帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (158) 夏山にこひしき人や入りにけむ

2017-02-23 19:12:09 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 158

 

(寛平御時后宮歌合の歌)             紀秋

夏山にこひしき人や入りにけむ こゑふりたてて鳴くほとゝぎす

(夏山に、恋しき人でも、入ってしまったのだろうか、声ふり立てて、鳴く、ほととぎす……なづむ山ばに、乞いしき男が入ってしまったのだろうか、声振り立てて・小枝ふるい立たせて、泣く、且つ乞う女)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「夏山…懐山ば…慣れ親しんだ山ば」「山…感情などの山ば…感の極み…絶頂」「こひしき人…恋しい人…乞いしき人…且つ乞う相手」「や…疑問の意を表す」「いり…入山し…入道し…山ばに入り」「けむ…たのだろう…推量する意を表す」「こゑ…声…小枝…おとこ…木の言の心は男」「ふりたて…振り立て…(声)張り上げ…(小枝を)奮い立たせ」「なく…鳴く…泣く」「ほとゝぎす…郭公…鳥の言の心は神世から女…鳥の名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う、すぐさま又と乞う」。

 

夏山に、恋しい人でも入山したのだろうか、声張りあげて、且つ恋うと・鳴くほととぎすよ。――歌の清げな姿。

難渋する山ばの極みに、乞う男が入ったのだろうか、小枝奮い立たせて泣く且つ乞う女。――心におかしところ。

 

「寛平御時后宮歌合」で、この歌に合わされた左歌は、よみ人知らず(女の歌として聞く)、紀秋岑の歌と同じ情況を、女の立場で詠んだ歌。

夏の露なぞとどめぬぞはちす葉の まことの玉となりしはてねば

(夏の露、どうして、流れ落ちてゆくのよ・留まらないのよ、蓮葉の真の宝玉と成って果てられない、いつも……懐の・慣れ親しい、白つゆ、どうして止めないのよ、水草の葉の・女の八す端の、真の白玉と成って果てない、いつもね)


 「夏の…懐の…慕わしい…慣れ親しい」「つゆ…露…夜露…白露…おとこ白つゆ」「とどめぬ…止めない…留まらない…流れ堕ち逝く…果てる」「はちすは…蓮の葉…聖なる台座…玉台…たまのうてな…大切なものをお乗せるの台…女…八す端…多情おんな」「す…洲・巣…おんな」「まことの玉…真の玉…宝玉…真珠…白玉」「ね…ず…打消しを表す」「ば…ので…すればいつも…いつもそうなってしまうことを表す」。

 

秋岑の歌とほぼ同じ感情の境地を詠んだ女歌は、歌合に出席の、左方の女房か女官の作だろう。読人が、歌を三度読み上げるだけなので誰の作かはわらない。この歌合では歌に勝劣は付けない、批評もない。大人の女たちは、「絶艶」ともいえる両歌のエロスをそれぞれに享受する。今で言えば、すばらしいドラマのクライマックスを鑑賞し身の端も胸もキュンとなるのに似ているだろうか。

 

歌の様を知らず、言の心を心得ず、心幼くては、歌の「清げな姿」しか見えないので、歌合など「をかし」くも、何とも思えないだろう。今の人々は、当時の歌の文脈とは程遠いところに居る。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)