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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

鎌倉・極楽寺の舎利弗 木造 立像   1268年に制作された

2021年02月21日 | ゲストルーム

雑誌「かまくら春秋」2月号から引用。今日から750年ほど前にこの彫刻のモデルになった人間がいまもここにいるような気がした。

ホモサピエンスのこれまでの長い歴史から言えば、シャカムニが生きておられた2500年前も今も人間の顔かたちや感情や思念に変わりはないのだろう。

自分が現生人類・ホモサピエンスである限り、この仏像のモデルになった人と同じく自分は“生老病死”と共に在る。

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国民の税金が原資の「官房機密費」86億8千万円を菅さんは公助で使ってきた!   国民には自助を押し付けて自分は公助にどっぷりと浸かって来た?

2021年01月30日 | ゲストルーム

「総裁選の間に官房機密費から4820万円が使われていた。総裁選に使ったのではないか。国民には自助を押し付けて自分は公助にどっぷりと浸かって来た」

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国東半島の平川農園さんから頂いた下仁田ネギを使った丼と大分のお菓子

2021年01月22日 | ゲストルーム

去年の終わり頃に平川農園さんから立派なムラサキ山芋や下仁田ネギなどを頂いた。太くて芳醇な下仁田ネギをたっぷりと使った肉丼はうまかった。

宅急便の中には「ドン・フランシスコ キリシタン大名 大友宗麟」という初めて食べるお菓子も同梱されていた。みんなでおいしく頂きました。

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野口聡一宇宙飛行士の 宇宙からのYoutube便り 第一号   Real Life on ISS 001    東京新聞 12月5日付夕刊

2020年12月06日 | ゲストルーム

Real Life on ISS 001

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都電荒川線の「早稲田駅」で降りて神田川桜並木を通って「肥後細川庭園」へ。     新・都電荒川線シリーズその3

2020年10月04日 | ゲストルーム

少年が目指した目的地は「江戸川公園の大滑り台」というので、都電の早稲田駅から歩きだして2分ほどの所にある神田川の遊歩道を歩き出した。

あれっ、ここ歩いたことがあるとすぐに思った。しばらく歩くと 昨年の11月に永青文庫を訪ねた時に見て回った隣の「肥後細川庭園」&こちら←click の南門が現れた。

少年が庭園に入りたいという。聞くと日本庭園は大好きと言う。へーっと思いながら中に入った。中へは無料で入れる。

永青文庫はさすがにパスするというので入り口までの小山を登ってから降りた。

今年の春に亡くなられた森哲雄さんが田中さんと一緒に座って一休みしたベンチがあってしばし瞑目した。

 ほぼ一年後にこの場にまた来ることになるとは思ってもいなかった。

ししおどし(鹿威し)の前で少年はかなり長い間佇んで、何回も何回も水が満ちると出るカーンという竹筒と岩が当たって出す音色を楽しんで動かなかった。

花嫁と花婿の衣装を着けた二人がブライダルアルバムのための?撮影に来ていた。

珍しく蒲の穂を見た。つい「大黒さまの いうとおりきれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまればうさぎはもとの 白うさぎ」と因幡の白兎の童謡を思い出して口から出たが

正確には歌えなかった(笑)。

都民の日で休日の中学生のグループが弁当を開いていた。

つづく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

1003  自己流エクササイズ フルセット完

1 片足立ち一分  右足左足それぞれ5回   合計10分の片足立ち 

 

2 スクワット 20秒×5

3 腕立て伏せ   15回  

4 膝を曲げずに5本の手の指を平らに床につける 一回20秒を前屈5回  手を挙げて後屈一回20秒を5回

5 少し足を広げ身体を左右横へ思い切り傾転 左右それぞれ20秒 5回づつ

6 四股ストレッチ 30秒×3

    所要時間  35分 

 

 

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ウズベクの昼の月   Tさんのウズベキスタン旅行記から       2008年の今日   7月23日に掲載

