「他力とは何か」を知りたくて、五木寛之著「他力」(幻冬舎文庫。476円+税)を読みました。
他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、自分の生き方を支えているという考え方です。大きなエネルギーが見えない風のように流れていると感じる。
(何かを)自分ひとりの力でやったと考えるのは浅はかなことで、それ以外の目に見えない大きな力が自分の運命にかかわりあいを持っている。人はそれを知るとき、自己を超えた大きな自由を感じるのです、と五木氏は書いています。
深く絶望して初めて本当の確信が得られる
他力、そして自由を感じ取れるのは、現実の悲しさや苦しさなどを直視して深く絶望した人間です。五木氏自身が、想像を絶するほどの悲しみに遭い、深く絶望した人です。
第二次大戦中に植民地だった朝鮮に住んでいた五木一家は、敗戦後、死ぬような思いをしてやっと38度線を越え、日本に帰還しました。しかしその後、父はアル中状態で晩年を過ごし、56歳にして結核で亡くなりました。母はその前に42歳で亡くなり、2人の弟の片方は幼くして、もう一人は42歳で亡くなりました。
「7人だった家族はいま2人しかいない」と書いています。察するに、奥さんも亡くなり、障害のあるお子さんとの2人暮らしなのでしょうか。普通の人間には想像もできない、本当に悲しく辛い、絶望的な人生を送ってきた五木氏だと思います。
その五木氏の心の底からのメッセージだから、いま、「他力」を求める多くの人の心を打つのだろうと思います。
巻末の「解説」で詩人の松永伍一氏は、「五木さんの内奥に息づく悲しみの噴き出た文章に・・・私はところどころで泣いた」と書いています。
そして、「思想というものはからだに沁みる親しさで語られてこそ他者の土壌で芽をふく」と述べています。
本心をひた隠す現代の人々
いじめられるのが恐くて学校でジョークを言ったりすることに疲れた、と言う高校生。老人手帳の第一条に「愛される老人になりましょう」、第二条に「誉め合い運動のすすめ」とある。
自分の感情を正直に出さない人間像が、「望ましい国民像」だった。感情表現の豊かな人間は邪魔になるばかりで、生産力にはつながらない。いまの若者は規格人間養成教育の犠牲(いけにえ)である。
そうではなくて、強く歓び、深く悲しむこと、感情の自由な振幅こそが大切である。
深く絶望する人間にしか強い希望は掴めません。強く悩み、強く迷う人間にしか本当の確信は得られないのです、と五木氏は述べています。
世紀末を作った市場原理と自己責任
人類が迎えた世紀末は、ただの世紀末ではなくてミレネールという千年単位の「大世紀末」。この途方もない活断層の前で、私たち日本人は新しい価値観を見出せず、呆然と立ちすくんでいる。
こう述べる五木氏は、市場原理と自己責任に代表されるグローバル・スタンダードが、日本人の心に荒廃を招いたと指摘します。これは、「国家の品格」の著者・藤原正彦氏がグローバリズムを批判していることと共通しています。
藤原氏も五木氏もともに、感情や情緒の大切さを説いています。「情」を欠いた「論理と合理」、「市場原理」が、救いようのない心の荒廃を招いたのです。
五木氏は、「いまは〈悲〉の心が求められる時代」と言います。悲は、慈悲の悲です。そして、「人間は生きるだけでもたいへんなことです」と、生きることの尊さを述べています。
どんな人でも、「得がたい命を得たという、誰とも違うかけがえのない生命において尊い」と説明。これが「天上天下唯我独尊」の意味だと説明しています。
「他力」を少しだけ読んだ私には、まだまだ語り尽くせない内容が残されていますが、松永氏の言う「座右の暮らしの必需品」のようにして、「他力」を愛読したいと思います。(会田玲二)