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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

添田唖蝉坊・ 元祖 シンガーソングライター             2006年03月20日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2022年03月05日 | 音楽・絵画・映画・文芸
添田唖蝉坊(あぜんぼう)
 

明治5年11月25日(1872年11月25日)
神奈川県大磯町生まれ。
昭和19年(1944年)2月8日没

「ああ金の世」-明治39年作詞・作曲・歌
 

ああ金の世や金の世や。地獄の沙汰も金次第。
   笑うも金よ、泣くも金。一も二も金、三も金。
親子の中を割くも金。夫婦の縁を切るも金。
   強欲非道と譏(そし)ろうが、我利我利亡者と譏ろうが、
痛くも痒くもあるものか、金になりさえすればよい。
   人の難儀や迷惑に、遠慮していちゃ身がたたぬ。

ああ金の世や金の世や。希望(ねがい)は聖(きよ)き労働の
   我に手足はありながら、見えぬくさりに繋がれて、
朝から晩まで絶間なく、こき使われて疲れ果て
   人生(ひと)の味よむ暇もない。これが自由の動物か。

ああ金の世や金の世や。牛馬に生れて来たならば、
   あたら頭を下げずとも、いらぬお世辞を言わずとも
済むであろうに、人間と 生れた因果の人力車夫(くるまひき)。
   やぶれ堤灯股にして、ふるいおののくいぢらしさ。

ああ金の世や金の世や。蝋色塗の自動車に
   乗るは妾か本妻か。何の因果ぞ機織りは、
日本に生れて支那の米。綾や錦は織り出せど、
   残らず彼等に奪われて、ボロを着るさえままならぬ。

ああ金の世や金の世や。毒煙燃ゆる工場の、
   危うき機械の下に立ち、命を賭けて働いて、
くやしや鬼に鞭うたれ、泣く泣く求むる糧の料(しろ)。
   顔蒼ざめて目はくぼみ、手は皆ただれ足腐り、
病むもなかなか休まれず。聞けよ人々、一ふしを。
   現代の工女が女なら、下女やお三はお姫さま。

ああ金の世や金の世や。物価は高くも月給は
   安い。弁当腰に下げ、ボロの洋服破れ靴。
気のない顔でポクポクと、お役所通いも苦しかろう。
   苦しかろうがつらかろうが、つとめにゃ妻子の(あご)が干る。

ああ金の世や金の世や。貧という字のあるかぎり、
   浜の真砂と五右衛門は、尽きても尽きぬ泥棒を
押さえる役目も貧ゆえと、思えばあわれ、雪の夜も、
   外套一重に身を包み、寒さに凍るサーベルの、
つかのま眠る時もなく、軒端の犬を友の身の、
   家には妻の独り寝る、煎餅布団も寒かろう。

ああ金の世や金の世や。牢獄(ろうや)の中のとがにんは、
   食うにも着るにも眠るにも、世話も苦労もない身体。
牛や豚さえ小屋がある。月に百両の手当をば、
   受ける犬さえあるものを。「サガッチャコワイ」よ神の子が、
掃溜などをかきまわし、橋の袂(たもと)や軒の下、
   石を枕に菰(こも)の夜具、餓えて凍えて行路病者(ゆきだおれ)。

ああ金の世や金の世や。この寒空にこの薄着。
   こらえきれない空腹も、なまじ命のあるからと、
思い切っては見たものの、年取る親や病める妻、
   餓えて泣く児にすがられて、死ぬにも死なれぬ切なさよ。

ああ金の世や金の世や。神に仏に手を合わせ、
   おみくじなんぞを当てにして、いつまで運の空頼み。
血の汗油を皆吸われ、頭はられてドヤサレて、
   これも不運と泣き寝入り、人のよいにも程がある。

ああ金の世や金の世や。憐れな民を救うべき、
   尊き教えの田にさえも、我儘勝手の水を引く。
これも何ゆえお金ゆえ、ああ浅ましき金の世や。
   長兵衛宗五郎どこにいる。大塩マルクスどこにいる。

