桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

平將門のこと

2009年07月10日 21時38分07秒 | 歴史

 昨日からの強い風が今朝も吹いていました。勤め先の近くまできたとき、ドクダミの匂いを嗅ぎました。強風で葉がちぎられているのかと思いきや、「こざと公園」で草刈りをやっていたのです。
 いつの間にか行行子(ヨシキリ)の声を聴かなくなりました。

 

 ブログの順序が前後してしまったのですが、取手の桔梗塚を手始めに平將門伝承の地を訪ねようと思い立ったきっかけは勤務先の近くにあるこの丘でした。
 現在の勤務先に籍を置くようになって、来月で丸五年になります。通勤時にこの丘の下を通るようになったのは一年半前からですが、煙草を吸うために社外に出ると、この丘が必ず目に飛び込んできます。

 いつのころからか、この付近に城を築くとしたら、絶好の起伏ではないのかと考えるようになっていましたが、ここが本当の城跡だったとは思ってもみませんでした。
 城跡といっても、本郭はもう少し奥のほう……。いまは市川市立五中のグラウンドに姿を変えたところにありました。私が眺めている丘は城内には違いがないが、一番外側の一部で、付帯施設のようなものがあったのだろうと思われる場所です。

 城の名は大野城。
 平將門の築城による、という俗説があります。
 本城のすぐ北には將門が京の北野神社を勧請したと伝えられる天満天神宮がいまなおある、とはいうものの、俗説は俗説。実際は將門の時代より二百年近くあと、鎌倉時代に築かれたものだそうです。

 築城主はわかっていません。はっきり
しているのは日蓮聖人と同時代の大田左衛門尉という人が、ある史料に「大野城主」と記されているのが初出のようです。そのあとは曽谷氏→原氏→高城氏と支配者が替わって行きます。
 曽谷氏は同じ市河(市川)の曽谷城、高城氏は松戸の大谷口城を本拠としていたので、大野城に居館を移すということは考えられません。有力な家臣を封じたのでしょうか。

 

 坂の上り口に残る「南無妙法蓮華経」の道標。
 かつてはこの坂道を上り切ったところ、城の南端に本将寺という日蓮宗の寺がありました。大田氏、曽谷氏ともに日蓮宗の大檀越でした。開山は正応年間といいますから、1288年-92年の間。二度目の元寇(弘安の役)直後のころです。

 道標と思っておりましたが、よくよく見ると、右側には「當寺開基権大僧都日寶聖人 正應五壬辰八月朔日寂」と彫られてあります。大聖人(日蓮聖人)からじきじきに法を授けられた人、という但し書きも彫られています。
 墓石ではないか、とも思わせます。しかし、ここを墓所とするには不自然な場所にあります。時代物らしいことは時代物らしい。
 本将寺は直線距離にして400メートルほど離れた場所に移転しています。いずれ本将寺の住持を訪ねて直接訊いてみなければなりますまい。

 東京・九段の筑土神社にある將門の肖像です。
 一説によると、歿したのは三十七歳とのことですが、最晩年の肖像画であったとしても、いかにも老けています。

 子どものころ、私の周りにはたくさん絵本がありました。両親が買ってくれたものか、兄弟のお下がりなのか、明確な記憶はありませんし、内容もほとんど記憶から消し去られています。
 ただ、ヒーローやヒロインの名前だけは憶えていて、百合若大臣や中将姫と並んで俵藤太がいました。俵藤太とは平將門を討った藤原秀郷の伝説上の別名です。
 俵藤太の絵本の内容はまったく憶えていませんが、平將門征伐ではなく、琵琶湖に住む龍神を助けて、三上山の大むかでを退治した話だったろうと思います。

 小さいころの本や映画の影響で、私は自然に源氏贔屓(八幡太郎義家や鎮西八郎為朝によって)であり、勤王贔屓(嵐寛寿郎の鞍馬天狗によって)であり、清水次郎長贔屓(東映の任侠東海道によって)であり、ジャンルが異なるところでは相撲の出羽の海部屋贔屓(千代の山によって)になりました。
 その意味では藤原秀郷も、私が贔屓すべき対象だったはずですが、なぜかそのようにはなりませんでした。
 將門を贔屓していたから、というわけではありません。多分そのころの私は將門など知らなかったのですから……。 


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