阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

買ったまま積んでおいた村上春樹が訳した「ロング・グッドバイ」がとても面白い。   

2013年08月21日 | 音楽・絵画・映画・文芸

この夏はあんまり暑いので「立ち飲み屋」に出かける気力もなく積んで置いた本に手を伸ばしています。
 この「長いお別れ」はこんなにこなれた翻訳だとは知らなかった。村上春樹はやはりただものではない。
579頁の厚い本だが読み始めたら面白くて5時間ほどで275頁まで読み進んでいます。


主人公の私立探偵フィリップ・マーロウのセリフで有名なのはレイモンド・チャンドラーが書いた長編シリーズの第7作にして、
チャンドラーの遺作となった『プレイバック』(Playback)の中の:
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」だろう。
原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」

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以下「村上春樹の西宮芦屋」から引用。サイト。

 

阪神間キッズ
   村上春樹の阪神間(西宮・芦屋)の記憶の集積が、彼の重要な資産として多くの作品の中に、隠し絵のように散りばめられていることは、同じ時期に、同じ場所で、同じ空気を吸っていたものだけにしかわからないことかも知れない。 このホームページは、彼と同時代に、この地で過ごした元阪神間少年達によって作られたものである。彼の作品の多くには、阪神間 特に西宮、芦屋の情景が多く描かれているが、その場所が具体的にどこということが書かれるケースは少ない。最新作の1Q84のように、”西宮のヨットハーバー”などと書かれていることは滅多にない。その他の場合は、どことは書いていないので、推測でしかないが、このHPで述べる状況証拠からして、これらが、彼が育った、西宮なり芦屋の風景であることは、間違いがないと阪神間キッズは信じている。 
   
         
      
  (辺境・近境)
 僕は戸籍上は京都の生まれだが、すぐに兵庫県西宮市の夙川というところに移り、まもなくとなりの芦屋市に引っ越し、十代の大半をここで送った。高校は神戸の山の手にあったので、したがって遊びにいくのは当然神戸のダウンタウン、三宮あたりということになる。そのようにしてひとりの典型的な「阪神間少年」ができあがる。・・・・
当時の阪神間は-もちろん今でもそうなのかもしれないけれど-少年期から青年期を送るには、なかなか気持ちのよい場所だった。静かでのんびりとしていて、どことなく自由な雰囲気があり、山や海といった自然にも恵まれ、すぐ近くに大きな都会もあった。コンサートに出かけたり、古本屋で安いペーパーバックスを漁ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、アートシアターではヌーヴェルヴァーグの映画を見ることができた。洋服といえばもちろんVANジャケットだった。・・・・
 実家はずっと芦屋市にあったが、95年の阪神大震災でほとんど居住不能になって、両親はそのあとすぐ京都に越した、というわけで、僕と阪神間を結びつける絆は、今では―記憶の集積(僕の重要な資産)の他には―もはや存在しない。  
   
     
   
     
 
   
      
 
    
 
 
 
 
   
   阪神間(西宮芦屋)の市民文化
   村上春樹の作品と阪神間
      
 
  阪神間少年・村上春樹 故郷の山と海      西宮芦屋研究所  小西巧治
 
2014年9月28日、兵庫県阪神南県民センタービジョン委員会のあにあんクリエイトのみなさんの企画で阪神西宮駅から阪急芦屋川駅まで70名の参加者と一緒に歩いた。このコースは、阪神淡路大震災のあと作家の村上春樹氏が歩いた道だ。紀行「辺境・近境」の「神戸まで歩く」にこの時のことが書かれている。
 1995年1月17日、未曽有の大地震が、神戸市を中心とした兵庫県南部を襲った。この阪神大震災によって6千人を超える犠牲者が出た一帯は、作家村上春樹氏が幼少期から少年時代を過ごした西宮、芦屋、神戸の市域とほぼ一致する。
  私は、芦屋市で被災したが、その年の8月に勤務先の社命で香港に駐在、その後のシンガポール勤務を含めて計7年の単身赴任を経験した。この間、村上作品の英語版や中国語版が現地で平積みされているのをしばしば見かけた。これを機に、現地の日本人会の図書館で借りたり、古本市で手に入れたりして、発表済みの作品をほぼ読破した。そのうちの一冊が「辺境・近境」で、この本から私は村上氏が隣の小学校に通い、同じ時期に、同じ地域で、同じ空気を吸っていたことを知った。
 村上氏自身、自らを「阪神間少年」だったと「辺境・近境」で語っている。
「静かでのんびりとしていて、どことなく自由な雰囲気があり、山や海といった自然にも恵まれ、すぐ近くに大きな都会もあった。コンサートに出かけたり、古本屋で安いペーパーバックスを漁ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、アートシアターではヌーヴェルヴァーグの映画を見ることができた。」(「辺境・近境」)
 
 1999年ごろ、村上氏と読者との交流サイトが開かれ、私が送ったEメールに返事をもらったことがある。
 「僕は今、神奈川県の海岸の町に住んでいますが、ここはずっと昔の阪神間の町に雰囲気が似ています。散歩なんかしているとほっとします。逆に今の芦屋や夙川あたりからは、昔の面影がずいぶん消えてしまったような気がします。ほんものの海がなくなったのもさびしいですし。」   村上春樹 拝

 村上氏が小学校高学年から中学生だった1960年代、西宮市沖を埋め立てて石油コンビナートを造成する計画が市議会で可決されたが、地元の酒造メーカーや多くの市民の反対運動により、誘致は白紙撤回された。一方、村上氏が大学に進学した頃から始まった芦屋市浜の埋め立てが1975年に完成し、1978年に高層建築が建てられた。  この海がなくなった失望と喪失の気持ちは、短編集「カンガルー日和」の「5月の海岸線」や「羊をめぐる冒険」など多くの彼の作品に現れている。
 震災から20年が経過した。被災者や遺族の心の傷は計り知れないが、見る限りにおいては、この町のどこが被災したのか、震災のモニュメントだけからしか分からないほど復興した。 確かに、開発で変わった海はもとには戻らない。しかし、自然の甲子園や香櫨園の砂浜も残され、毎年、晩秋から春先までは渡り鳥のサンクチュアリになっている。村上氏が愛した山と海をつなぐ川には、清流にしかすまない鮎が遡上し、山からはカワセミが鉄道の駅や人家の近くまで飛来する。
 そこには、以前とは少しは姿を変えても、多くの村上作品の原風景がある。その作品の中に、隠し絵のようにちりばめられた阪神間の情景を、これからも探し出していきたい。

 

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