ああ金の世や金の世や。互いに血眼皿眼(ちまなこさらまなこ)。
   食い合い奪(と)りあいむしり合い、敗けりゃ乞食か泥棒か、
のたれ死ぬか、土左衛門、鉄道往生、首くくり。
   死ぬより外に道はない。ああ金の世や金の世や。

他にもこちらに歌があります。

唖蝉坊の足跡はこちらにも、あります。


ことばの旅人 ア、ノンキだね 添田唖蝉坊  心くみとる路傍の演歌師  〔朝日新聞2005・1.29〕

これほどノンキに生きた、いや、ノンキをまとい続けた人はいないのではないか。

 「汽車賃と弁当代だけ持ち、旅に出て何日も帰って来ない。私服の刑事がいつもついてね。家族からは疎まれもしたけれど、自由気ままなおじさんが大好きでしたよ」。

添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)のめいで横浜市で飲食店を営む添田ひささん(90)は柔和な笑顔を浮かべた。

 唖蝉坊は明治から大正時代、主に街頭で歌った、今でいうストリートミュージシャンだ。明治5(1872)年、神奈川県大磯の農家の次男に生まれる。

横須賀で軍艦のサビ取りなどの日雇い仕事をしていた18歳の時、偶然聴いた壮士演歌が運命を変えた。

 日本が近代国家へと歩み始めた当時、民権論を唱える血気盛んな壮士は、藩閥政治に抗して演説会を開く。官憲がそれを弾圧する。

窮余の一策として歌い始めたのが演説の歌、つまり演歌だ。ざら紙に歌詞を印刷した歌本を1銭か2銭で売り、生活の糧にした。

メディアが発達していない時代、演歌師は「歌うジャーナリスト」でもあった。

<驚きは興奮に変わった……壮士節の奴めは、ずるずると私をひきずっていった>と、後の自伝で語る唖蝉坊、まもなく街頭でひとり、演歌を始める。

 72歳の生涯を終えるまで200近い曲を残したとされる。民衆の抵抗詩人は金権政治や日清・日ロの戦勝におごる世相を風刺し、その姿勢は異彩を放った。

ストライキ節、ラッパ節、マックロ節などの歌本が飛ぶように売れた。そして大正7(1918)年に一世を風靡(ふうび)したのがノンキ節だ。

♪膨張する膨張する国力が膨張する 資本家の横暴が膨張する

 おれの嬶(かか)ァのお腹(なか)が膨張する いよいよ貧乏が膨張する 

ア、ノンキだね

 この年、米騒動が起き、インフレで物価は高騰。デモクラシーが広がっていく。調子のいい民謡風の曲調が受け、ノンキだね、は流行語になったという。

 自身が作詞したノンキ節をLPに収めたフォーク歌手のなぎら健壱さん(52)は、「これは隠喩(いんゆ)ですから。ノンキでいられないと逆説的に言ってるんです。

官憲につかまっても、不条理から目をそらさず本音を歌った本物の人間です」。16歳で敗戦を迎えた音楽史研究家の小島美子さん(75)はこう評する。

「ノンキ節の歌魂は、戦争への道を開く空気を感じる現代にも通じる」  -  後  略  -

 

金々節

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川柳作家「三條東洋樹」展に寄りました。        10年前の今日 2012年2月18日の「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年02月18日 | 音楽・絵画・映画・文芸

神戸労災病院での循環器内科の定期診断の日だったので朝から出かけた。担当のT医師に診てもらったあと、
歩いて病院から10分ほどの「神戸文学館」に行った。神戸文学館に来ると、神戸と言う街は戦前からクリエーターの厚みがある
空間だなあといつも実感する。病院⇒神戸文学館⇒中華「同源」@阪神岩屋⇒散髪@阪神御影⇒阪神新在家⇒
食品スーパー「めぐみの郷」@桜口⇒クシカツ「まるたけ」@六甲道と移動した。万歩計は一万歩をはるかに越えていた。

下の写真アルバムは矢印をクリックするとスタートします。あるいは画面にマウスを置いて一枚づつ追ってください。

 

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茨木のり子の伝記「清冽」を読んでいます。                     2011年02月13日(日)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2022年02月13日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 

