桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

増尾城址から大井追花城址へ

2010年12月20日 22時03分00秒 | 城址探訪

 戸張城址探訪ではちょっと苦闘した地図。実地踏査したあとで改めて眺めてみると、土地勘が得られたためか、城址があるとは記されていない市販の地図(一万五千分の一)でも、場所の見当がつけられるようになりました。

 二日前の土曜日、その地図を基に増尾城址と大井追花(おっけ)城址の探索に出ました。戸張城址探訪に出た日、あとで訪ねようと思っていながら、なんとなく気力が削がれて、行くのをやめてしてしまったところです。

 増尾城址は公園になっているので、市販の地図にも載っています。広そうな道路沿いにあるようだし、曲がるべき交差点にはキグナスのガススタンドがあるようなので、まず道を間違える心配はなさそうです。
 大井追花城址は市販の地図には載っていませんが、場所の見当は大体ついています。
 問題は増尾城址を見たあと、どの方角を目指して歩けばいいのかがわからなくなることなので、ポケットにコンパスを忍ばせました。



 常磐線で柏まで行き、東武野田線に一駅だけ乗って新柏駅で降りました。



 新柏駅前にあった文化財巡りの案内図。
 片栗(カタクリ)の群落があるので、「カタクリコース」と呼ばれているようです。群落があるのは新柏からさらに二駅船橋寄りの逆井(さかさい)駅近く。
 来年、桜の蕾がふくらみ始める季節になったら訪れてみようと思います。




 新柏から徒歩二十分。予定どおりキグナスのある交差点を右に折れてしばらく歩いたところ-駅前の案内図に大公孫樹(オオイチョウ)のある法林寺というお寺が紹介されていたので立ち寄りました。
 葉はすべて落ちていましたが、公孫樹は遠くからでもよく見えて、すぐにわかりました。真言宗豊山派の寺院で創建は慶安三年(1650年)。



 柏市内では第一の巨樹といわれる大公孫樹です。
 樹高30メートル、根周りは14メートル以上。言い伝えでは樹齢六百二十年。

 康応年間(1389年ごろ)のこと、越後から托鉢にきていた比丘尼がこの寺に立ち寄って、一夜の宿を求めたのだそうです。
 翌朝出立のとき、比丘尼は公孫樹の実を取り出し、「なんのお礼もできないが、この実を播くように」といって立ち去りました。
 その実がこの公孫樹で、毎年豊かな実を実らせるのでしょう。このあたり一帯は大飢饉に見舞われたことがあり、村に食べるものがなくなったとき、村人たちが飢えを凌げたのはこの公孫樹の実のおかげだった、という話も伝えられているそうです。



 法林寺の東門に当たる苦抜きの門。
 江戸時代、このあたりは駿河田中藩(静岡県藤枝周辺)の領地であったそうですが、飛び地なので管理をするためにあった代官所の門です。領民たちはこの門を抜けられれば、苦しみから抜けられるというので、このような俗称で呼ばれるようになりました。
 明治の廃藩後、代官所が廃止されたのに伴って、代々筆頭手代を勤めた家に移されたあと、このお寺が譲り受けたということです。




 法林寺本堂。



 法林寺から七分ほどで増尾城址公園に着きました。
 公園は二つに分かれたような形につくられ、バーベキューができる広場などもあって非常に広いのですが、城そのものは東西180メートル、南北150メートル、主郭と副郭の二郭だけという構造で、それほど大きなものではありません。

 増尾城が築かれたのは、いまから七百年以上も前という言い伝えがありますが、それを裏付ける史料は何もないようです。実際には五百年前の戦国時代と推測されています。かといって、誰が築いたのかははっきりせず、小金城主・高城氏の家臣・平川若狭守が城主だった時代がある、ということがわかるぐらいですが、これとても言い伝えの域を出ません。




