので、臨時の物見台兼砦として活用されただけなのかもしれません。

 台地の端っこ(上ってきたところとは真反対の方向)に行くと、木で土留めをした階段がありました。階段はやがてジグザグの坂になり、降り切ったところでやっと松ヶ崎城址を示す表示と出会いました。



 大堀川を渡る常磐線鉄橋です。
 この川が松ヶ崎城の南側を流れて、天然の要害の役を果たしていました。ここから1キロほど下れば手賀沼です。ただし、画像は自分でも呆れるほどの画質の悪さ。

 匝瑳氏は守谷城の相馬氏、高井城の高井氏、小金大谷口城の高城氏らとともに千葉一族です。小田原の役ではこぞって北条方につき、秀吉に敗れてすべて没落しました。

 後世の人間は勝手なことを考えます。
 関ヶ原の合戦のとき、真田昌幸は長男・信幸(信之)を徳川方につけ、自身は次男・信繁(幸村)を連れて豊臣方につくことによって、いずれが勝っても家が存続するという方法を選びましたが、そういう知恵を出す者はいなかったのでしょうか。
 小田原城がいくら堅固だとはいえ、そもそも秀吉と雌雄を決する、というときから戦況は思わしくなく、籠城を決めた時点で北条の負けは決まったようなものです。なにせ相手は城攻めにかけては天下一品の秀吉だったのですから……。

 武装解除に応じれば命までとらぬ、という調略の天才によるたぶらかしがあったのでしょうか。
 没落とはいっても、武門の家が断絶しただけの話で、多くの一族は名を変え、農民に姿を変えて、家そのものは生きながらえます。


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