後藤 正治 (著) 「清冽―詩人茨木のり子の肖像」を読んでいます。 

 茨木のり子という詩人の詩集はいくつか持っていますが、茨木のり子の個人的なことは、これまで私は知りたいと思っても殆ど知ることが出来ませんでした。

ただ父親が長野市出身のお医者さんで、愛知県幡豆郡の吉良町で医院を開業し、彼女も吉良町で育ったことはネットでclick宮崎医院にヒットしたことで知りました。

(現在の医院のHPには現院長の伯母にあたる茨木のり子に触れたページはない)

しかし彼女の若くして亡くなった夫のことも母親のことも何も知りませんでした。

「清冽―詩人茨木のり子の肖像」はそれらのことをすべて足で取材し、関係者に直接会って、聞いたことを元に書かれた茨木のり子の伝記です。

後藤正治というこの本の作者に感謝したいです。知りたかったこと、知らなかったこと、「はたちは敗戦」だった日本人女性がどう生きてどう死んだか、

彼女の生きた道筋を、彼女の詩作を章立てに使いながら胸に染み入るように語ってくれています。

大正末年に生まれた茨木のり子はホンマもんの軍国少女でした。小説家の田辺聖子が筋金入りの軍国少女だったように。
 
戦争に負けたあと、薬剤師の学校を出た茨木のり子は、その後詩作をなりわいにして、昭和と平成の世を生き、2006年に79歳で亡くなりました。

 昨夜半分ほど読み、これから残りを読むのが楽しみです。本の後半には彼女が愛した山形県庄内出身の夫、三浦安信さんのことが詳しく記述されているようです。

(茨木のり子が12歳の時に結核で亡くなった彼女の母親も庄内出身だと言うことも今回はじめて知りました。)

書中の最初に引用されている詩は、茨木のり子73歳の作品である「倚りかからず」です。

倚りかからず

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない 

 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない

 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない

 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくない

 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい

 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある

 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さくら                                   

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
据えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を
ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

  

     

むかし女いじめっ子がいた

意地悪したり からかったり

髪ひっぱるやら  つねるやら

いいイッ! と白い歯を剥いた

その子の前では立往生

さすがの私も閉口頓首

やな子ねぇ と思っていたのだが

卒業のとき小さな紙片を渡された

ワタシハアナタガ好キダッタ

オ友達ニナリタカッタノ

たどたどしい字で書かれていて

そこで私は腰をぬかし いえ  ぬかさんばかりになって

好きなら好きとまっすぐに

ぶつけてくれればいいじゃない

遅かった  菊ちゃん!  もう手も足も出ない

小学校出てすぐあなたは置屋の下地っ子

以来  いい気味  いたぶり  いやがらせ

さまざまな目にあうたびに 心せよ

このひとはほんとは私のこと好きなんじゃないか

と思うようになったのだ

 

 

  わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた  

 

  自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難かしくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮しのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

NHK 2022年1月19日(水) 

茨木のり子“個”として美しく 発見された肉声 ☞こちら

 

 

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「寅さんの原点」        山田洋次監督          2006年03月01日(水) ブログ「阿智胡地亭の非日乗」 掲載

