アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

朝食をとる 2

2011-02-27 18:44:23 | 思い
 この課題に取り組むにあたって、まずは一日二食と三食の人体に対する影響の違いを見てみよう。食の問題はヒトという種の食性を抜きにしては考えられない。ヒトが少なくとも有史から近代までの数千年間一日一食ないしは二食だったのには、なにか生存上・健康上の理由がなかったのだろうか。
 例えば、食餌療法によって数多くの病気、難病、体調不良を治してきた甲田光雄医師は、著書「小食が健康の原点」の中で次のように報告している。
 現代医学でも難治とされているような疾患、たとえば膠原病(多発性硬化症、多発性筋炎、強皮病、全身性エリテマトーデスなど)、重症筋無力症、慢性腎炎、慢性甲状腺炎、気管支喘息、それにアトピー性皮膚炎などを克服して健康になってこられる患者さん達は、そのほとんどが厳しい少食(生食)の道を一歩一歩真面目に歩み続けてこられた方々であります。

 少食によって現代医学では不治とされた病気が治る、健康を取り戻すと言うのである。彼の勧める少食は、基本的に朝食抜き、一日二食玄米菜食または生(なま)菜食(生野菜と生の玄米粉など、火を通さないものをそのまま食べる)。一日摂取カロリーは多くの場合900~1200kcalで、栄養学で奨励する量の半分以下である。
 現代の世の中は「朝食は必要」「朝食を抜くと体にも脳にも悪い」という観念が支配的であり、役所も医者も栄養士も、どこに行っても朝食の大切さを唱えないところはない。しかし甲田医師によると、その根拠になったという実験や研究は、ほとんどが「いつも通り朝食をしっかり食べた人」と「いつもは食べているが、実験のために朝食を抜いた人」をサンプルに比較していると言う。
 生体は一定のリズムを保って生きており、いきなり朝食を抜いて生活習慣を変えると、変調を来すのは当たり前のことである。このようにリズムの狂った人たちを例に挙げて「やっぱり朝食を抜くのは体に悪い」と結論するのは、とても正しい研究とは言えない。もし比較するなら朝食抜きに適応した人とこそ行うべきである。
 それまで三食だった人が朝食を抜いてから、変わった食パターンに適応するまでしばらくは様々な症状が出てくる。しかし半年一年のうちには、それらの症状はすべて消失し、今度は今までにない快適な日が送れるようになるという実例を、彼は臨床医として数多く見てきた。
 例えば朝食を抜くと午前中の血糖値が下がって脳の機能が低下するというが、午前中何も食べない習慣に適応すると、脳はブドウ糖以外のエネルギー源、例えばそれまであまり使われてなかったケトン体を利用するメカニズムが活性化し、脳の機能は低下するどころか実際はかえって冴えてくる。
 また肉体労働の場合でも、血中のブドウ糖が減ることによって、体脂肪を分解・エネルギー化する性質を持つリポ蛋白リパーゼが活性化するのでかえって力を出しやすい。その反対に朝食をとると、また違った種類のリポ蛋白リパーゼ(こちらは血中脂肪を脂肪組織に取り込む、つまり正反対の働きをする)が活性化するので、心臓や筋肉へのエネルギー配分は非常に悪くなる。そしてこの両者のリポ蛋白リパーゼは、片方が活性化するともう片方が沈黙するという、拮抗的な関係にあるのである。
 だから人体は基本的に、空腹のときに「全力を出しやすい」状態にあるという。これは飢餓状態を生き抜くためには必須の性質であったに違いない。ただ私たちの日常では、頻繁な食事や間食によって常になにかしらの食べものが胃にある状態のために、本来のメカニズムが十分には活かされず、それを補うために体も相当無理をしている。朝食を抜いて午前中なにも食べないと、それがかなりの部分解消できるのである。つまりここに、ヒトは決してのべつまくなしに食べるべき存在ではないこと、一日三食ではなく二食、または一食の方が生来の食習慣に近いと思われる根拠がある。
 また更には、空腹時には体内に溜まっている老廃物を排泄する機能が高まることも重要である。これは有機塩素系農薬βーBHCを用いて断食後それがどれだけ体外に排泄されるかを測定する研究によって甲田氏自身が確かめている。その結果、生体は飢えると排泄機能が高まり、色々な毒物・老廃物を積極的に排泄するので血液や生体は清浄化される。この機能を利用するから、断食や少食療法、一日二食化が病気の予防や治療に有効なのである。

