この本のベースになっているのは週刊新潮に連載されていた コラム「建築そもそも講義」だ。連載中ずっと船橋社中の社主さんから見せてもらっていた。
著者がこのコラムから抜粋して再編集し、この新書になった。下のようなコンテンツは断捨離され中身が絞られている。
読み物風だがある意味著者のこれまでの各地の建築物の渉猟や探索結果のエキスが示されている。
面白いエピソードが満載で、具体的な事実に基づいて西洋建築が入ってきた日本の建物の歴史が述べられていて、読みだすと「巻を措く能わず」という状態になった。
2017年3月6日付朝日新聞夕刊から引用。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2008年の夏に高過庵を訪ねた阿智胡地亭は不思議な体験を二つしました。
一つは 高過庵に近づいてある地点を越えた瞬間、全身が小刻みに震えたということです。そういう人が時々いますと藤森さんは言いました。
もう一つは 藤森さんや従兄弟たちと高過庵の茶室に座って、窓から周囲の景色を見た時、初めて見る景色なのに自分は前にここにいたことがある、
そういう思いが体一杯に広がったのです。何万年もこの地で暮らしてきた祖先の地の地霊を感じたのかもしれません。
高過庵は藤森家の土地に建っていますが、このエリアは古代から諏訪の土着神であるミシャグジさまの祠があり、明治の初めまで諏訪大社の神長官を
代々務めた「守矢家」が治める神域でした。
藤森さんの照信という名前は守矢家の先代が付けた名前だそうです。
守矢神長家の話 守矢早苗
「神長官守矢資料館のしおり」より⇒こちら。
神長官 守矢一族と現人神 諏訪氏 全文を読む
前述の通り、建御名方神が諏訪へ侵攻していた際に、迎えうった洩矢神の末裔が守矢一族である。神長官を含む五官祝(諏訪大社上社における神職の名称。神長官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝)という制度は神社が国家神道へと変遷し制度改革の行われた明治初期になくなってしまったが、その血が絶えていないことは記述してきた通りだ。『しおり』に寄稿している守矢早苗氏は洩矢神から七十八代目である。参考までにあげれば、出雲大社の千家宮司が現在、八十四代、海部氏家系図で有名な籠神社宮司は、現在、八十二代である。いずれの社家にも劣らない。
守矢氏の祖先は、現在の前宮周辺に居を構えていた。その後、建御名方神の子孫である諏方氏に前宮を譲ると、現在の守矢家と守矢史料館のある高部扇状地に移る。この高部扇状地そのものが高部遺跡であり、縄文時代から中世までの人々の生活跡が発掘されている。古墳時代には諏訪地方の豪族の墓城でもあった。実際、この付近を歩いたが扇状地のあちこちに古墳や小さな祠(どんな小さな祠にも御柱が立っている)が点在し、少し奥に分け入れば磐座信仰の名残を残す小袋石が祀られている。古代よりここが重要な信仰の場所であったことが伺える。
前述の通り、諏訪大社の祭政体は現人神・諏訪明神に降りて来るミシャグジ神を中心に営まれてきた。そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが守矢神長官家であり、ミシャグジ上げやミシャグジ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切ってきた。この守矢家の神長官の秘法は、「真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により『くちうつし』で」(『しおり』の守矢早苗氏の文章より引用)伝承されたという。この一子相伝、くちうつしの秘法は七十六代実久氏で終焉を迎える。
一方、建御名方神の子孫である諏方氏は「大祝」という生神(つまり諏訪明神の依代)の地位に着く。諏方氏が最初に居住し、祭祀を行っていたのが現在の前宮である。ここに諏訪大社の発祥を見ることができる。
しかし、大祝は事実上の祭祀権を握ることはなかった。なぜならば、諏訪氏が諏訪明神になるには、神長官守矢氏の力が必要であった。筆頭神官である神長官の降ろしたミシャグジを身につけて初めて、現人神大祝=諏訪明神になれたのだ。そして神降ろしの力や、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされており(つまりミシャグジ祭祀は神長官のものであったために)この地の信仰及び政治の実権は守矢家が持ち続けていたのだと守矢早苗氏は言う。
諏方氏はその後、系譜が曖昧になるが、伝承によると、806年、諏訪明神が桓武天皇の皇子、有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝をもって体をなす」と神勅をくだし、大祝の中興の祖となる。現在の諏方氏の祖はここに起原を持つ。その後、また系譜が曖昧になるも、十六代頼信から現在まで諏方氏は続いている。
「謎のミシャグジ神 諏訪大社 上社 本宮編」⇒こちら。
今、古きを顧みるブームです。
お陰様で、知らなかった、建築に触れました。
感謝しています。