帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (157) 暮るゝかと見ればあけぬる夏の夜を

2017-02-22 19:03:23 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 157

 

(寛平御時后宮歌合の歌)         壬生忠岑

暮るゝかと見ればあけぬる夏の夜を あかずとやなく山郭公

                      (壬生忠岑は古今和歌集の撰者の一人である)

(暮れるかと見れば、明けてしまう夏の夜を、飽き満ち足りないとかな、鳴く山ほととぎす……繰り返し来るかと見れば、限度あけてしまう、なつの夜を、飽き足りないとでも泣くのか、山ばの且つ乞う女)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「くるる…(日が)暮れる…繰るる・来るる…繰り返し来る」「る…受身をあらわす」「見…思う事…覯…媾…まぐあい」「あけぬる…(夜が)明けてしまう…(ものの)期限・限度がくる」「ぬる…完了を表す」「夏の夜…暑苦しい夜…短夜…懐の夜…慣れ親しむ夜…なづむ夜…泥む夜…難渋する夜」「あかず…明かず…飽かず」「とや…とかな…疑いの意を表す」「鳴く…泣く」「山…(感情などの)山ば」「郭公…既に嫌というほど述べてきたように、鳥の言の心は女…泣き声や名は戯れる。且つ乞う」。

 

夏の早い夜明けに鳴く郭公鳥、短夜が・もの足りないと鳴くだろうか。――歌の清げな姿。

繰り返し山ば来るかと見ていれば、早くも白けて、且つ乞うと泣く女。――心におかしところ。

 

「寛平御時后宮歌合」で、この歌に合わされた左歌は、よみ人知らず(女の詠んだ歌として聞く)。忠岑の歌と、ほぼ同じ情況を別の視点で詠まれてある。

おしなべてさつきの野辺を見渡せば 水も草葉も深緑なる

(一様に、五月の野辺を見渡せば、水も草葉も深い緑だことよ……お肢、並みで・なびきて、さ尽きの、野辺を・山ばでないところを、見わたせば、をみなは、その端も・おんなも、色づいていない・飽きはほど遠いわよ)

 

「おしなべて…一様に…お肢靡きて…おし並で…おとこ伏して」「さつき…五月…さ尽き」「さ…接頭語」「野辺…山ばでは無くなったところ…平情なところ」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「水…言の心は女」「草…言の心は女」「葉…端…身の端…おんな」「深緑…紅葉していない…色褪せていない…飽き満ちた色ではない」「なる…なり…である(物よ・ことよ)」

 

江戸の国学以来の国文学的解釈は、「清げな姿」を歌の本意として、文字通りの季節感を詠んだ歌のように解く。「色好み歌」「艶流泉湧」「絶艶之草」「至有好色之家」「心におかしきところ」など、散見する平安時代の和歌に関する見解を示した言葉は全て無視されている。歌にエロスが顕れることなどとは、夢にも思っていない。

 

古典和歌はうわの空読みされて、色気のない文脈に捨て置かれて5百年は経つ。モノクロームと化した解釈は常識化し、今や全ての古語辞典に根づき蔓延っている。常識の破壊的改革が必要だけれども、それは非常に困難である。「せめて、心ある人よ、ほんとうの和歌の様を垣間見て、モノクロの常識から脱却して見ては如何だろうか、和歌の領野が深いところまで拓けるだろう」。これが当ブログのコンセプトである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (156) 夏の夜のふすかとすればほとゝぎす

2017-02-21 19:03:45 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。それらは、いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

和歌は、普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 156

 

(寛平御時后宮歌合の歌)              紀貫之

夏の夜のふすかとすればほとゝぎす なくひとこゑに明くるしのゝめ

 

(夏の夜のこと、臥すかとすれば、ほとゝぎす、鳴く一声に、明ける東の雲……暑い・夏の夜、寝ようとすれば、且つ乞う女、泣くひと声に、あくる、しっとりの、め)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ふす…臥す…寝る…伏す…たおれる…立てなくなる」「ほとゝぎす…鳥…言の心は女…名および鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「なく…鳴く…泣く」「ひとこゑ…一声…人声…女の声」「あくる…(夜が)明ける…開ける…開く」「しののめ…東雲…東の空が明るくなるとき…しっとりしため」「しの…篠…細竹などびっしり生えている感じ…しっとり」「め…目…女…おんな」。

 

夏の短夜、寝ようとすれば、カッコーの鳴く一声に、明ける東の空。――歌の清げな姿。

暑苦しい夜、もの伏すかとすれば、且つ乞う女のひと声に、あける、しっとりの、め。――心におかしところ。

 

