時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

労働を通して見た日本社会

2007年03月14日 | 経済問題
「富の源泉は労働である。」ことを看破したのは、「諸国民の富」の著者であるアダム・スミスである。人間は労働することによって、労働対象となった物には新たな価値が付加されていく。
たとえば、鉄鉱石から鉄を取り出し、それをさらに鉄板や棒に加工するといったように、特定の素材に人間の労働が加わることによって、次々と新たな使用目的を有する商品が出来上がっていく。この労働価値説は、その後マルクスによって理論的発展をみたわけである。
多くの労働者は、自分の持つ「労働力」の一定時間を資本家に売ることによって、給料(賃金)を得て生活している。「労働力」も他の商品と同じように、売買される商品なのである。
資本家は、購入した「労働力」を使用することによって、たとえば鉄鉱石から鉄板を作らせ、新たに価値が付加された鉄板という商品を売って儲けるわけである。
他の商品と同じように、「労働力」もそれを使用することによって磨り減ってしまう。しかし、「労働力」という特殊な商品は、生身の人間に付随するので、労働者が食事をし、睡眠をとり、休息を取ることによって回復し、翌日にはまた同じように労働することができる仕組みになっている。
したがって、「労働力」という商品の価格は、基本的には、この「労働する能力」を維持するのに必要な衣食住や文化的な生活の維持、知識の習得などの費用によって決まる。
「労働力」には、個人差がある。同じ労働をしても、作業が速い人、遅い人がいるのは当然である。作業効率が高い人には多くの給料が支払われる仕組みになっている。
しかし、たとえ作業が遅い人であっても、少なくとも生命が維持されるだけの給料が保証されなければ、「労働力」を再生産できないことになる。
産業革命以来、科学技術は長足の進歩を遂げてきた。それに伴って、生産性は著しく向上し、以前は1日かかっていた作業が、わずか数時間あるいは数分でできるまでになっている。
また、社会の文化水準も飛躍的に向上してきた。以前は、衣食住が満たされれば事足りた「労働力」の維持も、最近ではそれだけでは足りず、高度な技術の習得や維持なども必要になっており、さらに文化水準の向上に伴い、様々な文化の享受などにも費やす必要が生じている。
しかし、今の日本の現状はどうだろうか。
働いても、衣食住さえままならない、「労働力」の再生産ができないワーキングプアと呼ばれる貧困層が増え、衣食住が事足りている労働者も、毎日の残業でろくに睡眠も取れず、「労働力」の再生産ができないばかりか、豊かな文化水準を享受する時間的なゆとりさえ失っている。最悪の場合には、過労死という「労働力」の完全な喪失に至るケースさえ存在する。
労働生産性の飛躍的な向上によっても、労働環境を巡る問題はまったく解決していない。むしろ矛盾は広がっているように見える。その原因は、大企業、資本家が、「労働力」の再生産に必要なだけの給料や時間を労働者に分配していないことによるものである。最近の格差社会の原因はここに存在する。
現在の高度な生産力があれば、作業効率の低い労働者にも最低限の給料を保証し、効率の良い労働者には、より多くの給料が保証できるはずだ。しかも、非正規雇用者を正規に雇用し、残業なしで、労働時間もさらに短縮し、多くの労働者が文化的な生活を十分に享受し、堪能できるだけの十分すぎる時間も保証することができ、これによって、人間としての生きる喜びが広がるはずである。
労働という行為を通して、日本社会の歪(いびつ)な現実と本来の人間のあり方に関心を持っていただければ幸いである。