2020年07月23日 | ゲストルーム

(トップの画像はグリ・アミールの大天蓋と残月)
丸亀市にお住まいのTさんが昨年10月、関西空港からウズベキスタン航空を利用し、ウズベキスタンはタシケント空港にご夫婦で直航されました。

昭和39年ごろのある日「世界中で最も訪ねてみたいところはどこか」を、新婚のお二人で話し合った事があったそうです。

当時はまだ海外旅行などは「夢のまた夢」の時代です。お二人の希望地がたまたま一致しました。それが当時はソ連圏にあったサマルカンドやタシケント、

つまり現在のウズベキスタンだったそうです。
 
それから何十年も経って、体力などを考えるとそろそろ行かなければと焦りを感じ始めたある日、ウズベキスタンのグループツアー(9泊10日)が目に留まり、

ほぼ1400キロメートルを走る強行軍の旅であることが少し気になったそうですが、迷う暇もなく、あっという間にこれに参加することにされました。
 ヒバの城壁。

明け行くヒバ。

ブハラのカラーン・モスク遠望。

カラーン・モスクで声を上げて祈る学生。

遺骸から復元されたウルグ・ベクの顔。

家路に急ぐ人々(タジキスタンの道路)

ウズベキスタンは奥さんにとっては、アムダリア(アム河)とシルダリア(シル河)の流れる大地、そして東西交易と南北交易の交わる地点であり、

ご主人には、わずかの期間に大帝国を築いたティムールと、その孫で天文学に秀で、実の息子に殺されたウルグ・ベクが支配した地域でした。
 奥さんは高校時代の人文地理の時間にこれらの地名を耳にし、いっぽう、ご主人は高校時代の世界史の時間にこれらの地名を耳にした、その土地がウズベキスタンでした。
♪このシャープな一連の画像が、常にウエットな空気が流れる日本と言う國の風土との違いを、視覚で瞬時に知覚させてくれます。

青いタイルの大天蓋に昼の白い月、家路にいそぐ人々など全写真に唸りました。灼熱に空気そのものが炎上しているような気配を感じます。

常に水分を含む空気がある日本の自然との異質さを切り取りながらも、やはりここにも太古から人間が住むんだと。東西の文明の灼熱の十字路の地!! 地球は広いですね。

ウズベキスタンの参考情報はこちら

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1945年(昭和20年)6月23日、最後の沖縄県知事、神戸人の島田叡も沖縄県人と運命を共にして散った。

2020年06月24日 | ゲストルーム
いまから75年前の6月23日、沖縄に上陸してきたアメリカ軍に対する日本軍の組織的戦闘が壊滅しました。

 ◎ 以下は2012年7月9日のエントリーの再掲載です。

「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰か行って死ねとは、よう言わん」。
 知事の発令を受けたときに親しい人に島田叡さんが神戸弁で漏らした言葉。

「アホの勉強、忘れるなよ。人間アホになれたら一人前や」。
1945年1月31日沖縄へ赴任する島田さんが福岡の飛行場で曽我秘書に言った言葉。



「神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高校の一角に、「合掌の碑」と呼ばれる碑があります。この高校は戦前、兵庫県立第二神戸中学校、通称神戸二中という学校で、この二中を卒業し、後の、旧沖縄県最後の沖縄県知事として赴任した島田叡知事を想い、建てられた碑だそうです。

このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った

1901年、神戸市須磨区で生まれて、二中経て旧制第三高校から東大法学部に進み、内務省官僚となりました。
1944年の終わり、日に日に戦況が悪くなり、沖縄に米軍上陸の可能性が大きくなってきた頃、出張名目で帰ってしまった泉守紀沖縄県知事の後任として、1945年1月、第27第沖縄県知事に任命されました。当時、益々戦況が悪化しているのは明らかで、島田知事も、沖縄県知事を拒否しようと思えばできたそうですし、周りの人々も知事を受ける事に反対したそうですが、「俺がいかねば、誰かが行かねばならぬ」と、その反対を押し切り、家族を残して赴任したそうです。
知事として赴任後は、食糧難の打開と、住民や学童の疎開など、沖縄県民の為に為に尽力し、また、第三十二軍の首里撤退の際も、住民の犠牲が大きくなる為、撤退せず首里に留まるべきだと主張されたそうです。
1945年6月、糸満市伊敷にある轟の壕と呼ばれる壕にて、県庁の解散を命じた後、第三十二軍司令部に合流するため、県警幹部と共に摩文仁に向かったまま、消息不明となっています。
 この「合掌の碑」は、遠く沖縄の方向を向いており、合掌をしているデザインとなっているそうです。」こちらから引用。