 もう一人、朝食抜きの必要性を説いた人であるが、西医学・西式健康法を世に出した西勝造氏を紹介する。彼は食事を抜くことと身体の排毒機能との関係を調べるために、ある実験を行った。
 まず、朝食をとる人の尿を、一週間排尿のたびに丹念に検査し、一日の尿全量に対する毒素の平均割合を算出する。次に、同じ人が朝食を排して二週間以上経過した後に、やはり同じようにして毒素の割合を算出し、それら同士を比較するというものである。その結果は次のとおり(一日2食朝食抜きの人の排毒割合を基準(100%)にしたもの)。
①昼食抜きの朝晩2食の人      66%
②一日3食の人              75%
③朝食抜きの昼晩2食の人       100%
④一日1食(午後3時~4時に食事)  127%

 ご覧のとおり三食より朝食抜きの二食、更には一食の人の方が毒素の排出割合が大きい。一日三食から比べれば、朝食抜きで排毒量は3分の1アップである。体内で毒素が生成される量はほぼ一定と考えられるので、尿中に毒素が多く出るということは、より多く排毒されていると解釈できる。
 夕食後、血液は各組織を循環して昼間の活動によって生じた尿酸などの有害物質や老廃物を運び、それを腎臓がろ過するが、その作業には睡眠中に加えてほぼ午前中一杯が費やされるようなのである。
 西勝造氏は他にも朝食の弊害を数多く挙げて。体のためには午前中は生水(一度煮沸した水は不可)以外は口にしないことを勧めている。食事は、排毒の面では確かに午後3時から4時の一日一食が理想的だが、社交・栄養上の観点から、実生活では朝食抜きの二食が理想的。主食は玄米か7分搗き米、副食として野菜3分、肉類3分、海藻類3分、果物1分。それらの総量は主食と同量となるのがよい。
 また氏は、自然の栄養価を生かすために野菜は極力生で食べるべきで、体質改善や治病のためには、年に2度ほど生野菜だけ(場合によっては生玄米粉を加えても可)で1ヶ月半くらいずつ生活した方がいいと述べている。この生野菜食の一日のカロリー摂取量は500kcal(栄養学で勧める量のおよそ5分の1)で、これで問題なく、大人も妊婦も十分健康に暮らせると断言している。

 身体機能は一日のうち、大きく分けて三つの時間帯のサイクルからなっている。すなわち①消化、②吸収と同化、③排泄である。
 まず①消化機能は、正午~20時に最も活性化する。過去に人間が一日一食や二食で生活していた時代に、食事が常にこの時間帯だったのはあながち理由のないことではない。主に午前中に移動し採集したものを、午後に食べていたのかもしれない。身体の声に耳を傾けれる人たちにとって、夜や朝に特別な理由もなく物を食べるなんてことなど考えられなかったのだろう。ただし食べてしまった場合には、いつであれ消化機能が立ち上がり、他の機能をある程度犠牲にしてもとにかくモノを消化するということに全力を傾けるよう、体の仕組みはできている。
 食べてから食物が胃を通過する「胃内滞留時間」は、食べものによって違うが穀類・野菜類で概ね2~3時間なので、理想的には夕方5時までに食べ終わるのが望ましい。現代のように照明というものを用いなかった時代では、食事時間帯はそうならざるをえなかったろうし、またそれに合わせて人間の生体リズムも形成されてきた。
 次に②吸収・同化機能は、20時~午前4時。この時間帯は本来眠っている間であり、同時に小腸・大腸が活性化している状態である。先の消化時間帯に食べた食物は腸に降り、他の各部が休んでいる間に全エネルギーを投入してじっくりと吸収される。過去の長い歴史の間、ヒトが主食として食べてきたであろう植物繊維の多い未精製の食べものの腸内滞留時間は十数時間なので、やはりこのサイクルに最も合っている。午後3時に食べれば、翌朝には排泄されるのである。
 そして吸収された栄養素は、身体各部の細胞に送られて同化される。細胞が新しいものに入れ替わり、体の成長や修復、疲労の回復などが活発に行われる。「体は夜育つ」と言われるのはこのためである。もし夜間に食事をしたりしてこの時間帯の同化作用が妨げられると、体の成長も滞り、治りは遅く、疲れも抜けないので長時間だらだらと睡眠をとってしまいがちになる。ヒトはやはり夜に休むようにできている。
 最後に③排泄機能は、それに続く午前4時~正午に最も活発になる。つまりこの時間帯に出す便や尿が最も効果的で、目やにや口・咽喉の汚れもこの時間帯に出やすい。もしこの時間に物を食べると、体は無理やり消化活動にシフトしようとするので、毒素の排泄機能は弱められる。ヒトが消化・吸収に用いるエネルギーはそれだけ莫大なものがあるのである。
 また食べたものの消化もあまりよくない。少なくとも午前中は何も食べないのがベストである。どうしても朝に食べる必要性があるのなら、果物のような消化にあまり負担のかからないものを選ばなければならない。

