帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二十四〕人にあなづらるゝ物

2011-03-18 06:08:49 | 古典

 



                  帯とけの枕草子〔二十四〕人にあなづらるゝ物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。

 


 清少納言 枕草子〔二十四〕人にあなづらるゝ物


 人にあなづらるゝ物、ついぢのくづれ。あまり心よしと人にしられぬる人。


 清げな姿

人に侮られるもの、築土の崩れ。あまりにもお人よしと人に知られた人。


 心におかしきところ

人にあなつられるもの、津井路のくずれ。余りの情好しと男に知られてしまった女。

 


 言は戯れ「聞き耳」により意味の異なるもの、且つ無常。「聞き耳」を同じくしましょう。

「あなづらるる…侮られる…あな釣られる…穴釣られる」「あな…穴…女」「づらる…つらる…釣られる…獲られる…盗とられる…ずらる…すらる…擦らる」「物…者…ものとしか言いようのないもの」「ついぢ…家の土囲い…津・井・路…女」「くづれ…崩れ…乱れ…淫れ」「あまり心…余情…その時の有り余る情愛」。

 


 この諧謔も「艶になりぬる人」の作った色好みな内容ながら、「伊勢物語」などの「色好み歌」を知る大人には、少しもの足りない程度のもの。

伊勢物語の業平の歌の色好みぶりは、「帯とけの伊勢物語」を一読すれば知ることが出来るでしょう。


 字義の通りに読む大真面目な読みに凝り固められた、今の読者にとっては、紐解いた意味は、青天の霹靂か寝耳に水のように思われるでしょうか。
 和歌に限らず、諧謔のような文芸にも、「清げな姿」と「心におかしきところ」と、時には「心深いところ」がある。これは、藤原公任の歌論を学べば知ることが出来るでしょう。

 

 
 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改訂しました)

 
 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による


帯とけの枕草子〔二十三〕たゆまるゝ物

2011-03-17 06:02:28 | 古典

 



                                     帯とけの枕草子〔二十三〕たゆまるゝ物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。

 


 清少納言 枕草子〔二十三〕たゆまるゝ物

 
 たゆまるゝ物、さうじの日のおこなひ。とをきいそぎ。寺にひさしくこもりたる。

 

清げな姿

中だるみするもの、精進の日の勤行。遠い先のことの準備。寺に久しく籠もっている。

 

心におかしきところ

たるむ物、双肢の火の行為。門お気急ぎ。衒って久しく子盛っている。

 
 言は戯れ無常なもの、「聞き耳」を同じくしましょう
 「たゆまるる…自然に気が緩む…中だるみする…ものが弱り絶える」「物…者…事…状況…情況…ものとしか言いようのないこと」「さうじ(ん)のひ…精進の日…潔斎の日…そういうことを行ってはならない日…双肢の火」「ひ…日…火…情熱の炎」「おこない…勤行…行為」「とをき…遠き…時間が先の方…距離が彼方…ものの極みどころ…とを気…門お気…女と男の気持ち」「いそぎ…準備…急ぎ」「てらに…寺に…衒に…みせびらかすように…誇らかに」「こもる…籠もる…子盛る」「こ…子…子の君…おとこ」。 

 


 これを諧謔と聞いて、おかしと笑えたとき、千年の時を越えて趣旨が伝わったことになる。

 

「歌は浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」と藤原俊成はいう。歌だけではなく、諧謔や嘯きのような文芸も同じ。 



  伝授 清原のおうな
  聞書  かき人しらず     (2915・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による 


帯とけの枕草子〔二十二〕すさましき物

2011-03-16 06:04:55 | 古典

 



                   帯とけの枕草子〔二十二〕すさましき物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。

 


 枕草子〔二十二〕すさましき物

 

 すさまじき物(不快だがどうしょうも無いもの)、昼吠える犬。春の網代(氷魚の仕掛け網)。三四月の紅梅の衣(初夏に早春の色の衣)。牛の死んだ牛飼人。乳児亡くなった産屋。火を起こさない火鉢、いろり。博士が続いて女児生ませている。方違えに行ったのに接待しない所、まして節分など何もしない所は、いとすさまじ(まったくいやな感じでもどうしょうもない)。


