帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (267)さほ山のはゝその色はうすけれど

2017-08-11 19:52:16 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下267

 

秋の歌とてよめる          阪上是則

さほ山のはゝその色はうすけれど 秋はふかくもなりにける哉

(秋の歌といって詠んだと思われる・歌……厭きの歌といって詠んだらしい・歌) 坂上是則(此の頃、大和国の役人だったか)

(佐保山の、はゝそ・柞の色は、薄い・黄色、だけれど、秋は深くなってしまったことよ……さ男山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「さほ山…佐保山…山の名…名は戯れる。さお山・さ男山ば・おとこの山ば」「はゝそ…柞…楢の木などの総称…木の言の心は男…名は戯れる。端端そ・身の端s…おとこ」「色…色彩…色情」「薄…黄葉…薄い…薄情」「秋…飽き…厭き」。

 

佐保山の、柞のもみじ色は、薄い黄色だけれど、秋は深くなってしまったことよ。――歌の清げな姿

さ男の山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ。――心におかしきところ。

おんなのめんどう見ることに、厭き厭きしたおとこの詠嘆だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)