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☝旧宅全面 ネットから借用 ☟旧宅内部 ほぼ400年前の佐倉惣五郎が住んだ家と説明を受けた。
宗吾から17代目にあたるミセス木内から詳しく木内家(佐倉家)の歴史の説明を聞くことが出来た。
Wikipediaから一部引用:
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?[1][注釈 1])は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物[1][4][2]。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)[3]、通称は宗吾(そうご。惣吾[1]とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが[1][4][2]、史実として確認できることは少ない[1][4][2]。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され[3]、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった[1]。
旧宅を出て甚兵衛渡しに向った。渡しがあった辺りは、今は干拓により水田が広がっていて甚兵衛公園となっている。
お咎め覚悟でひそかにいったん家に戻る宗吾を船で運んだ渡し守の甚兵衛は、送った後印旛沼に身を投げたと伝えられている。
このあたりも往時は印旛沼だった。
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