◎島田 叡(アキラ)の略歴。
 1901年(明治34年)、神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。西須磨小学校、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法科へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、東大時代は野球部のスター選手として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。以下彼の一生はこちら

昨日、神戸朝日ホールで午後5時から8時15分まで開催された「『沖縄の島守』を憶う夕べ」に参加しました。
主催者の勝 順一 実行委員会 委員長(全国高校選抜野球大会に出場した兵庫高校チームの主将でもあった)

 勝さんとは2回ほど席を同じくさせてもらったことがあります。静かにして強靭な、本物のジエントルマン(Gentleman)です。

昨夜のアルバムです。写真は18枚あります。集まりが終わってから沖縄居酒屋で「ソーキそば」を食べたのは偶然ですが・・・。
▽をクリックするとスタートします。

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大阪中津のNomoto ファームの屋上菜園

2020年06月09日 | ゲストルーム
一部引用・・・6月8日 昨日今日と朝から可なり暑い。屋上も苗が育ち始めようやく菜園らしくなってきました。画像クリックで本文に飛びます。
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『人類学とは何か』分けられない人間性に取組む学問として - HONZ

2020年05月30日 | ゲストルーム
一部引用・・・民族誌を書くために情報を集める方法が参与観察である。そう信じられていた人類学の常識を疑う。参与観察は民族誌を書くために人々についてデータを収集することではなく(何かを論証するための証拠を集めるのではなく)、人々と生活しながら共に学ぶこと、それが参与観察であると主張する。師は調査対象の人々、弟子は人類学者、徒弟制度に似た間柄になり、生活に没入する。弟子が師匠と生活を共にし、一つ一つの行動や言葉を真剣に受け取り学んでいくように、フィールドの人々と共に学ぶのである。
「他者を真剣に受け取ること」を人類学の第一の原則にすえ、ここから人類学がどのように未来を切り拓いていけるのか、人類学はどうあるべきなのか、その論を開いていく。フィールドでの経験や思索の断片が散りばめられ、話は大きく広がっていくいっぽうである。そのため、読中感は正直なところよくない。凸凹道でハンドルを左右に豪快に振り回す車の助手席に座って車酔いするような感じだ。しかし、読後感は素晴らしい。30ページにもわたる解説が充実しているからだ。散らばっていた知識を咀嚼し言葉を変えて流れを整え、5つの章をコンパクトに解説する。こちらは舗装された道路での安全運転である。画像クリックで本文に飛びます。

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ありがたいことに日本はコロナ禍の死亡者や感染者が欧米に比べてなぜ極度に少ないか?  児玉龍彦教授の研究データからの仮説

2020年05月20日 | ゲストルーム
一部引用・・・
●もともと東アジアではたくさんの似たコロナがあった
●東アジア沿岸域はいつもそいつらに罹患していた免疫があった
●もしかしたら内陸の武漢はあまり免疫がなかった
としてSARS-X説を唱えられました。
この理由については別にHLAでもBCGでもSARS-Xでもよいのですが、私にとっての最大の収穫は、東京大学先端科学技術研究センターという
権威あるところのウイルス研究の専門家である児玉先生がはっきりと、東アジアは新型コロナにたいして免疫があるとしか考えられないと・・・・・

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絹さや、スナップエンドウと小さい極早生タマネギが大分県国東半島の「平川農園」から届いた。

