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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

役者「殿山泰司」のエッセイをずっと読んでいた。彼のベスト・エッセイという文庫本が出た。

2018年12月24日 | 乱読は楽しい

殿山泰司という俳優は主役をはる人ではなく、いつも脇役で出ていて、どんな映画でも彼の存在はその映画自体の出来が悪くとも
一応映画の体をなさせるという不思議な役者だった。
彼の演技、それは彼自身の体にまとわりついている日本の普通人や町人、庶民が持っている生きる力のような自然体のものだった。
時に男気、時に卑怯卑劣、時に勇敢、時に怯懦、時に弱気。一口で言えば「いやらしい役者」、それが殿山泰司だった。
彼のエッセイはほかの人には書けない意表を突く内容が多く、阿智胡地亭は昭和50年代には新聞雑誌に出るものは全て読んだと思う。
先日もう亡くなって長くなる彼の精選エッセイ集が出た。彼のような日本人が生きて物を書いていた時代があったことを
また人が思い出す必要がある時代になったからだろう。
 出演作に裸の島、黒い雨、生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言、伽耶子のために、楢山節考(1983)、泥の河などなど多数。
 




Wikipediaから部分引用。⇒ 殿山 泰司
(とのやま たいじ、1915年(大正4年)10月17日 - 1989年(平成元年)4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。
兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校卒業。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。
神戸の生糸商の長男として生まれる。父親は広島県生口島出身[1][2]。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京都中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、今も銀座8丁目で営業をつづける「お多幸」である。屋号は義母の名前からとられている。幼名は殿山泰爾(たいじ)である。
中央区立泰明小学校卒業後、府立第三商業学校に入学。1933年(昭和8年)に父が亡くなり、家業を継がねばならなくなるが、弟に譲り、俳優の道を志す。
1936年(昭和11年)新築地劇団に入団する。同期入団者に千秋実、多々良純、小山源喜がいる。薄田研二につけてもらった「夏目銅一」の芸名で初舞台を踏む[3]。1938年(昭和13年)に劇団を一時退団し、同年復帰後は本名と一字違いの殿山泰二に芸名を変える。1939年(昭和14年)、南旺映画の第一作『空想』(千葉泰樹監督)で本格的な映画デビューを果たす。1942年(昭和17年)に京都の興亜映画に入所し、同年、内田吐夢監督作品『鳥居強右衛門』に出演、撮影終了と同時に召集されて出征。中国戦線を転戦する。
中国湖北省で終戦を迎えた殿山は復員後、興亜映画に所属していたスタッフや俳優を引き取っていた松竹大船撮影所で自身の所属を確認して俳優活動を再開、殿山泰司と芸名を改めて映画界に復帰する[3]。新藤兼人脚本・吉村公三郎監督作品への出演を通じて彼らと交流を深め、1950年(昭和25年)に新藤、吉村が近代映画協会を設立した際には創立メンバーとして参加した。以後、新藤・吉村の監督作品の常連をつとめ、新藤の『裸の島』では島の男の役で乙羽信子と共演(これは一言も喋らない、台詞の無い脚本)、同じく新藤作品の『人間』では漂流する漁船の船長役で、それぞれ主役をつとめた。
その一方、「お呼びがかかればどこへでも」をモットーに「三文役者」を自称して、様々な映画に脇役として出演。巨匠の作品から児童教育映画、娯楽映画、ポルノに至るまで名バイプレーヤーとして活躍した。独特な風貌や、巧妙な演技から性格、個性派俳優として黒澤明、今村昌平、今井正、大島渚など様々な監督に重用された。またフリー[4]で活動していたため、五社協定に縛られることなく各社の映画に多く出演することができた。そのため73年の生涯で約300本に上る映画に出演し、テレビにも頻繁に出演したため、その作品は膨大な数に上る。各作品で印象的な演技を残し、そのなか大島渚監督の問題作『愛のコリーダ』で局部丸出しで演じたことで知られ、ほかのシーンを含めてこの作品は映画の芸術表現と法の合否が裁判所で長く争われた。
私生活では、復員後に始まった「側近」と呼ぶ女性と正妻の関係は彼が没すまで続き、墓所は2箇所に建てられている。離婚再婚がままならずに陥ったその滑稽な経緯について自著「三文役者あなあきい伝」、新藤兼人の『三文役者の死』に詳しい。
映画では禿頭にギョロ目という老人的な風貌が特徴的だったが、私生活は流行に敏感でお洒落であり、公私にジーンズにサングラスがトレードマークだった。自著によると、日本映画衰退期で仕事が減った時には、家人に心配させまいと仕事に行くフリをして都内を彷徨い、実際、撮影オフには、ジャズ喫茶など頻繁に現れた。無類の酒好きだったが、後年病気から節制している。また、新宿ゴールデン街を愛し文士との交友も深く、ジャズやミステリー愛好家、読書家としても知られコラム連載を持ち、エッセイストとしても饒舌な素地となり、1970年代には「オレが」一人称で毒舌織り交ぜながら独特の口調で語るエッセイや自伝的文章を多数執筆し、トレードマークの禿げ頭、黒いサングラスをかけた殿山のイラストが添えられていた。のちに、「三文役者あなあきい伝」をもとに麦人が殿山に扮する舞台独談劇「タイチャン」が上演されている。
神奈川県鎌倉市には正妻(最初の夫人)と子による家族の趣味、料理、陶芸、酒などを前面に押し出した店、居酒屋「との山」がある。
1989年(平成元年)4月30日に肝臓がんで死去した。享年73。
2000年に盟友・新藤が彼の生涯を映画化し、『三文役者』という題名で公開された。殿山を竹中直人が演じた。



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