2022年02月07日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 

○園尾 監督の作品には,いつも民衆の思いやりのある目を感じます。特に,野心を持たないで小さな夢を持っている者を優しい目で見ておられるなと感じます。

これがどんなところから出てくるのか,お伺いできればと思います。

○山田 僕は中学2年のときに満州から引き揚げてきまして,親戚を頼って,山口県の田舎で戦後の大混乱の時代を過ごしました。おやじの仕事もないし,食べる物もない。

そんな時代に,引揚者というのは,殊さらまた貧乏なんですね。一種の難民みたいなものですからね。

敗戦までは,満州は日本の植民地ですから,日本人は割にいい暮らしをしていたんです。

それが突然,本当に最下層のレベルのようなつらい生活を強いられて,中学生でもアルバイトをしながら学校に行っていたんです

そのときの体験が僕にとって貴重だったような気がしますね。自分がつらいときは,ちょっとした親切とか,優しい言葉をかけてくれたことがものすごくうれしい。

 中学3年のときだったかな,海岸の町でしたから,ちくわとかかまぼこを仕入れて,いろいろな店に卸して歩くんですが,あるときどうしても売れないんですね。

これがみんな腐っちゃったらどうしようもないので,駅の近くにある草競馬の競馬場に行ったら,屋台がバーッと並んでいます。

そこで「ちくわは要りませんか?」と言ったら,一人のおばさんが「あんた,中学生かい?」と言うんですよ。

「はい,そうです。」「こんなことしなきゃ食べていけないの?」と言うから,「僕は引揚者で,おやじが仕事ないものですから・・・。」と言ったら,

「みんな置いていきなさい。あんたね,これからもし売れ残ったら,いつでもおばさんが引き取ってあげるから。」。

そう言われたとき,僕は何か涙がぽろぽろ出てね,うれしくて。

もう昔のことだからそんなに覚えていないのですが,何かそのおばさんがとても美しい人に見えて。多分,実際はそうじゃないと思いますよ(笑)。

だけど,色の白いきれいなおばさんだったなというふうに・・・。

その後,余り甘えちゃいけないと思って,そんなに何度も行きませんでしたけれども,行くと,「ああ,来たかい。さあ,みんな置いていきなさい。」なんて。

そういうおばさんの言葉というのは,生きることに絶望した少年に生きる勇気を与えるぐらい,一人の少年の生命を救うぐらいの力があると思います。

○園尾 そのお話を伺うと,監督がおつくりになった映画のことがとてもよく分かります。

○山田 寅さんという人もそうだと思うんです。本当に絶望している人には,「君は間違っているんだ。」というようなことは絶対に通用するわけがないし,

あるいは「こうしなさい。」というのも通用しない。まずは一緒に泣いてやるというか,「ああ,つらいね。聞いてるとおれも涙が出ちゃったよ。」と言って。

それがまず一番つらい人を助けることだろうと思うんです。その次には,おもしろいことを言って笑わせる。

ついさっきまで泣いていた人がくすくす笑っちゃう。寅さんができるのはそこまでですよね。さらに仕事をあっせんするとか,

こういうふうに考えたらどうだとか,そういう難しいことはできないんです。頭が悪いから。だけど,あの頭の悪い寅さんでも,

一緒に泣いてやって,おもしろい顔をして見せたり,ばかなことを言って笑わせたりすることはできるわけですよね。

それが寅さんという人間のこの世における存在理由だと思っています。

         山田洋次監督のある対談から引用。

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シドニー・ポワチエさん死去 黒人初のアカデミー男優賞     共同通信 。 東京新聞「筆洗」から。

2022年01月08日 | 音楽・絵画・映画・文芸

2022年1月8日 01時41分 (共同通信)

 【ニューヨーク共同】映画「野のユリ」で黒人として初めてアカデミー主演男優賞を受賞、「夜の大捜査線」などでも知られる米俳優のシドニー・ポワチエさんが死去した。
94歳だった。米英メディアが7日伝えた。国籍を持つ大西洋の島国バハマの当局者によると、6日に死去した。
 米フロリダ州マイアミ生まれ。1945年に端役で映画デビューし、55年の「暴力教室」の生徒役で評価され、
教会建設に打ち込む黒人青年を演じた「野のユリ」(63年)でアカデミー賞を受賞した。
 映画界で黒人の道を切り開いた功績でアカデミー賞の名誉賞を受賞。プロデューサーや監督としても活躍した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シドニー・ポワチエさんは自分の中で今も印象に残る、真っすぐな球を投げるピッチャーのような俳優だった。
 
