引用記事⇒「本当の復興 なお時間」 阪神大震災から20年
2015年01月17日 10時26分 佐賀新聞
阪神大震災で被災後、唐津市浜玉町山瀬の山あいに移り住んでうどん、そば店「狐狸庵」を営む溝部昭さん。↑震災で唯一無事だったうどんを練る機械は今も大切に使っている。
6434人が亡くなった阪神大震災から17日で20年。神戸市東灘区で被災し、営んでいた食堂が全壊した溝部昭さん(78)は、震災後に唐津市浜玉町の山あいに移り住み、うどん・そば店「狐狸庵(こりあん)」を開いている。当時の知人とのつながりを今も大切にしている溝部さんは、「本当の意味での復興にはまだ時間がかかる」と感じている。
溝部さんは知人の紹介で気に入り、震災前年の夏に人里離れた浜玉町山瀬地区への移住を決めていた。震災当日は、浜玉町を訪れる予定で早朝の電車に乗るため目覚まし時計を午前5時45分にセットしていた。ベルが鳴ったわずか1分後、「ドーンという音が来た」。
自宅は無事だったが、2キロほど離れた住宅街の食堂は完全に押しつぶされていた。取り出せたのは柱に守られたうどんの麺を練る機械だけだった。倒壊した建物から親類を救おうと鉄の扉を何度も蹴り上げて靱(じん)帯を傷め、右足は今も思うように曲げられない。それでも「僕なんかつらいうちには入らないと思う」。
妻の重子さん(68)とともに佐賀に移住するまでの1カ月半は、行き場がなくなった知人を自宅に泊めたり、家の近くで活動するボランティアに料理を振る舞ったりした。
1995年は「ボランティア元年」とも言われる。溝部さんも神戸から離れて初めて、被災地が全国の人の善意で支えられていたことに気づいた。「自分たちが助けられただけに、人も助けてあげたいという気持ちは強くなる」。佐賀でも数年間で延べ100人ほどの被災者を受け入れた。店名物のいなりずしに使う油揚げやソバのかつおだし、箸袋などは今も神戸の知り合いから取り寄せている。
4年前に起きた東日本大震災は「津波も原発もあって、神戸とは比較にならないほどひどい」。胸を痛めた。少しでも力になれればと店で福島の郷土料理を特別に振る舞い、売り上げを義援金にした。原発事故で家族や友人と離ればなれになり、何年もふるさとに帰れなくなった人のことを思うと、何事もなかったように再稼働へと向かう流れに違和感を感じている。
「もう20年。いろんなことを思い出すので、震災の事はなるべく考えないようにしてきた」と溝部さん。神戸の街の変化を見続けたわけではないが、当時の友人たちとの会話の中で一つだけ気がかりなことがあるという。「震災を引きずっている人はたくさんいる。表面上は復興したといわれるが、庶民の問題はそっちのけのような気もする」。
2015年01月17日 10時26分 佐賀新聞
阪神大震災で被災後、唐津市浜玉町山瀬の山あいに移り住んでうどん、そば店「狐狸庵」を営む溝部昭さん。↑震災で唯一無事だったうどんを練る機械は今も大切に使っている。
6434人が亡くなった阪神大震災から17日で20年。神戸市東灘区で被災し、営んでいた食堂が全壊した溝部昭さん(78)は、震災後に唐津市浜玉町の山あいに移り住み、うどん・そば店「狐狸庵(こりあん)」を開いている。当時の知人とのつながりを今も大切にしている溝部さんは、「本当の意味での復興にはまだ時間がかかる」と感じている。
溝部さんは知人の紹介で気に入り、震災前年の夏に人里離れた浜玉町山瀬地区への移住を決めていた。震災当日は、浜玉町を訪れる予定で早朝の電車に乗るため目覚まし時計を午前5時45分にセットしていた。ベルが鳴ったわずか1分後、「ドーンという音が来た」。
自宅は無事だったが、2キロほど離れた住宅街の食堂は完全に押しつぶされていた。取り出せたのは柱に守られたうどんの麺を練る機械だけだった。倒壊した建物から親類を救おうと鉄の扉を何度も蹴り上げて靱(じん)帯を傷め、右足は今も思うように曲げられない。それでも「僕なんかつらいうちには入らないと思う」。
妻の重子さん(68)とともに佐賀に移住するまでの1カ月半は、行き場がなくなった知人を自宅に泊めたり、家の近くで活動するボランティアに料理を振る舞ったりした。
1995年は「ボランティア元年」とも言われる。溝部さんも神戸から離れて初めて、被災地が全国の人の善意で支えられていたことに気づいた。「自分たちが助けられただけに、人も助けてあげたいという気持ちは強くなる」。佐賀でも数年間で延べ100人ほどの被災者を受け入れた。店名物のいなりずしに使う油揚げやソバのかつおだし、箸袋などは今も神戸の知り合いから取り寄せている。
4年前に起きた東日本大震災は「津波も原発もあって、神戸とは比較にならないほどひどい」。胸を痛めた。少しでも力になれればと店で福島の郷土料理を特別に振る舞い、売り上げを義援金にした。原発事故で家族や友人と離ればなれになり、何年もふるさとに帰れなくなった人のことを思うと、何事もなかったように再稼働へと向かう流れに違和感を感じている。
「もう20年。いろんなことを思い出すので、震災の事はなるべく考えないようにしてきた」と溝部さん。神戸の街の変化を見続けたわけではないが、当時の友人たちとの会話の中で一つだけ気がかりなことがあるという。「震災を引きずっている人はたくさんいる。表面上は復興したといわれるが、庶民の問題はそっちのけのような気もする」。