神戸大空襲その1

 昭和20年の今日、3月17日 東京、名古屋、大阪に次ぎ神戸にアメリカ空軍の多くの爆撃機が来襲しました。

焼夷弾を絨毯爆撃で投下したため、一般市民が無差別に大量に死にました。最も多く死傷者が出たのは民家が密集していた兵庫区でした。

次いで昭和20年6月5日に3月の6倍に近い350機の爆撃機が来襲しました。東京大空襲を上回る投下弾3000トンで神戸の町は廃墟と化した。

それ以外にも神戸、阪神間、明石方面は連日のようにB29の攻撃を受けました。

小説家「野坂昭如」は当時JR六甲道駅に近い場所に祖母、両親と妹と住んできました。そして6月5日の空襲体験を基に「火垂るの墓」を書きました。

あまりにもその内容が哀れで、小説を一度読んで2度と読みたくない、アニメになった映画も2度と見たくないと言う人が多くいます。

でも昭和20年という79年前にあったことは一度は読んで欲しいと思います。

小説「少年H」も当時県立2中(現兵庫高校)に在学していてこの戦災を経験した「妹尾河童」が長年の葛藤の末、書き残す決心をして書いた小説です。この本も是非読んで欲しい本です。

一般市民の空襲の記録はこちらなどにあります。

米軍指揮官カーチス・E・ルメイ将軍の論理(別サイトから転載)

本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、

隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」

カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。

昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている。

時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。

         時の政府にカーチス・E・ルメイ将軍への叙勲を強く押したのは源田実参議院議員だと言われている。理由は彼がアメリカ政府から受けた勲章のお返しのためだと・・。

源田 実(1904年(明治37年)8月16日~1989年(平成元年)8月15日)は、元日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。広島県山県郡出身。従三位勲二等旭日重光章。

航空参謀。戦後は空将・航空幕僚長、参議院議員等を務める。

  別説

⇒Wikipediaから部分引用。
(昭和37年)8月17日発行の防衛庁訓令第51条「自衛官の階級章の略章に関する訓令」により
統合幕僚会議議長と陸海空各幕僚長は4つ星(又は金帯に線3本)の大将相当の階級章を付けるようになった。
源田実は同年、航空自衛隊の創設、日米安保への貢献で、ジョン・F・ケネディアメリカ大統領よりレジオン・オブ・メリット勲章(勲功章)を授与される。

叙勲は行政分野であり唯一の外部機関有識者会議にも源田は入っていない[274]。

叙勲はルメイ来日を契機とした防衛庁の判断に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている[275]。

*勲一等旭日大綬章は天皇陛下が直接本人に渡す勲章なのだが、天皇陛下がルメイ将軍に面接した記録はない。

神戸大空襲その2

以下は、神戸大空襲を記録した方が書いた記事の一部です。

「普通の日本人として」

私は、反米主義者ではありません。


国粋主義でも右翼でも左翼でもありません。

普通の日本人です。

母や兄が戦災死したことの恨みを言いたいわけでもありません。多くの人が、戦争のため、父を、母を、家族を失ったのです。

戦争末期、子供達は都会を離れ田舎へ疎開していきました。

疎開する縁故先のある子供は縁故先へ、縁故先の無い子供達は、学年単位で田舎のお寺へ集団で疎開しました。

やっと戦争が終わり、故郷の町へ帰ってみればそこは一面焼け野原。

我が家があったとおぼしき場所へたどり着いたものの、そこには、我が家はおろか、家族の姿が有りません。

仕方なく、その場に「ごろ寝」をして、家族の帰りを待ちます。

何時までたっても誰も帰ってきません。

父も、母も、兄も、姉も、みんな空襲で死んでしまった。

そんな悲しい出来事が町のあちこちで起こっていた時代でした。

大きな歴史の流れの中で、愚かな戦争が始まってしまい、その時、一般市民がどんなひどい目にあったか。

ただそれだけを今の若い方達にお伝えしたいのです。

二度と愚かな戦争をはじめないために。

そして安易な気持ちで海外派兵に同意する方が増えないために。

金は出しても人は出さないと他国から非難されることがあります。

いくら非難されようと卑下する必要はありません。

軍隊とは、最強の武器を使って、人を殺し、物を破壊するプロ集団です。

その集団を外国へ派遣して、一体誰を殺し、何を破壊しろというのか。

いかなる理由があろうと戦闘部隊を海外に派兵する必要はありません。

戦争の悲惨さを体験し、その反省に立って、専守防衛に徹する、反戦国家日本を誇りにして行こうではありませんか。

確かに、日本国憲法は日本国民が作ったものではありません。

しかし、日本の国を守ろうと命を捨てて戦った勇士達が、死に臨んで心から願ったことは、「俺は死んでもいい、しかし、

もう戦争は止めてくれ」という悲痛な一念だったかもしれません。

あの勇士達の悲痛な叫びが、憲法9条という、世界に類を見ない一条を、私達に残してくれたのかもしれません。

旧ユーゴスラビアやイスラエルの若者達は戦争の悲惨さを知っています。

そして、日本国憲法第9条を「希望の象徴」と位置付けます。

日本の若者達は戦争の悲惨さを体験していません。

☆この神戸大空襲の記録全文は
2006年03月17日(金)の阿智胡地亭の非日乗に掲載しました。 

神戸空襲・焼け跡・ヤミ市

神戸空襲・焼け跡・ヤミ市

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画像は「神戸大空襲」のHPから引用。
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アメリカ空軍からみた『神戸空襲の意味』

