阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

中国・北京飯店で食べた「冷や麦 」は涙が出るほどおいしかった。      昭和50年代の海外あちこち記  その8  

2024年07月01日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)はじめて中国に出張したのは1979年8月のことです。北京の町はまだあの緑色の人民服の人たちと自転車で一杯でした。

マイクロバスで同行の人たちと交通部(運輸省)へ行く途中にえんえんと続く高い塀を巡らせ、門ごとに拳銃を吊るした紅軍の兵士が

厳めしく門衛をしている広大なエリアがありました。「ここは何ですか?」とアテンドの外事課のエリート役人の若いミス曹に聞くと

「共産党のカンブー(幹部)が執務をしたり、住んでおられる「中南海」というところです」と敬意のこもった口調で教えてくれました。


自分がそれまで何となく持っていた共産主義の国は皆平等という概念がありゃこれは違うとまず感じた最初の一歩でした。

女性の幹部も多く、男女差別は殆どないようでしたが、一般人と幹部クラスの生活は天と地ほどの差があるようでした。

例えば百貨店の玄関に、当時でもあまり見かけない紅旗という国産の運転手つき大型高級車が何台も女性や子供を乗せてやって来ます。

「あの人たちは誰ですか?」と聞くと「幹部の専属車でご家族の方々が買い物に来られておられます」とミス曹はこれまた当然のように答えました。

2)技術交流という名目の費用当方持ちの勉強会ですから、先方も気を使って日曜日に万里の長城にマイクロバスで案内してくれました。

まだ観光客相手のレストランもなく昼食もすべてバスに積み込んでありました。長城はさすがにこんなものを作った漢民族の底の知れぬ力と

これを作らせた匈奴の想像の出来ない恐ろしさ、威力の両方を思いました。

7月の暑さでお湯のようになった心尽くしのビールで乾杯をして、パサパサのサンドイッチを食べながらの話の中で、

「何百年もかけてこの長城をつくるために中国全土から徴用された労働者を出来るだけ長く働かせるために毎食食べさせたものがあります。

また、もう一つ月からも肉眼で見える人工構造物であるピラミッドを造るエジプト人労働者に同じく食べさせたものがあります。

それぞれわかりますか?」と聞かれました。両方の正解は誰も出来ませんでした。



  答えは中国が「にんにく」、エジプトが「ゴマ」でした。

 3)北京の有名な焼き肉屋

 出張業務が終わり、気のいいメーカー(ボクの元勤務先)を中国へ連れ込んだ商社が「清の国」以来、北京でも有名な羊の焼肉屋で打ち上げをやってくれました。

 後日札幌でサッポロビールがやっているビール園で焼肉を食ったとき、同じ道具が出てきたので、北京の「ヨースーロー」だったか?のあの店の道具を

そのまま真似していると思いましたが、半球型の鉄板で焼いた羊肉を腹一杯食べました。

  漢民族の中国に「元の国」を作った蒙古族や「清の国」を作った満州の女真族の後裔も今の中国に当然中国人として暮らしていますが、

いまやその出自を隠しているという話を元清の高官の出の一族と称する、いま中国政府の運輸省の下っぱの酔っ払ったお役人から宴会の席で聞きました。

中国は多民族国家やなーと実感し、かつ差別はどこの人間、地域、いつの時にもつきものやなーと思い、漢民族中心主義は共産主義体制と関係なく

しっかりずっとあるのやなーと思いました。 

  4)北京飯店の冷や麦     1983年8月ごろに出張したときの話です。

 当時の中国のホテルはどこもいつも満室で、殆ど毎晩違うホテルを商社の佐藤さんと二人相部屋で渡り歩きました。

 人気のタバコ、セブンスターを一箱フロントにつかませると、満室のホテルにも突如空室が一部屋出てくることがあります。

 ある日曜日、ようやく泊まることが出来た郊外の古い「北京中央体育館付属飯店」からバスで北京一のホテルである北京飯店に麻雀とメシに行きました。

 北京市内を一人でバスで行動すると(当時はタクシーが極端に少なかった)乗客全員から毎回奇異というより冷たい目で降りるまでずっと注視され続けました。

当時背広を着ている人間は、人民服の北京普通市民から見ると全員外人ですから、戦前の日本と同じで外人はみなスパイ?敵性人?と

いうことかなと能天気な身も思わざるを得ませんでした。(特にまたどう見ても典型的な日本人の私にとって)。

  北京飯店の中に商社のオフィスがあり支店長が住んでいます。支店長は二部屋持っていて一部屋を支社員全員の会議室兼娯楽室にしていました。

 マージャン卓もその部屋にありました。

ホテルに着いたら、ちょうどメインレストランで日本の「冷や麦」をホテルのコックに作らせて、

その広い娯楽室で中国出張中の各メーカー社員達と駐在商社員が十数人で食べはじめるところでした。

 3ヶ月近く北京、天津、大連を渡り歩いて、ほとんど中華料理しか食べてない身にとってこんなうまいものがこの世にあったかと涙がこぼれそうでした。 

(画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影したものではありません)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« The Story Behind Shohei Oht... | トップ | 東日本大震災が起こった翌年... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

昭和50年代の海外あちこち記」カテゴリの最新記事