初雪の降った十六日を除いて、毎日毎日天気は晴です。そのぶん気温は低く、クリスマスの日からほぼ毎日最低気温は氷点下。それもマイナス5度台という日があります。
血圧が低いせいか、寒い朝は人並み以上に苦手です。布団から抜け出しても、なかなかエンジンがかかりません。暖房器具がなくても動けるよう(すなわち、外に出ても平気)になるのは、十一時を過ぎてから……。
暇なことは暇なので、ちょいと遠くへ行くか、と思うのではありますが、お昼ごろにならないと出発できないというのでは、それほど遠くへは行けません。
一昨々年の十月、茨城県の土浦を訪ねたことがあります。土屋氏九万五千石の城下町ですが、霞ヶ浦を見たいと思って行ったので、亀城と呼ばれた土浦城址をちょっと見ただけ。街はろくすっぽ見ないままに帰ってきてしまいました。
で、改めて行ってきました。
常磐線の緩行と快速は乗換時間の折り合いが悪いのが常ですが、この日は柏で三分待っただけで土浦行の電車がきて、北小金からわずか四十一分で着くことができました。
土浦駅西口から亀城公園へとつづくメインストリートを歩きます。
上は佃煮の「武蔵屋」、下は天麩羅の「ほたて」。「ほたて」は明治二年の創業で、建物はそのときのままのようです。「武蔵屋」も明治初期の創業とありますが、建物はもう少し新しい?
桜橋跡。
いまは市街地の南側を流れている桜川。中世までは現在の街の中心部を流れていたのが本流で、江戸時代初期、そこに架けられたのが桜橋。
暗渠になっていますが、いまでも道路下を流れているようです。
駅から少し離れるとシャッター通りです。
土浦駅から徒歩十二分で亀城公園に着きました。
土浦城は天慶年間(938年-47年)、平將門が城を築いたのが始まりといわれます。中世になると、筑波郡小田邑(現在のつくば市小田)を本拠とした小田氏が周辺を支配するようになり、土浦には重臣の若泉氏や菅谷氏が置かれました。
江戸時代に入ると、松平氏、西尾氏、朽木氏、とそれぞれ二代ずつという短期間で藩主が入れ替わりますが、寛文九年(1669年)、土屋数直が六万五千石(のちに九万五千石)で入封したあと、ほんの一時期(五年間)を除いてずっとつづき、そのまま明治維新を迎えます。
土浦城内濠と東櫓。櫓は松平氏のあとに入った西尾氏の二代目藩主・忠照(1613年-54年)が築いたもの。
前川口門。武家屋敷と町屋を仕切っていた門です。
明治維新後は土浦町役場や、あとで訪れることになる等覚寺の山門として使われていましたが、昭和五十六年、二の丸の入口に当たる、二之門があった現在の場所に移築されました。
本丸の正門です。別名・太鼓櫓。西尾氏に替わって入った朽木稙綱(たねつな・1605年-61年)が前からあった櫓門をこの形に改築したもの。
西櫓。これも西尾忠照が築いたもの。
陽射しはたっぷりとあって風もなかったので、公園のベンチに腰を下ろして、自分でこしらえてきた握り飯の弁当を開きました。
餌を与える人がいるとみえて、私が包みを開いただけで四、五羽の鳩が集まってきました。
少しだけお裾分け、と思って飯粒を投げると、なんとなんと五十羽ぐらいがやってきて、中には私の膝の上に乗る無礼者もいる始末。
上の画像はひとしきり餌を投げたあと、私も店をたたんでから撮ったので、もう飯は出そうもないし、三々五々帰るとするか、という風情の鳩たちです。
下の画像は黒いので判別しにくいのですが、ごみ籠の上に止まっている鵯(ヒヨドリ)です。
50センチも離れていない至近距離まできて、私が飯粒を投げるのを待ち構えていました。鳩がヨチヨチと歩いて行くより断然早く、弾丸のように飛んで行って、かすめ取ってしまいます。
浄土宗浄真寺。創建は不詳。
慶長六年(1601年)、最初の土浦藩主となった松平信一(のぶかず・1539年-1624年)が再興しています。二度の火災で堂宇は失われ、現在の本堂は安政二年(1855年)の再建。
曹洞宗神龍寺。創建は天文元年(1532年)。当時の領主であった菅谷勝貞の開基。
もう営業していないようですが、「ZEN」というレストラン兼喫茶店が併設されていました(画像下)。精進料理や抹茶をいただけるような寺は数多くあっても、コーヒーが飲めるという寺はそうそうありません。なかなか洒脱なお寺です。
土浦では毎年十月、土浦全国花火競技大会が開かれます。これは秋田県大仙市、新潟県長岡市の花火とともに、日本三大花火大会といわれていますが、始まりはこの神龍寺の秋元梅峰(あきもと・ばいほう)住職が私費を投じて花火を打ち上げたのがきっかけです。
時は大正十四年、関東大震災後で疲弊した土浦の経済を活性化させるためと航空殉難の霊を慰めようと始められたのでした。
神龍寺を出ると、正面が土浦一中です。その校門として使われているのが藩校・郁文館(別名・文武館)の正門。
郁文館は土屋氏第七代藩主・土屋英直によって城内に設置されましたが、十代・寅直が天保十年(1839年)に現在の場所に移しました。正門はそのときに建てられたものです。
このあと時計の逆回りに街を巡ります。〈つづく〉
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