「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰か行って死ねとは、よう言わん」。
知事の発令を受けたときに親しい人に神戸弁で漏らした言葉。
「アホの勉強、忘れるなよ。人間アホになれたら一人前や」。
1945年1月31日沖縄へ赴任する島田さんが福岡の飛行場で曽我秘書に言った言葉。
「神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高校の一角に、「合掌の碑」と呼ばれる碑があります。この高校は戦前、兵庫県立第二神戸中学校、
通称神戸二中という学校で、この二中を卒業し、後の、旧沖縄県最後の沖縄県知事として赴任した島田叡知事を想い、建てられた碑だそうです。
このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った
1901年、神戸市須磨区で生まれて、二中経て旧制第三高校から東大法学部に進み、内務省官僚となりました。
1944年の終わり、日に日に戦況が悪くなり、沖縄に米軍上陸の可能性が大きくなってきた頃、出張名目で帰ってしまった泉守紀沖縄県知事の後任として、
1945年1月、第27第沖縄県知事に任命されました。当時、益々戦況が悪化しているのは明らかで、島田知事も、沖縄県知事を拒否しようと思えばできたそうですし、
周りの人々も知事を受ける事に反対したそうですが、「俺がいかねば、誰かが行かねばならぬ」と、その反対を押し切り、家族を残して赴任したそうです。
知事として赴任後は、食糧難の打開と、住民や学童の疎開など、沖縄県民の為に為に尽力し、また、第三十二軍の首里撤退の際も、住民の犠牲が大きくなる為、
撤退せず首里に留まるべきだと主張されたそうです。
1945年6月、糸満市伊敷にある轟の壕と呼ばれる壕にて、県庁の解散を命じた後、第三十二軍司令部に合流するため、県警幹部と共に摩文仁に向かったまま、消息不明となっています。
この「合掌の碑」は、遠く沖縄の方向を向いており、合掌をしているデザインとなっているそうです。」こちらから引用。
◎島田 叡(アキラ)の略歴。
1901年(明治34年)、神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。西須磨小学校、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、
第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法科へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、東大時代は野球部のスター選手として、
また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。以下彼の一生はこちら
昨日、神戸朝日ホールで午後5時から8時15分まで開催された「『沖縄の島守』を憶う夕べ」に参加しました。
主催者の勝 順一 実行委員会 委員長(全国高校選抜野球大会に出場した兵庫高校チームの主将でもあった)
勝さんとは2回ほど席を同じくさせてもらったことがあります。静かにして強靭な、本物のジエントルマン(Gentleman)です。
昨夜のアルバムです。写真は18枚あります。集まりが終わってから沖縄居酒屋で「ソーキそば」を食べたのは偶然ですが・・・。
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