阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

人間はB29戦略爆撃機から地上にいる人間に焼夷弾を落とし、平然と民間人を焼き殺せる存在だ。 日本に焼夷弾爆撃をした米空軍の将兵たちの録音音声による証言。

2024年03月17日 | SNS・既存メディアからの引用記事

 

『日本大空襲 「実行犯の告白」 なぜ46万人は殺されたのか』

 

カーチスルメイの蛮行には「動機」があった。

新潮新書    鈴木冬悠人 著

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出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』
○ 3月10日の空襲は、市街地そのものを攻撃対象とした低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、
その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
○ 投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。日本が中国戦線で数年に渡って繰り広げてきた
重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。
当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。
○「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった
(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある)
強風が火勢を煽り、延焼を広げた。 調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、
ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った) これら複数の要因が重なり被害が拡大。
8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。
○このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。
通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。
そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。
○火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人や
、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も少なくなかった。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力をそぐ為、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。
なお、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。
3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。
(注:神戸の最初の大空襲は3月17日)

米軍指揮官の論理(別サイトから転載)

○本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、
隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」
○ カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。
昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。

○この勲章の授与に陰で貢献したのは航空自衛隊の源田実だと言われているが真偽のほどは不明だ。
⇒カーチス・ルメイへ勲章を推薦したのは、旧帝国海軍大佐で、真珠湾奇襲作戦を立案し、戦後は航空自衛隊の初代航空総隊司令や、
航空幕僚長を務めた事のある自民党の参議院議員「源田実」氏でした。
また「源田実」氏は自民党内の国防族のリーダーであり、当時の防衛庁長官「小泉純也」氏も、源田氏に同調してカーチス・ルメイへの勲章の授与に協力したと言われています。
「源田実」氏がカーチス・ルメイへ勲章の授与を推薦したのは、航空自衛隊の育成に多大な貢献をしてくれた事がその理由となっています。
しかし、実はその2年前に「源田実」氏は、アメリカから「勲功章」を授与されており、その返礼にカーチス・ルメイを推薦したとも言われています。
また、真珠湾奇襲作戦の立案者である「源田実」氏に、アメリカが勲章を授与したのは、アメリカは真珠湾攻撃について、
もはや過ぎ去った過去として終わりにするという意思表示であり、
日本がカーチス・ルメイに勲章を授与したのも東京大空襲について、終わりにするという意思表示であり、お互いにこの問題について決着をつけた
という事を示す為の授与だったとも言われています。

⇒Wikipediaから部分引用。
(昭和37年)8月17日発行の防衛庁訓令第51条「自衛官の階級章の略章に関する訓令」により
統合幕僚会議議長と陸海空各幕僚長は4つ星(又は金帯に線3本)の大将相当の階級章を付けるようになった。
源田実は同年、航空自衛隊の創設、日米安保への貢献で、ジョン・F・ケネディアメリカ大統領よりレジオン・オブ・メリット勲章(勲功章)を授与される。

叙勲は行政分野であり唯一の外部機関有識者会議にも源田は入っていない[274]。叙勲はルメイ来日を契機とした防衛庁の判断に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている[275]。

 

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