 このように、「消化⇒吸収・同化⇒排泄」の基本的なサイクルでヒトの一日のリズムはできている。それに照らすと、発祥の昔からヒトは「午後に食事⇒夜から翌午前中にかけて吸収と毒素排泄⇒また午後に食事」のサイクルを営々と繰り返してきたことがわかる。そのリズムに人体の仕組みは適応してきたのだ。人類にとって、今日の様に一日三食も食べ始めたのはほんの最近のことであり、けっして一食ごとに吸収と排毒のサイクルが繰り返されているわけではない。
 排泄によって体内の毒素を排出した後に、次の食物を摂らなければならない。もし十分な排泄がなされないまま次の食物を入れることを繰り返すと、毒素・老廃物は体中の組織に蓄積されてしまい、やがては発熱、炎症、下痢、発疹、腫物など様々な症状を産み出していく。これらはみな、体内の毒素を排出しようとする生体反応である。またリウマチや神経痛などは、老廃物や毒素が関節に溜まって炎症を引き起こしたものと見ることもできる。
 毒素の排出には通常午前中一杯はかかるし、食のありようによってはそれ以上かかるのかもしれない。先の西勝造氏の実験で、「一日1食(午後3時~4時に食事)の人」の毒素排出量が一番多かったのは、たぶんそれが理由だろう。また「昼食抜きの朝晩2食の人」の排毒量が「一日3食の人」と同様少なかったのは、朝食をとることによって本来の排泄時間帯が機能しなくなると同時に、それに代わるものとして日中の時間帯を割り当てても、充分には代替されないことを示している。ただ「一日3食の人」よりも更に排毒量が少ないことに関しては、もしかしたら朝食の量にも関係してるかもしれないが、これだけでは理由がよくわからない。 

 ここまで見てみると、太古から人類がなぜ「一日一食か二食、しかも昼から午後にかけて食べた」かも、そして現代人の朝食がいかに人体の摂理に反しているかもよくわかる。実際一晩眠った後には、前日の食事などを材料として肝臓には莫大な量のグリコーゲンが蓄えられているので、本来午前中に空腹を感じることなどありえない。それを空腹なように思うのは、一つにはそのような習慣を無理矢理人為的に作ってしまったこと、それと、前日または連日の過食によって胃壁が荒れていること(胃壁が荒れているとそれだけで空腹感を覚える。これを「偽腹」という)である。
 だから経験者は自信を持って語るのだが、朝食は不要である。それどころか食べるとかえって有害である。また朝食を抜くとなんとなくその分、昼や夜に多く食べないといけないように思ってしまうが、それも現代栄養学の誤りである。朝食を抜くことによって体内毒素が減り、胃腸が十分休養をとるので消化吸収効率も上がり、今までより少食ですんでしまうのだ。つまり昼食も夕食も食事量を増やす必要はない。徒に増やすと過食となり、消化器官に負担をかけるし、かえって朝に「食べたく」なってしまう。
 私自身は過去に5年ほど昼・夕の一日二食・少食を通し、その後思うところあって一日三食の食生活を2年ほど行った。そして最近また、朝食抜きの少食生活に戻したのだが、その体験から言っても、やはり朝食は食べない方がいい。また昼食も夕食もできるだけ多くない方がいいと確信している。「一日2400kcal必要」などと言われるが、実際はその半分ほどで十分に健康な肉体労働の生活が送れるのである。問題は、過食によって消化吸収能力が落ちることにより、結果的に「食べないと体がもたない」ような体質を自分で作ってしまっていることにある。栄養学で唱える数字はあくまでも「一般人の平均値」から割り出したものであり、現実とはあまりにかけ離れている。栄養学の言うとおり生活すると、世間一般並みに不健康になってしまうのは、多くの人が実証している。

