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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、今の人々は、その奥義を見失ったままである。国文学的解釈方法は平安時代の歌論と言語観を全て無視して新たに構築された砂上の楼閣のようなものである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう「煩悩」が顕れる。いわばエロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (147)
(題しらず) (よみ人しらず)
郭公ながなく里のあまたあれば 猶うとまれぬ思ふものから
(題知らず) (詠み人知らず・男の歌として聞く)
(ほととぎす、汝が鳴く里が、あちらこちらと・多数あるので、やはり、うとましくなってしまうよ、思いをかけていても……且つ乞う女よ、長泣くさ門が、頻繁で多いので、やはり、厭わしくなってしまったよ、恋しく思うけれども)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「郭公…ほととぎす…カッコーと鳴く鳥のこと…鳥の言の心は女…泣き声は戯れる、且つ恋う・且つ媾・且つ乞う」「ながなく…汝が鳴く…長泣く…長泣きする」「な…汝…親しいものへの呼びかけ」「里…言の心は女…さ門…おんな」「あまた…多数…頻繁に繰り返す」「うとまれぬ…嫌な感じがしてしまう…疎ましくなってしまう…厭わしくなってしまう」「ものから…のに…けれども…ものの」。
ほととぎすよ、里から里へ飛びまわりつつ、且つ恋う・且つ恋うと、鳴くので、疎ましくなってしまうよ、愛しく思うものの。――歌の清げな姿。
ほと伽す女よ、長泣きするさ門が頻繁なので、やはり、疎ましくなってしまう、愛しいと思うものの。――心におかしきところ。
郭公鳥の鳴く自然の情景につけて、おとこの本心を言い出した歌。
この歌は「伊勢物語」(43)にある。そこでは、歌の聞こえ方が異なる。
桓武天皇の第七皇子に賀陽親王(かやのみこ)という方がおられた。ある女を恵み使っていらっしゃたが、女は艶めいて居たので、或る男(業平とおぼしき、皇子より三十歳ばかり若い男)が、女に文を遣る。ほととぎすの絵を描いて、
郭公ながなく里のあまたあれば なほうとまれぬ思うものから
(……ほと伽す女よ,汝が泣くさ門の頻繁で数多ければ、やはり皇子に、うとまれてしまったと思うものだから)
この女、男の気持ちをくみ取って、
名のみ立つしての田をさはけさぞなく いほりあまたとうとまれぬれば
(評判だけ立っているの、仕手の田長は今朝ぞ無く、井掘り多数と・井戸掘りしなければ田は潤わないのでと、我が田は・うとまれてしまったので・田植できないのよ……汝の身立つの、仕手の田長は今朝ぞ無く、井掘り多数と、うとまれてしまったのよ)
時はさつきであった。男、返し、
いほり多きしての田をさはなほ頼む 我が住む里に声し絶えずは
(井掘り多きという仕手の田長は、それでもやはり、頼むのだ、我が住む里に郭公の声絶えない間は、田植えは間に逢うよ……井掘り多きを好む為手の田長は、なおも頼むよ、わが棲むさ門に、且つ恋う・且つ乞う・且つ媾、貴女の・声が絶えない限りは)
「な…名…評判…汝…貴身の身」「してのたをさ…仕手の田長…田植する仕事人の長…皇子のことらしい」「して…仕手(仕事人)……為手…行為する人…しで…死出(この歌ではこの意味は無い)」「田…言の心は女」「なく…無く…あの御方は今や居ない…泣く…悲しく泣いている」「いほり…庵(国文学的解釈はこの字を当てるが)…井掘り…戯れの意味がある…まぐあい」「井…おんな」「ば…原因理由を表す…から…ので」。
「すむ…住む…棲む…済む」「里…言の心は女…さ門…おんな」「声…郭公の声(田植え時期に鳴く鳥・田植えのリーダー)…且つ乞う女の声」。
田植えは、歌の「清げな姿」。女の歌の「ほととぎす」を「仕手の田長」と表現して皇子を思わせる手法は見事である。この男、皇子のおさがりの、色好みで和歌の才長けたよき女を得ただろう。
賀陽親王は、業平の母伊豆内親王の兄君にあたる御方。
歌の言葉は浮言綺語の戯れのように戯れ、深い趣旨・主旨が顕れるという、藤原俊成の言葉を無視して、郭公をほととぎす。しでを死出、いほりを庵と決めつけて読めば、意味の通じない話になるのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)