2020年05月07日 | ゲストルーム

菜園で採れた無農薬野菜を送って頂いた。近くに住む一家にもおすそ分けだ。

お礼メールを送信した。

「19時頃瑞々しく色彩鮮やかな野菜がきちんと格納されて届きました。

近くに住む家族にも早速おすそ分けします。

 いつも これが本来の野菜だ!(笑) という野菜を
送って頂き感謝に堪えません。

極早生タマネギは初めて知りました。次々新しい種類が
栽培されているんですね。

  ありがとうございました。奥様にもよろしくお伝えください」

 平川さんとはお互い1995年1月の阪神淡路大震災を大阪支社時代に体験した仲だ。
事業部は違ったがお互いの本部が東京にあるせいか大阪支社で席がはしっこの隣同士になり、いつしか終業のあと隣のビルの地下にある「小ぼけ」で飲むようになった。

呑み助ということで知り合ったが、彼も私も久富さんという方をリスペクトしていたのも共通点だった。
あれから30年近く経っているし、1997年に阿智胡地亭が広島に転勤になったので大阪で飲むのはその時点で終わったが・・

お互い定年になってからも4,5年おきに会ってきて、先日は有楽町でも飲んだのは楽しかった。

   

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日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識 統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが | コロナショックの大波紋 - 東洋経済オンライン

2020年04月29日 | ゲストルーム
一部引用・・・お上の要請に従う者と従わない者
それが現在の「緊急事態宣言」の状況下におかれても国民への「要請」を立て前とするのは、この統治客体意識、すなわち「お上」意識によって立つところにある。お上のいうことは絶対であるという無意識のうえに、行政側が、「お上」のいうことだから聞いてくれるよね、とする「要請」の正体。
実際に真面目な日本人はそれに従う。むしろ、そのほうが多いことは現状を見ての通りだ。
だが、それに従わない者も出てくる。新型インフルエンザ等対策特別措置法では、「協力要請」からはじまって、「要請」「指示」へと自治体は厳しくしていくことができる。最初の段階で営業自粛に従わない場合には、「お上」は店名を公表するなどして、ギリギリと締め上げていく。
統治客体意識の訣別を目指した20年前の構造改革とはなんだったのか。そう疑問になるような、国民の「お上」意識に依存して、この難局を乗り切ろうとしている。
だが、それもいずれは「指示」に変わってしまう。罰則はないとはいえ、それに代わる合法的措置も検討されるはずだ。「お上」の仕返しが待つとすれば、その効果はてきめんだ。それでも、あくまで法的には「要請」なのだ。その真意は国民が察しなければならない。
しかも「要請」であり「自粛」であるとすると、国がその損失分を補償する必要もない。東京都は営業自粛に応じた事業者に協力金を支給することをいち早く表明し、他の自治体もこれにならう方向だが、この「緊急事態宣言」が長引けば、それでいつまでも耐えられない。
もっとも、事後チェック型の社会であれば、あとで補償を求めて国や自治体などを提訴すればよい。その為に構造改革があったはずだ。
すでに訴訟社会のアメリカでは、ミズーリ州が新型コロナウイルスを蔓延させた元凶として、中国政府に対し、賠償を求める訴えを起こしている。
一方で、裁判沙汰を嫌い「お上」に楯突くことを嫌う日本人に、「お上」を訴えることができるだろうか。できないのなら、そこは真面目に「要請」に従うしかない。

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世界60数ヵ国を取材したフォトグラファー「長倉洋海」さんの新刊「女(ひと)美しく・・わが旅の途上で」のご紹介

2020年04月12日 | ゲストルーム






◎長倉さんという写真家は「うつくしい」ということをずっと追いかけてきた人だと思う。

彼の「うつくしさ」は人間の持つ「うつくしさ」を教えてくれる。


古い時代から十一面観音像が作られて、当時から人には11の顔があると知られていた。

一度滋賀県長浜市高月町を訪ねたとき、11面観音の全てのお顔をぐるっと360度まわって拝観させてもらった。


邪悪、嫉妬、憎悪などの表情を持つ顔のその中に「うつくしい」顔があった。それは真正面に位置していた。

当時の人は毎日このお顔と対峙していたんだと思った。
  
  人はうつくしくあるものだと長倉さんは言っている。


2017年4月15日掲載:

 

