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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (267)
秋の歌とてよめる 阪上是則
さほ山のはゝその色はうすけれど 秋はふかくもなりにける哉
(秋の歌といって詠んだと思われる・歌……厭きの歌といって詠んだらしい・歌) 坂上是則(此の頃、大和国の役人だったか)
(佐保山の、はゝそ・柞の色は、薄い・黄色、だけれど、秋は深くなってしまったことよ……さ男山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「さほ山…佐保山…山の名…名は戯れる。さお山・さ男山ば・おとこの山ば」「はゝそ…柞…楢の木などの総称…木の言の心は男…名は戯れる。端端そ・身の端s…おとこ」「色…色彩…色情」「薄…黄葉…薄い…薄情」「秋…飽き…厭き」。
佐保山の、柞のもみじ色は、薄い黄色だけれど、秋は深くなってしまったことよ。――歌の清げな姿
さ男の山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ。――心におかしきところ。
おんなのめんどう見ることに、厭き厭きしたおとこの詠嘆だろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)