暑い夏の夜、伏しかけるおとこ、且つ乞うおんなのありさまを詠んだ歌。「東の野に・嬪が肢ののに、かぎろひの立つ見えて」、「しののめの・しっとりしためが、偲びて寝れば夢に見えけり」などは、すでに、万葉集の歌にある同じ「絶艶」なる表現である。

 

「寛平御時后宮歌合」では、ほぼ同じ情況を詠んだ紀友則の歌と合わされてある。

宵の間もはかなく見ゆる夏虫に 思ひまされる身をいかにせむ

(宵の間はとくに、はかなく見える蛍火に、思い火まさる身を、どうしたものだろうか……好いの間さえも、はかなく見える、なづむ肢に・ほ垂るに、思火まさる、妻の・身をどうしたものだろうか)

 

「よひ…宵…夕方、明るさ残るとき…好い」「も…強調」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「夏虫…夏だけのはかない命のもの…蝿・蚊・蝉・蛍…ここでは『ほたる』と聞く…戯れて、ほ垂る、お垂れる、なづむ肢・ゆき煩うおとこ」「に…のように…により」「思ひ…悩み…思火…熱い思い」「まされる…増される…優れる…勝れる」「身…我が身…相手の身…妻の身」「いかにせむ…如何にせん…為すべき手立てに困るさま…諦め嘆くさま」。

 

「寛平御時后宮歌合」の詳細は、わからないが、歌人は与えられた題の歌を提出て出席しない。后の主催、内親王はじめ女房女官たちの為の、女たちによる歌合のようである。彼女たちは、皆、「歌の様」を知り、「言の心」を心得ていたので、歌は三度ゆっくり読み上げられるだけで、合わされる歌との相乗効果もあって、歌の「清げな姿」も、そのエロスの「あはれ」も「をかし」も、全てを享受することができたのである。雅楽の演奏の後、催された歌合ほどおもしろい娯楽は他にないだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (155)やどりせし花橘もかれなくに

2017-02-20 19:12:57 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

              ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、歌には「清げな姿」の他に、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 155

 

(寛平御時后宮歌合の歌)        大江千里

やどりせし花橘もかれなくに などほとゝぎすこゑたえぬ覧

 

(宿りしていた花橘も枯れないのに どうして、ほととぎす、声絶えてしまったのだろう……やとに・宿っていた端立端も涸れていないのに、どうして、且つ乞う声が絶えてしまったのだろう・御覧)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やどりせし…(郭公鳥が)宿りしていた…(や門に)宿りしていた(端立端)」「はなたちばな…花橘…木の花…言の心は男…端立端…おとこ」「かれなくに…枯れないのに…(愛情・情欲などが)涸れないのに…尽きないのに」「など…どうして…なぜ」「ほとゝぎす…カッコーと鳴く鳥…鳥の言の心は女…鳴き声などは戯れる。且つ恋う、且つ乞う」「たえぬ覧…絶えぬらむ…絶えてしまったのだろう」「らむ…推量の意を表す…覧…御覧あれ…見ろよ(おとこ誇り・おとこ自慢)」。

 

どうしてカッコーの声、絶えてしまったのだろう、夏も終わりか・片や、あき風でも吹いたのだろうか。――歌の清げな姿。

珍しく待つべき女が先に、情欲や、絶えてしまったよ、そら御覧。――心におかしところ。

 

この歌、「古今和歌集」の並びからは「寛平御時后宮歌合の歌」と思われるが、今に伝わる歌合には無い、別の機会に行われた時の歌かな。女たちの失笑をかうこの手の歌に、合わせる歌は無いので披露されなかったかな。

 

大江千里は、在原業平の異母兄弟の参議大江音人を祖とする由緒ある家柄の人で、千里は博学多識、「句題和歌集」を奏上するなど、古今集成立の頃、有名歌人であった。歌の様を見ると、業平に優るとも劣らない博愛多色、歌才にも長けた人だったらしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (154)夜やくらき道やまどへるほとゝぎす

2017-02-18 19:09:37 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、江戸時代以来、我々は奥義を見失ったままである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 154

 

(寛平御時后宮歌合の歌)         (紀友則)

夜やくらき道やまどへるほとゝぎす わがやどをしも過ぎがてになく


 (夜が暗いからか、道に迷っているのか、ほととぎすよ、わが家の宿り木を、過ぎ去り難そうに鳴いている……世は暗闇か、人の道惑うたかな、且つ乞う妻よ、我が宿り木をも・吾や門のお肢さえも、過ぎ去り難そうに泣いている)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「夜…世…男と女の仲」「道…(鳥の)帰る道…人の道」「ほとゝぎす…郭公…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「わがやど…我が宿(庭の花の木)…おのれのや門」「木…言の心は男」「と…戸…門…身の門…おんな」「を…対象を示す…お…おとこ」「しも…強調する意を表す…下…肢も…身の枝…おとこ」「すぎがて…去り難そうに…過ぎ兼ねるように…心残りなさまで」「なく…鳴く…泣く」。