 
1952年、北海道釧路市生まれ。京都での大学生時代は探検部に所属し、手製筏による日本海漂流やアフガン遊牧民接触などの探検行をする。1980年、勤めていた通信社を辞め、フリーの写真家となる。以降、世界の紛争地を精力的に取材する。中でも,アフガニスタン抵抗運動の指導者マスードやエルサルバドルの難民キャンプの少女へスースを長いスパンで撮影し続ける。戦争の表層よりも、そこに生きる人間そのものを捉えようとするカメラアイは写真集「マスード 愛しの大地アフガン」「獅子よ瞑れ」や「サルバドル 救世主の国」「ヘスースとフランシスコ エルサルバドル内戦を生き抜いて」などに結実し、第12回土門拳賞、日本写真協会年度賞、講談社出版文化賞などを受賞した。

2004年、テレビ放映された「課外授業・ようこそ先輩『世界に広がれ、笑顔の力』」がカナダ・バンフのテレビ祭で青少年・ファミリー部門の最優秀賞「ロッキー賞」を受賞。2006年には、フランス・ペルピニャンの国際フォトジャーナリズム祭に招かれ、写真展「マスード敗れざる魂」を開催、大きな反響を呼んだ。


 


FUJIFIlMのホームページ「the Photographer 2005 写真を語る」にて詳細なプロフィールが紹介されています。

 

今年の長倉さんのアフガニスタン訪問報告⇒こちら。


 個展会場の一場面





 漫画家の西原理恵子さんとのトーク。

プロフィル:
1952年、北海道釧路市生まれ。京都での大学生時代は探検部に所属し、手製筏による日本海漂流やアフガン遊牧民接触などの探検行をする。
1980年、勤めていた通信社を辞め、フリーの写真家となる。以降、世界の紛争地を精力的に取材する。
中でも,アフガニスタン抵抗運動の指導者マスードやエルサルバドルの難民キャンプの少女へスースを長いスパンで撮影し続ける。
戦争の表層よりも、そこに生きる人間そのものを捉えようとするカメラアイは写真集「マスード 愛しの大地アフガン」「獅子よ瞑れ」や
「サルバドル 救世主の国」「ヘスースとフランシスコ エルサルバドル内戦を生き抜いて」などに結実し、
第12回土門拳賞、日本写真協会年度賞、講談社出版文化賞などを受賞した。
2004年、テレビ放映された「課外授業・ようこそ先輩『世界に広がれ、笑顔の力』」がカナダ・バンフのテレビ祭で青少年・ファミリー部門の最優秀賞「ロッキー賞」を受賞。
2006年には、フランス・ペルピニャンの国際フォトジャーナリズム祭に招かれ、写真展「マスード敗れざる魂」を開催、大きな反響を呼んだ。


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【訂正】新コロナウイルスの「感染防御マニュアル」

2020年04月11日 | ゲストルーム

上記のアナウンスがありましたので「慶応義塾大学病院のサイト」表示を上のように掲載しました。4月13日記

 ちなみにアナウンスの対象となったマニュアルの内容は次の通りです。4月19日記

⇒ 注意事項

ウイルスが出てくるのは咳とか唾とか呼気

でも普通の呼気ではうつりません

これまでのほとんどの感染は

①感染者から咳やクシャミで散った飛沫を直接吸い込む

②飛沫が目に入る

③手指についたウイルスを食事と一緒に嚥下してしまう

という3つの経路で起こっています

 

感染にはウイルス粒子数として100万個ほど必要です

1回のくしゃみや咳や大声の会話で約200万個が飛び散ると考えられています

つまり感染者がマスクをしているとかなり防ぐことができます

 

なるべく鼻で息を吸いましょう

口呼吸で思い切りウイルスを肺の奥に吸い込むのはダメです

 

外出中は手で目を触らない 鼻を手でさわらない(鼻くそをほじるのはNG) 唇触るのもだめ 口に入れるのは論外

意外と難しいが 気にしていれば大丈夫です

 