 地方の国より寄越した手紙に土産物が付いてない。京からの文もそう思うだろうだけど、それは知りたい事などを書き集めてある世の出来事などを聞ければ良いでしょう。


 人のもとにわざわざ清げに書いてやった文の返事を、今に持って来るだろう、いやに遅いと待つほどに、あのようであった文を、立て文にせよ結び文でも、ひどくきたなげに取り扱って、ぼさぼさにして上に引いた封印の墨のあとなど消えて、「いらっしゃいませなんだ」もしくは「御もの忌みなのでお受け取りになりません」と言って持ち帰った。いと侘しくすさまじ(とってもわびしくいやな感じでもどうしょうもない)。
 また、必ず来るべき人のもとに牛車を迎えにやって待っていると、来る音がするので、そうだろうと人々が出て見ると、車宿(車庫)にまたも引き入れて、ながえを「おう」とうち下ろすので「なんなのよ」と問えば、「今日は他へいらっしやいますといって、こちらへは来られません」と言って、牛飼が牛だけ引き出して去る。
 また、身内の婿君が来なくなってしまった。いとすさまじ(ほんとにいやな感じでもどうすることもできない)。


 そうするべき人を宮仕えするもとに紹介してやって、恥ずかしがっているのは、まったく気にいらない。


 乳児の乳母が、ただちっとだけと言って出かけた間、ともかく乳児をなぐさめて、「とくこ(すぐ来るよ…はよ来いよ)」と言ってやっていると、「今宵は参れないでしょう」という返事をよこしたのは、いやな感じだけではなく、ひどく憎らしく困ってしまう。女を迎える男(乳母を迎える夫)は、ましてどうなんだろう(憎くはない返したくないよね)。


 待っている人があるときに、夜が少し更けて忍びやかに門をたたくので胸どきどきして、人を出迎えさせて問わせると、用もない者の名など名のって来たのを、繰り返しがっかりでいやな感じと言うのは愚かである(勝手に期待しただけだから)。

 
 験者が物の怪を調ずるということで、たいそう得意顔に、とこ(仏具)や数珠を憑き人に持たせて、蝉のような声しぼりだして唱えているが、いささかもものの怪去る気配もなく、護法善神も憑かないので、集まって念じているが、見ている男も女も変だと思っているとき、時の変わるまで唱え疲れて果てて、「まったく(神が)つかない。立ちなさい」といって、数珠を取り返して、「ああ、まったく霊験なしや」と言い放って、額より上の方へ手をなで上げ、あくびを自らして伏してしまった。ひどく眠たいのだと思っていると、まったくそうとは思わない人が、押し揺さぶって、近くでもの言うのは、いみじうすさまじけれ(ひどく感じがわるくてどうしょうもないことよ)。


 除目(官職任免の日)に司を得なかった人の家。今年は必ずと聞いて、前に仕えていた者たち、他の家々に居たり田舎じみた所に住む者たちなど皆集まって、出入りする車のながえ(轅)も隙間なく見え、願立て、もの詣でするお供に我も我もと仕えて行き、もの食い、酒飲み騒ぎあっているが、夜も果てる暁まで門たたく音もせず、変だなあと耳立てて聞けば、遠くでさきばらいの声々がして上達部(任命役)などはみな退出された。様子を聞きに行った宵より寒くて震えていた下男が、たいそうもの憂く歩いて来るので、見る者たちは問うこともできない。他より来た者などが「おたくの殿は何になられましたか」などと問うので、応えには「なにのぜんじにこそは(なに、あの前の司にですね、なられました)」などと必ず応える。ほんとうに期待していた者は、たいそう嘆かわしいと思える。明くる朝になって、隙間なく居た者ども、一人二人とすべるように出て去る。古い者たちの、そうは去り行けないのは、来年交替ある国々を指折り数えたりして、身を揺るがしてうろうろしているのも、とってもおかしくいやな感じである。