 さて、世の中が口を揃えて「朝食食べろ!」と言っているのには、実は社会上極めて現実的な理由がある。朝食を消費することの経済効果である。
 全国民が朝食をとることによって、年間で1.5兆円を国民が支払い、関連業者の懐に入り込むという。すると農薬やタバコ、パチンコ産業のように(まあそれほど悪質ではないにせよ)、食品業界や農産物販売業界が黙ってはいない。特に「自給率向上」「地産地消」を追い風に販路拡大を意図する米業界はこの機を逃さず巻き返しを図り、一方、終戦からこの方学校給食によって潤ってきたパン、牛乳関連業界は、一度確保したシェアをなにがなんでも手放したくない。
 朝食が体にいい!という実験データをほいほいと上げる栄養学や医学の研究者たちは、実はその実験が公正でないことなど、とうに承知の上なのだ。彼らはそれによって業界団体から研究費を獲得することができる。業界発のお金は公務員やマスコミにも影響力を振るい、結果として朝食推進運動を進める厚生労働省は、この件に関して経済界の言うなりなのである。
 反対に、「朝食を食べないようにしましょう」キャンペーンには誰も乗ってこない。そんなことしたら国民が健康になる代わりに食品・医療・製薬業界が一大打撃を蒙り、日本経済はますます泥沼にはまってしまう。経済至上主義の中ではただ消費することだけがよいことなのであり、「朝食」はそれを推進するためのひとつの道具にすぎないというのが実態である。
 真面目な気持ちで子どもに朝食を食べさせようとしている大人や医師、栄養士、学校関係者たちは、ただコマーシャルベースの戦略によって動かされているだけなのである。例えその気持ちが善意によるものだとしても、与えられた情報をそのまま鵜呑みにして行動する責は当人にある。朝食が害なのか益なのか、少し自発的に勉強し、自分自身で体験するならば誰でも一目瞭然でわかることなのである。朝食や間食など、世間にはしない方がいい悪習慣が幾つもあるが、今や社会の中には「それをして当たり前」的な風潮が既に出来上がってしまっている。「朝食礼賛」も、産業界と「人の食欲」が創り出したひとつの社会習慣と言える。
 とは言っても、現実に一度身についた「食べる楽しみ」を意志的に手放すのは、少し勇気が要ることである。食欲はよく「生存本能」と結びつけて語られることが多いが、確かに関係あるにはあるが、「食欲」と「生存本能」とはおのずと別のものである。例えば朝食やおやつを抜いても死ぬことはない(かえって健康になる)し、それでもって飢餓状態の人の苦しみや状態がよくわかるようになるかというとそうではない。食欲は単なる「口の欲」なのである。うまいものを腹一杯食べたい!人類は長い歴史の中でそれをとことん突き詰めて、今日の過剰な栄養状態、食が返って不幸を産む状態に陥ってしまった。

 さてこのように、朝食をとるとは、ヒトとしてどのようなことであるかについて考察してきた。現代の日本は人類史上稀に見る裕福繁栄の時代にある。しかしそのような好条件下にあって、人々はむしろ愚かで進歩せず、かつてないほど自分の身を不健康に堕せしめている。
 例えば釈迦の時代、出家者は午前中に托鉢をして、得られた食べものを昼に食べ、午後には托鉢に出てはならないとされていた。喜捨された食物は、それがどんなものであろうと、量が足りようが少なかろうが、感謝して食べなければならない。また、八斎戒(ウポーサタ)の一つに、「夜に時ならぬ食事をしてはならぬ」という戒めがある。つまり一日一食と定めており、特に夜間食べることは修行の妨げになることを知っていたのである。現代科学のない時代の人の方が、私たちより賢かったというのは皮肉である。
 このようにして、人や家系、国家や社会は繁栄と零落を繰り返すのかと感じ入るところもあるが、しかしこのような状況だからこそ、真の健康・真の幸福の価値に目覚めて克己と自己管理に励む人たちのいることも事実である。
 仏典の中で釈迦は繰り返し、「食を制御すべきである」と言っている。食の誘惑、性の誘惑は、「人間の二大煩悩」と呼べるほど、強烈で抗いがたい。しかしそれを制しない限り、人はヒトとしてまっとうに生きては行けない。過去の偉人・賢者・健康者は誰もがそれを行い、後世のために食にまつわる大切な教訓を残している。
 食べることはあまりに日常的すぎて、ともするとその大切さ・恐ろしさを見失いがちである。私自身も食に関しては数え切れない試行錯誤、失敗、挫折を繰り返してきた。しかしそれでも、今もなお食を制御しようとするのは、これに自分の人生がかかっていることを知っているからである。それは私一人のことではなく、人みな一様に、同じような状況にあることには違いがない。
 今すぐにできないことでも、少しずつ精神を鍛えていけばやがてできる時が来る。人間の精神は主に、日常の食や習慣によって、鍛えられたり、反対に弱められたりするものである。残念なことに今の社会の中では、親や周りの大人たちが無意識的に、子どもたちの精神を弱めて「胃袋と性器しかない人間」に仕立てあげてしまっていることがひどく悲しく感じられる。


【写真は、映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーン】


(おしまい)


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