神戸は、日本で六番目の大都市、人口約100万人、日本の主要港である。造船所群は、船舶建造と船舶用エンジン製造能力の面で日本最大の集中地域。

神戸で、本州の西端からの山陽本線と大阪・東京への東海道本線とが連結している。

鉄鋼、鉄道車両、機械、ゴム、兵器などの基幹産業施設は、神戸の輸送活動と密接に関連して立地している。

神戸を通過する国道は、市中の密集区域を通過している。

攻撃目標として選定された地域は、1平方マイルあたりの人口密度が平均10万人以上、高度に密集した市の中心部である。

§「米軍資料による神戸大空襲」のHPはこちら

一部引用・・

 1995年1月17日、神戸をマグニチュード7.3の都市直下型地震が襲った。阪神・淡路大震災と名付けられた大災害に見まわれたのである。しかし、神戸はその50年前の1945年、マリアナ基地からのB29部隊による激烈な爆撃を受け、一面の焼け野原となった。1945年の戦災と1995年の震災、いずれも、神戸市民にとっては、神戸の街を壊滅させた歴史に残る大事件であった。

 震災復興の過程で、年配の市民は戦災と重ね合わせながら、「あの災害からも立ち直ったのだから」と想いをいだいたという。戦災とはどのようなものだったのか。神戸の市民にとって、一体どのような体験だったのか。

戦後60年余を経て、戦災体験を持つ世代はだんだん少なくなってきている。現在平穏に暮らす街には、その悲劇の記憶の面影はない。そこで、あの大空襲を考える手がかりを提供するのがこのホームページ作成の目的である。

 これまで市民は、受けた惨禍について、体験者の視点から戦災を語り継いできた。しかし、空襲をした側の資料は、市民は簡単にみることができない。そこで、大空襲の全体を明らかにする意味から、これに加え、今回アメリカ軍資料に基づき、神戸への爆撃の有様を把握できるようにした。

いつ、どこから、何機の攻撃機が、どのような爆弾を、どれ位の量、投下したのか。当時、被害をうけた神戸市民が、知り得なかった情報である。航跡図の記録からは、マリアナ基地(サイパン、グアム、テニアン島の基地の総称)から、日本本土までまっすぐに伸びたルートの途中に、硫黄島があり、その硫黄島の攻防の時期によって、ルートを変更した様子がうかがえる。

空海救助図に記されたルート途中の海軍艦艇や救援機の哨戒図は、出撃の度に、陸海両軍が協同して、爆撃機の遭難への備えをおこなっていることを示している。爆撃の結果は、想定された爆撃目標地域の被災面積であらわされている。

神戸大空襲の記憶 こちら(当時神戸三中の学生だった人の記録)


Wikipediaから引用。

神戸大空襲 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)末期にアメリカ軍が繰り返し行った、神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称である。特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。

概要  神戸とその周辺地域は1945年(昭和20年)1月3日から終戦までの約8ヶ月間に、大小合わせて128回の空襲を受け、特に3月17日および6月5日の市街地絨毯爆撃と、川西航空機甲南工場を標的とした5月11日の戦略爆撃によって大きな被害を受けた。

 被害状況に関する公式記録は存在せず、具体的な数字ははっきりしていないが、被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、少なくとも8841名の市民が犠牲となり、15万人といわれる負傷者、焼失家屋15万戸、のべ65万人もの人々が家屋に被害を受けたといわれている。これは人口および面積から換算した被害率としては、当時の五大都市の中でも最悪の数字であった。

☆小説「火垂の墓」を書いた鎌倉生まれの野坂昭如は、六月五日、神戸市灘区中郷町で焼夷弾爆撃を受けた。
焼夷弾の直撃を受けた養父の死体は四散してついに見つからなかった。こちら
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神戸大空襲

神戸とその周辺地域は昭和20年1月3日から終戦までの間に、128回の空襲を受けた。

中でも3月17日の空襲では約34,000発の焼夷弾が投下され、神戸市西部の約65,000棟が全半焼、

2,598人が犠牲になった。

また6月5日の空襲で計3,000トンの焼夷弾が投下され、神戸市域の死者は3,453人とされる。

被害状況に関する公式記録は存在せず具体的な数字は滑胃だが、神戸周辺都市部の21%が罹災、

延べ65万人が家屋に被害を受け、焼失家屋は15万戸、負傷者15万人、8,841名の市民が犠牲となっ

た。 人口及び面積から換算した被害率では、当時の五大都市の中で最悪の数字であった。

 

月日 機種 機数 弾種 トン数 第一目標
2月 4日 B29 69 焼夷弾、破砕弾 172.8 神戸市街地
3月17日 B29 307 焼夷弾、破砕弾 2328.1  
5月11日 B29 92 爆弾 459.5 川西航空機深江製作所
6月 5日 B29 474 焼夷弾、破砕弾 3079.1  
8月 6日 B29 250 焼夷弾、破砕弾 2003.9 阪神地域

引用元。