 

夜は暗く帰り道に迷うたか、郭公鳥よ、わが家の花の木を去り難そうに鳴いている。――歌の清げな姿。

一寸先は暗闇・女と男の世、人の道に惑い・けもの道に入ったか、且つ乞う女、吾がや門の肢さえに、執着して去り難そう。――心におかしところ。

 

寛平御時后宮歌合で、この歌と合わされた左歌は、

夏の夜の松葉もそよに吹く風は いづれか雨の声にあるらむ

夏の夜の、松葉もそよそよと吹く風は、どちらかしら、雨の音なのでしょうか・松葉の音か……夏の暑い夜の、女の端もそよぐように、心に吹く風は、井擦れか、おとこ雨の音なのでしょうか)


 「松…常に色変わらぬ長寿の木…待つ…言の心は女(木の言の心としては例外なので、紀貫之は松が女であることを、『土佐日記』を通じて言外に何度も示している。松は鶴(女)と友達であり、亡くなった女児は小松に喩えられる」「葉…端…身の端」「かぜ…松風…そよ風…女の心に吹く風」「いづれか…どちらか…井擦れか」「井…おんな」「あめ…雨…おとこ雨…吾女…おんな」「こえ…声…音…小枝…おとこ」。

 

この女歌のエロスに、合わされた友則の歌は、例によって、おとこの弱々しき「さが」の表出である。この対比は、「あはれ」で「をかし」く、歌合に出席の御婦人方の心を楽しませることができただろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (153)五月雨に物思をれば郭公

2017-02-17 19:13:06 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は中世に秘事・秘伝となって埋もれ、江戸時代以来、我々は奥義を見失ったままである。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の、歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)であり、これこそが、和歌の奥義である。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 153

 

寛平御時后宮歌合の歌        紀友則

五月雨に物思をれば郭公 よふかくなきていづちゆくらむ


 (さみだれにもの思い居れば、ほととぎす、夜深く鳴きて、どこへ行くのだろうか……さ乱れの、おとこ雨に、もの思い折れば、且つ乞う妻よ、夜深く泣きて、どこへ逝くのだろうか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「五月雨…さみだれ…雨の言の心は男…夏の雨・梅雨…歌言葉は戯れる。さ乱れ、さ淫れ、おとこ雨」「に…時に…のために…『に』は多様な意味を孕んでいる」「をれば…居れば…折れば…挫折すれば…夭折すれば」「郭公…鳥…言の心は女、その原因理由を探るのは、言葉の本性を知らぬ愚か者である。鳥を女と心得て「古事記」など一読すれば、神世から鳥は女であると心得ることができる。それでいいのである」「なき…鳴き…泣き」「いづち…何方へ…何処へ」「ゆく…往く…行く…逝く(本来逝くべきところは有頂天・この世の快楽の極みである。未だ夜深き時に池・逝けに堕ちるから泣くのである)」「らむ…推量する意を表す」。

 

雨中独り居て、物思いに耽る人に聞こえるのは、夜深く鳴き去る郭公の声。――歌の清げな姿。

さ乱れて降るお雨のために、夭折したおとこ、且つ乞う妻の夜深く泣く声を、聞く男のありさま。――心におかしところ。

 

この歌合で、上の歌に合わされた左方の歌は、

草茂み下葉枯れゆく夏の日も わけとしわけば袖やひちなむ

(草が茂っているために、下の葉は枯れゆく夏の日でさえも、分け入ろうとして、草を分ければ、衣の袖濡れるでしょう……女の情は繁り、そのために、おとこの下端涸れ逝く夏の暑い日も、分け入ろうとして分ければ、わが身の端濡れているでしょうよ)


 「草…菜・草花などの言の心は女」「葉…端」「かれゆく…枯れ行く…涸れ逝く」「袖…そで…端」「ひづ…漬づ…泌つ」。

 

今の人々は、歌の「清げな姿」のみ見て、正に夏の風物を詠んだ歌として享受し、何の疑問も感じない文脈に至ってしまったようである。上のように、歌の「心におかしきところ」で、歌合せの「おかしさ」は成り立っている。うわのそら聞きに聞いていては、「をかしくも」「あはれ」とも感じることは出来ない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)