長く工事をしていた新小岩の駅ビルが竣工してかなりたつのでどんなのが出来たのかを見に行ってみた。
新しいビルには「クイーンズ伊勢丹」や「成城石井」など が出店していて驚いた。街は少しずつ変わっていく。
駅の広場を渡ってすぐの「ルミエール商店街」は相変わらず 賑わっていて人の数も多い。
シャッターを閉じた店がないのが嬉しい。店の入れ替わりはあるようで阿智胡地亭が中学生時代を過ごした三重県四日市市の名物の「トンテキ」の店が出来ていた。
【四日市名物!】地元で愛される絶品トンテキ!
ベトナム軽食堂「バインミーゴンゴン」でベトナムビールとドラゴンフルーツジュースをそれぞれ飲みながら一休みした。
その後 中国のパンの店にはいって台湾で朝食に食べていた「油条」などいろいろ買った。
最後に春巻きを買って帰った。春巻きは注文してから揚げてくるのでしばらく待った。
半蔵門線の表参道駅のプラットホームからA5出口を経て地上に出るまでは遠く、いくつもの回り階段を横の手すりを掴みながらヨロヨロゆっくりユックリ登って行った。





1945年3月10日の米軍によるB29爆撃機・焼夷弾投下民間人殺戮の東京大空襲でこの旧中川に沢山の住民が火を逃れて飛び込み、うち2800余人が溺死した。
ジャーナリストの半藤一利さんはこのとき平井橋から旧中川に飛び込んだが、浮き上がったところを横の小舟に引き上げられて九死に一生を得た。
このとき半藤さんが溺死していたら「日本の一番長い日」などの歴史に残る多くの著作はなかった。
78年前、運命の夏 『文藝春秋が見た戦争と日本人』より ⇒こちら
231116旧中川の鴨の群れ をクリックすると動画がスタート。動画右下の拡大アイコンをクリックで全画面。
荒川と旧中川(江戸時代 行徳など下総の地から 塩や米が 江戸市中に中川と 中川に繋ぐ 家康の命で掘られた人工運河の小名木川を舟運で運ばれていた)
に挟まれたこの辺りはまさに中洲だ。
亀戸と小岩の中間にある当地には、戦前や戦後まもなくまで三業地(料亭、芸者置屋、待合)もあり 文豪永井荷風が訪れて歩いた道を
阿智胡地亭は図書館への往来で時に歩くことがある。
亀戸中央公園は高架の総武線が真ん中を走り、旧中川に接していて 江東区にある公園を出てふれあい橋を渡ると江戸川区になる。
川にかかる高架橋は総武線
231109薄暮の旧中川とふれあい橋
231109旧中川と秋の夜空
右の森が広大な亀戸中央公園、左が旧中川。橋は「ふれあい橋」
ふれあい橋上の京葉道路に向かった方向。 川の右は江東区、左は江戸川区。
某日の12時半から神田の北京料理の「東園」で 土佐堀会のOBの集まりがありました。4年ぶりの会合でした。
会は亡くなった畑中さん、亀田さん、森さんのお三方への献杯から始まりました。出席者は7名でした。
そのあと私は16時に間に合うように大崎に向かい、元の勤務先の東京地区OB会に初めて参加しました。OB会開催は6年ぶりで 150名ほどの参加者だったそうです。
会場はGate City Ohsakiの地下ホールでした。
会社には多様な事業分野があり見知らぬ人が大半で、私が所属したいくつかの部門で出席されていたのは市木さん唯一人でした。
市木さんとは2014年の11月にお会いしてから9年ぶりで 互いに固い握手を交わしました。
また席の近かった産機部門の知り合いでは田中昭さんと葛生さんのお二人と顔を合わせることが出来ました。
やはり6年の間にコロナ禍やインフルエンザもあるせいか お会いできるかなと期待していた顔なじみの出席者の方々は少数でした。
河川敷の一本ケヤキを十分眺めた後少し上流まで足を延ばした。
旧荒川放水路、現荒川は都心での隅田川の大氾濫を避けるため作られた大きな人工河川だ。
工事は明治44年に着工された。
荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なもので 工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼった。
また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。詳細⇒こちら。
231104荒川 大河の流れ
旧中川は家康が作らせた人工運河「小名木川」を経由して隅田川につながっている。下総・行徳の塩は中川と小名木川の船運で江戸市中に運ばれた。
そのせいで水の干満もあり汽水域でもある旧中川の中にエイやボラが住んでいる。