 増尾城副郭跡。周囲を取り囲む土塁がかなり完全に近い形で残されています。



 増尾城の縄張り(副郭にある説明板から)。 




 主郭跡。



 主郭(右側)と副郭を仕切る土塁。



 増尾城址公園に隣接して増尾湧水がありました。
 城址公園の森に降った雨が湧き出しています。千葉県の代表的な湧水の一つとされていて、かつては非常にきれいな水だったそうですが、いまでは飲むことができないほどに汚れています。見たところ水の流れはほとんどありませんでした。


 増尾城に対して、大井追花城のほうはいまでは影も形もありません。
 手賀沼に注ぐ大津川に沿ってしばらく歩いたあと、国道16号線をくぐるガードを抜けると、右手にはいきなり台地が迫っていました。地図では城址は国道のすぐ脇ということはないので、もう少し先です。
 舌のように突き出した台地(舌状台地)がポコポコとあるのが目に入ってきます。
 これではどの台地に城があったのかわからぬぞ、と心配になるところですが、今回は心配無用。一度通り過ぎることになりますが、城址のある台地の先、谷を一つ隔てた高台には妙照寺という寺院があり、市販の地図にも記載されているからです。

 ここが追花城のあったところらしい、と思った台地の先に高い石垣が見えました。どうやらその石垣が妙照寺のようだと見当をつけると、進むのにつれて卒塔婆と墓石が見えてきました。車の出入りがあるところを見れば、かつての谷を利用した道路があるようです。




 妙照寺本堂。総檜だそうです。
 日蓮宗の寺院。弘仁年間(810年-24年)の建立。当初は真言宗寺院でしたが、正応元年(1288年)、日蓮宗に改められる。




 山門を入ると右手に聳える大杉。
 柏市の説明板がありましたが、樹高は記されておらず、目通り(目の高さ)幹周約5・7メートルとあるだけでした。樹齢四百年。




 境内に入ったときから猫の鳴き声が聞こえていました。見渡しましたが、どこで鳴き声がしているのかわかりません。
 私が本堂を写真に撮り、大杉を撮っている間も鳴き声は熄みませんでした。
 目的を果たしたので、所在を突き止めてやろうと声のするほうへ歩いて行くと、植え込みの松の木陰になった暗いところにこの猫殿がおりました。
 忘れずミオを持っているので、置いてやるとカリカリと小気味のよい音を立てて食べ、食べ終わると、流山の天形星神社で見かけた黒猫殿と同じように、身体を伸ばして見せてくれました。




 高圧線の鉄塔のあるあたりが追花城のあったところだと考えられています。
 見たところ民家の私有地のようでもあり、大体において林の中に入って行けそうな径がありません。画像は台地を下り切るあたりでカメラに収めたもの。




 大井追花城址下から見た戸張城址。中央やや右寄りに突き出して見えるのが文京区立柏学園の建物です。二つの城の隔たりは大津川という川を真ん中に挟んで、700メートル足らずしかありません。

 戸張城の城主が定かではない中で、ただ一人名前の判明している戸張弾正忠という人が城主だったころ、大井追花城の城主は高城某(こちらは不詳のようです)で、常に敵対関係にありましたが、雌雄を決せんという合戦のとき、互いに取っ組み合ったまま泥田に落ちたので、短刀が抜けず、どちらかが相手の鼻を噛み切ったという言い伝えがあるそうです。
 それが尾を引いたものか、これほど近いのに、戸張地区と大井追花地区の住民は近年まで、婚姻はおろか職人の交流もなかったといわれています。

 ところで、追花と書いて「おっけ」と読む地名。なにゆえに妙な読ませ方をするのかと興を覚えたので、調べてみるつもりです。




 手賀沼に注ぐ大津川。
 増尾城址から大井追花城址に向かう途中、1キロ
ほど上流で一度この川を渡っています。そこでは私がいつも歩いている富士川よりほんの少し大きな川、と思えたのですが、1キロ下ると、なんと四~五倍はある流れに変わっていました。
 川を渡ってしばらく歩くと、前回無患子(ムクロジ)の樹を見た正光寺がありますが、この日は寄らず、戸張のバス停から柏駅までバスに乗りました。

この日歩いたところ。戸張から柏駅まではバスを利用。


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