昨日は月に一度の東京・湯島へ通院の日。
朝、病院に行くために千代田線の湯島駅から切通坂を上っていたとき、ふと気づくことがありました。脚が軽く、運びも疾いのです。上り坂だといっても特段気にならないし、前を歩いているのがそんじょそこらのオヤジなら、いとも簡単に抜き去ってしまいます。
少し負荷をかけ過ぎかな、と思いながらも、長めの散策を心がけてきた効果が出てきたように思えます。どうせ歩くなら早足で、と思いながら、すぐのったりした足取りに戻ってしまっていたものですが、そういう意識を持たなくても、自然に脚が前に出るようになっています。
湯島へ通院することが決まった四月から六月にかけては体調が最悪だったということもあり、いまにも息が切れて口から心臓が飛び出し、そのまま事切れるのではないか、と危ぶみながらこの坂を上ったものでしたが、そのころ、否、つい最近までと較べても雲泥の差です。
それを裏づけるかのように、検査結果はほんの少しですが、数値が上向き。ただし、投薬の量は変わらず、また手提げ袋にいっぱいです。
診察が終わって、この日も上野駅へ……。昨日のうちに茨城県の古河へ行こうと決めていました。
上野十一時三十五分発の宇都宮行に乗って、古河到着は十二時三十七分。
観光案内所を訪ねたら、カーテンがかかっていました。食事中で席を外している旨のアクリル板が建てられていて、ボランティアで運営されていると記してありました。ふーむ、ボランティアということであれば致し方ない。
ガイドになるような印刷物はないかと捜したら、古河の名物らしい「七福カレーめんMAP」だけしかありません。何もないよりはマシかと思って鞄の中へ。
今回の訪問で、どうしても外せないと思っていたところは鷹見泉石記念館と古河公方の館跡。
とにかく駅を背にして歩き始めることにしました。私が持っているのは古河歴史博物館のホームページからプリントした非常にアバウトな地図だけです。それに載っている神社仏閣は正定寺と長谷観音だけ。
正定寺を目指して駅前の通りを歩き始めたら、右手にお墓が見えたので、行ってみると、西光寺というお寺でした。本堂左には古河大仏があります。大仏と呼ぶには少し小さい。
西光寺境内。葉を見ると、どうもムクロジ(無患子)のようですが、実もつけていないし、比較できるものも持っていないので、断定するのは自信がありません。
駅前通りに戻ろうとしたら、すぐ近くに浄円寺がありました。境内には非常に大きな任侠之霊。安田誠五郎ほか六人の名が彫られていますが、詳細は不明。
大聖院。古河公方・足利晴氏が正室の兄・北条氏康のために開基した曹洞宗のお寺です。
樹齢三百年と推定される大聖院のケヤキ(欅)。
樹高26メートル、幹周3・7メートル。巨木を見るのは気持ちがいい。ホッとします。
正定寺。初代古河藩主・土井利勝が開基。土井家歴代の墓所です。
正定寺にある侍従樅碑(じじゅうもみひ)。
土井家初代・利勝(1573年-1644年)の経歴が刻まれています。読めませんが、誕生したのは家康居城(当時)の浜松城、家康の御子だと記されているようです。七代藩主・利与(としとも)が建立したもの。
正定寺の黒門。
本郷にあった(と案内板に書かれていましたが、実際は駒込)土井家江戸下屋敷の表門を昭和八年に移築したもの。
福寿稲荷神社を間に挟んで正定寺の東側には隆岩寺がありました。
最初の古河城主だった小笠原秀政が岡崎三郎信康の菩提を弔うため、文禄四年(1595年)に開いたお寺です。
信康は家康と築山御前との間に生まれた家康の嫡男です。天正七年(1579年)、信長の命によって母ともども命を奪われました。信康の長女・登久姫(峯高院)は小笠原秀政に嫁いだので、秀政にとっては義父ということになります。
古河歴史博物館へ向かう途中、偶然見つけた宗願寺。門が閉じられていて入ることができませんでした。
親鸞上人の関東での高弟の一人・西念房が開いたと伝えられています。
墓石が見えたので行ってみたのが先の宗願寺。
道路を挟んでその前、これまた偶然見つけた鷹見泉石生誕の地の記念碑。下方のアルファベットは泉石自身がつけた西洋名で、J・H・Dapper(ヤン・ヘンドリク・ダップル)。後ろは古河第一小学校。
古河歴史博物館入口の標識と建物です。
歴史博物館が建つのは古河城諏訪曲輪の跡。同館入口の記念碑。
歴史博物館を左手に見ながら緩い坂を上り詰めると、鷹見泉石記念館がありました。
復元されている建物は44坪、敷地面積は345坪。
四畳の玄関を含め、いまでいうなら7DKです。実際は倍以上の建坪(100坪)、敷地は四倍以上であったということです。
渡辺崋山が描いた鷹見泉石。この絵は地元・古河にはなく、東京国立博物館にあります。国宝です。
鷹見泉石(1785年-1858年)、本名は鷹見十郎左衛門忠常。私がこの人の名前を知ったのは、有名なこの絵によってでした。
古河藩の家老職を勤めた人のみならず、蘭学を修め、江戸滞在時には崋山、川路聖謨(としあきら)たちに蘭学を教えたということを識って興味を持つようになりました。
天保十年(1839年)、崋山はいわゆる蛮社の獄で高野長英らとともに捕らわれます。郷里・三河田原で蟄居ののち自刃。
川路さんは幕臣であったことが幸いしたものか、危ない目に遭いながらも、罪に落とされずに済みました。
このころ、泉石は古河藩家老に昇進していて、藩主・土井利位(としつら)の供をして江戸在府です。利位は西丸老中という要職にありました。
崋山や川路さんの蘭学の師でありながら、泉石が罪に落とされることはなかったのか。利位が要職にあったことと関係があるのかどうか。私にはわかりません。
泉石が家老免職となり、古河に隠居を命じられるのは蛮社の獄から七年も経った弘化三年(1846年)のことです。嗣子を巡って藩主と対立、怒りを買ったのが原因のようです。
泉石に関して私がいつも思うのは、泉石と川路さんとの間で例の件で話すことがあったのだろうか、ということです。
例の件とは大塩平八郎の乱……。
大塩平八郎を捕縛したのは誰あろう泉石なのです。当時、藩主の利位は大坂城代。藩主に従って大坂にいた泉石は鎮圧のために出兵し、平八郎を捕らえました。
この平八郎をもっとも評価し、かつ対応を間違えば危険人物になる、と危ぶんでいたのは、川路さんの先輩に当たる勘定奉行・矢部駿河守定謙で、その矢部さんをもっとも評価し、尊敬していたのは川路さんだったという関係があります。
矢部さんは幕臣、しかも勘定奉行という要職にありながら、謀反を起こした張本人を弁護したという科(とが)で罪に落とされ、絶食という壮絶な方法で自決します。
矢部さんを死に追いやったのは、妖怪と恐れられた鳥居耀蔵です。渡辺崋山を死に追いやり、川路さんを失脚させようと企んだのも同じ妖怪……。
このあと、古河公方の別邸があった古河総合公園を目指します。〈つづく〉
いつも楽しませてもらっています。
歴史に詳しいのですね。感心します。
わたしのブックマークに載せている「わたしのお庭へようこそ」の志麻子さんは古河の人です。
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