人と集まって話をする時は マスク着用

食事は対面で食べない 話さない

食事に集中しましょう

会話は食事後にマスクして

家に帰ったら 即刻手を洗う

アルコールあるなら 玄関ですぐに吹きかけて ドアノブを拭きましょう

 

咽頭からウイルスがなくなっても 便からはかなり長期間ウイルスが排出されるという報告があります

ノロウイルスの防御法と同じように対処を忘れずに

 

感染防御のルールを再度整理します。

①マスクと眼鏡の着用

②手指の洗浄と消毒

③会食は対面ではせず 1人で食事を短時間で済ませる

④外から帰宅時は先にシャワーを浴びてから食事

陽性患者さんの多くは 手指から口に入るか 食事の時に飛沫感染しているようです

以上を守って元気でいましょう。

 

 

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ベニヤマイモ 正式名ダイジョ(大薯)の粘りの強さと密度の高さと旨さに今回も「土」のパワーを感じた。

2020年01月06日 | ゲストルーム

昨年も大分県国東半島の平川農園さんから収穫物を送って頂いた。農園主とは大阪支社勤務時代の飲み仲間だった。

お互いがそれぞれ属していたのが関東系の事業部という共通点があり、かつ支社での部門の席がフロアーのはしっこで隣同士だった。

呑み助ということで知り合ったが彼も私も久富さんという方をリスペクトしていたのも共通点だった。

今年送って頂いたダイジョ(大薯)は毎年頂くものに比べても格段に大きく厚みがあって立派な代物だった。

いつも食べる時は、きっと丸木船に乗った南方の海洋民族が、黒潮に乗って東海の島を目指した時に貴重な保存食として船に乗せていたものだろうと頭に浮かぶ。

まだまだ何回か食べられるので楽しみだ。平川農園主さんいつもありがとうございます。やはり旨いです!!

 

参考:

ダイジョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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ダイジョ
Dioscorea alata.jpg
ダイジョの
分類
: 植物界 Plantae
階級なし : 被子植物 angiosperms
階級なし : 単子葉植物 monocots
: ヤマノイモ目 Dioscoreales
: ヤマノイモ科 Dioscoreaceae
: ヤマノイモ属 Dioscorea
: ダイジョ D. alata
学名
Dioscorea alata L.
和名
ダイジョ、ダイショた 他
英名
Ube, Purple Yam, Water Yam, Violet Yam, Greater Yam
 
ダイジョのケーキ

ダイジョ大薯ダイショ)は、ヤムイモヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属の食用種)の1芋類学名 Dioscorea alataシンショ(参薯)、デンショ(田薯)、コウシャイモ(拳薯)、オキナワヤマイモ(沖縄山芋)、タイワンヤマイモ(台湾山芋)、ウベ (フィリピン語:ube)、パープルヤム (purple yam)、ウォーターヤム (water yam) とも。奄美方言ではこうしゃまんという。

ときおり同属のヤマイモの1種と誤解されるが、ヤマイモ(ヤマノイモ、D. japonica)は同属別種である。ショヨ(薯蕷)とも混同されるが、ショヨはナガイモD. polystachya)のことで、これも同属別種である。

芋の中身は鮮やかな紫色をしているものが多いが、白色の品種もある。紫色のものはベニヤマイモ(紅山芋)、ベニイモ(紅芋)とも呼ぶ。紫色の色素ポリフェノールの1種アントシアニンで、ムラサキイモと同じである。ただし、ムラサキイモはサツマイモナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ。学名 Ipomoea batatas。)の紫色の品種で、ダイジョとは近縁ではない。なお、呼び分ける場合はダイショをベニイモ、サツマイモをムラサキイモと呼ぶ。[要出典]

産地・栽培[編集]

熱帯アジア原産[1]

アジアオセアニアなど、世界中の熱帯地域で広く栽培される。世界的にはヤム類の中でも主要な栽培種であり、ヤムイモの世界生産高の大部分はダイジョによって占められる[2]

日本では沖縄県で広く栽培されるほか、鹿児島県奄美群島を含む九州四国などでもわずかに栽培される。本土ではを保温施設で育てることもある。




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