帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (156) 夏の夜のふすかとすればほとゝぎす

2017-02-21 19:03:45 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。それらは、いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

和歌は、普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 156

 

(寛平御時后宮歌合の歌)              紀貫之

夏の夜のふすかとすればほとゝぎす なくひとこゑに明くるしのゝめ

 

(夏の夜のこと、臥すかとすれば、ほとゝぎす、鳴く一声に、明ける東の雲……暑い・夏の夜、寝ようとすれば、且つ乞う女、泣くひと声に、あくる、しっとりの、め)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ふす…臥す…寝る…伏す…たおれる…立てなくなる」「ほとゝぎす…鳥…言の心は女…名および鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「なく…鳴く…泣く」「ひとこゑ…一声…人声…女の声」「あくる…(夜が)明ける…開ける…開く」「しののめ…東雲…東の空が明るくなるとき…しっとりしため」「しの…篠…細竹などびっしり生えている感じ…しっとり」「め…目…女…おんな」。

 

夏の短夜、寝ようとすれば、カッコーの鳴く一声に、明ける東の空。――歌の清げな姿。

暑苦しい夜、もの伏すかとすれば、且つ乞う女のひと声に、あける、しっとりの、め。――心におかしところ。

 

暑い夏の夜、伏しかけるおとこ、且つ乞うおんなのありさまを詠んだ歌。「東の野に・嬪が肢ののに、かぎろひの立つ見えて」、「しののめの・しっとりしためが、偲びて寝れば夢に見えけり」などは、すでに、万葉集の歌にある同じ「絶艶」なる表現である。

 

「寛平御時后宮歌合」では、ほぼ同じ情況を詠んだ紀友則の歌と合わされてある。

宵の間もはかなく見ゆる夏虫に 思ひまされる身をいかにせむ

(宵の間はとくに、はかなく見える蛍火に、思い火まさる身を、どうしたものだろうか……好いの間さえも、はかなく見える、なづむ肢に・ほ垂るに、思火まさる、妻の・身をどうしたものだろうか)

 

「よひ…宵…夕方、明るさ残るとき…好い」「も…強調」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「夏虫…夏だけのはかない命のもの…蝿・蚊・蝉・蛍…ここでは『ほたる』と聞く…戯れて、ほ垂る、お垂れる、なづむ肢・ゆき煩うおとこ」「に…のように…により」「思ひ…悩み…思火…熱い思い」「まされる…増される…優れる…勝れる」「身…我が身…相手の身…妻の身」「いかにせむ…如何にせん…為すべき手立てに困るさま…諦め嘆くさま」。

 

「寛平御時后宮歌合」の詳細は、わからないが、歌人は与えられた題の歌を提出て出席しない。后の主催、内親王はじめ女房女官たちの為の、女たちによる歌合のようである。彼女たちは、皆、「歌の様」を知り、「言の心」を心得ていたので、歌は三度ゆっくり読み上げられるだけで、合わされる歌との相乗効果もあって、歌の「清げな姿」も、そのエロスの「あはれ」も「をかし」も、全てを享受することができたのである。雅楽の演奏の後、催された歌合ほどおもしろい娯楽は他にないだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)