から一部引用。
 
南部という土地柄を感じた

あのじとっとした空気の中で北部のニューヨークと違って、何となく去勢されたような黒人が遠慮がちに町を歩いていました。

本屋でもプレイボーイなどの雑誌が置いてある一角にはロープが張ってあり黒人は入れないようにしてありました。

白人女性のヌード写真は彼らには見せないということだったのでしょう。

先日テレビの深夜放送で、シドニーポワチエが主演した「夜の熱気の中で」という映画を20数年ぶりに懐かしく見ました。

南部の町に別件捜査に来たNYの黒人刑事が殺人事件に巻き込まれ、偏見の目の中で地元の署長にも反発されながら、

事件を解決して去っていくという流れ者ヒーロー西部劇を当時の南部に置き換えた映画です。つい終わりまで見てしまいながら、

南部と北部での黒人系の人達の意識の差や白人系住民の彼らの扱いの差を、通り過ぎのよそ者ながら感じたことを、あのニューオリンズの出張の記憶と共に思い出しました。

 頭では、差別はよくないと思っていても、夜 ニューヨークで(当時  ニューヨークの今は崩壊してなくなったOneワールドトレードセンタービルに

会社のニューヨーク支店があり、アメリカ出張の時には必ず寄っていた)一人で飯を食いに行きホテルまで帰る道すがら、

ビルの間で目だけが白く光って見える黒人にじっと見られた時の気味の悪さは、理屈ではなく体がすくみました。

アメリカという国は日本と違って大変な幅の人間を含んで成り立っているんだなと、その大変さをつくづく思います。

 
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詩  「子どもについて」  ハリール・ジブラーン(カリール・ジブラン)の本「預言者」から引用

2021年12月20日 | 音楽・絵画・映画・文芸

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った。
どうぞ子どもたちの話をしてください。
それで彼は言った。

あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない。
彼らはいのちそのものの
あこがれの息子や娘である。

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない、
彼らはあなたがたと共にあるけれども
あなたがたの所有物ではない。

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、
あなたがたの考えを与えることはできない、
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない、
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
なぜなら命はうしろへ退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。

あなたがたは弓のようなもの、
その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて、前へ放たれる。
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。

射る者の手によって
身をしなわせられるのをよろこびなさい。
射る者はとび行く矢を愛するののと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから。


『ハリール・ジブラーンの詩』
    神谷美恵子・訳(角川文庫)より 引用

 
 ※カリール・ジブランはハリール・ジブラーンの英語読み

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西脇基金応援団プレゼンツ「鈴木直樹ジャズ+ストリングスオーケストラ」の演奏会 2022年1月17日 @杉並公会堂

2021年12月16日 | 音楽・絵画・映画・文芸

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いつも何度でも / 木村 弓(2002 OA)/ 上白石萌音×木村弓 / フランスの歌手 ポム   映画「千と千尋の神隠し」主題歌

2021年12月13日 | 音楽・絵画・映画・文芸

いつも何度でも / 木村 弓(2002 OA)

『いつも何度でも』上白石萌音×木村弓

Pomme interprète, en japonais, "Itsumo Nando Demo" extrait de la BO du Voyage de Chihiro.

🎶

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その1  作者 サトウサンペイさんが7月31日に91歳で亡くなられた。追悼 再掲載

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 

「フジ三太郎」は 一億総中流と言われた あの時代にも 日本人のわたしたち大衆層の中にある 諧謔、男女差別感、嫉み、優しさ、怒りなどを“軽やかに都会感覚で”見せて

時々ドキッとさせながら 哄笑させてくれた。作家サトウサンペイさんのやわらかい笑顔の下には鋭く剛い感性と風刺の眼があった。

 サトウサンペイさんのインタビュー記事

   1991年9月30日に連載終了。三太郎が最初に登場したのは1965年4月1日の朝日新聞夕刊。封書、国鉄の初乗り運賃がともに10円という時代だった。

1979年1月からは「サザエさん」が終わって空いた朝日新聞朝刊に引っ越した。

26年6ヶ月、8,168回と記録的な長期連載になった。

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その2

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

平成2年5月17日平成3年3月17日

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その3  ©サトウサンペイ

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

昭和59年5月19日昭和60年5月20日

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その4  ©サトウサンペイ

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

昭和60年5月21日昭和60年5月22日

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その5  ©サトウサンペイ

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

昭和52年5月23日昭和60年5月24日

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その6 ©サトウサンペイ

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

昭和52年6月2日昭和56年5月31日

昭和60年6月8日平成2年6月1日

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漫画「フジ三太郎」は懐かしい!   その7 ©サトウサンペイ

2021年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

昭和57年12月4日©サトウサンペイ 、 平成元年11月29日©サトウサンペイ
 

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