 わりとよく詠めたと思える歌を、人のもとへやったのに返しをしない。恋人ならどうなるの、それさえ、おりをかしうなどある返事せぬは心おとりす(折節の風情のある返事しないとがっかりする……折節に艶のある返事をしないと男は幻滅する)。
 また、さわがしく今盛り上がっているところに、ちと古めかしい人が、おのれはすることもなく暇の多い常々なので、昔ちやほやされても、いまは何でもない歌を詠んでよこしている。

 
 何か行事のおりの扇を、すばらしいものをと思って、その心得あると知っている人に描いてと、渡したのに、その日になって意外な絵など描いてあるのを受け取っている。

 
 うぶやしなひ(出産祝い)、むまのはなむけ(餞別)などの使いの者に褒美をあげない。何ということもない薬玉・卯槌を持ってまわる者などにも、やはり必ず褒美はあげるべきである。思いがけないことで得たのを、たいそうやりがいがあったと思うだろう。これは必ず大切であるはずのお使いだと思い、心がときめいて行ったときには褒美なしでは、とくにがっかりしていやなものなのだ。

 
 婿取って四、五年までも産屋の騒がない所も、いとすさまじ(まったく寒々としていてどうしょうもない)。


 大人となった子ども数多くいて、もしかすると孫たちも這いまわるであろう人の親どうし昼寝(共寝)している。傍らに居る子どもの心地にも、親が昼寝している間は寄っている所がなくて、いとすさまじ(まったくどうしょうもなく感じが悪い)。


 大晦日の夜、共寝の親、寝起きに浴びる湯の音も腹立たしいとさえ思える。
 
 しはすのつもごりのながあめ(年の暮れの長雨…年齢の暮れの止まないおとこの淫雨)、一日ばかりのさうじんけさい(一日ばかりの精進潔斎…あと一日ばかりの不浄な行い慎む日)とかいうだろうに。


  「ながあめ…ながめ…長雨…淫雨」「雨…おとこ雨」。


 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 岩波書店


帯とけの枕草子〔二十一〕おいさき

2011-03-15 06:09:10 | 古典

 



                      帯とけの枕草子〔二十一〕おいさき



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 

枕草子〔二十一〕おいさき

 おいさきなく、まめやかに、ゑせざいはいなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、なを、さりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世のありさまもみせならはさまほしう、内侍のすけなどにて、しばしもあらせばやとこそおぼゆれ。

(成長する先なく、真面目に偽の幸せなどゆめ見ている人は、感じが悪く侮りたく思えて、やはり、そうではない人の娘などは、交じりあわせて世のありさまも、見習いさせてやりたく、内侍司の典侍などにて、しばしの間でも居させてやりたいなと思える……感極まる先なく、偽の幸いを見る女は、うっとうしくあな擦られているように思えて、なお、そうなったであろう人のむすめなどは、さし交わらせ、女と男の仲も見習わしてやりたく、内侍司
の女官などにて、少しの間でも居させてやりたいなあと思える)。
 
 宮仕えする人を軽薄で悪いことのように言い、そう思っている男は、ほんとに憎らしいことよ。たしかに、それもまたそういうことはある。宮仕えして、かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位・四位はいうまでもなく、宮人たちに、見ぬ人(お目にかからない人…情けを交わさない女)は少ないでしょう。女房の従者、その里より来る者。おさめ、御厠人の従者、たびしかわら者というまで、いつまでそれを恥じ、世に隠れているのだ。男たちは、まったくそのようではないでしょうか。それも、あるかぎり(みなが皆…生きているかぎり)は、そうなのでしょう。
 

 「上」などといって、娘を大切に育て据え置いていたところで、心にくからず(何でも心に通じているだろう…羨ましくも何んとも無い)と思えるでしょう、道理だけれど、そのうえに内裏の内侍のすけなどといって、折々に内裏へ参って「祭の使」などに出ていれば、身の光栄と思わないでしょうか。そうして後に里に籠もっていたらまして愛でたい。受領が五節の舞姫を出すおりなど、ひどく田舎じみた知らないことなどを他人に問い聞きなどしないものだ。心にくきことなり(これこそ・奥ゆかしいことである)。


 言の戯れを知り言の心を心得て読みましょう。

「おいさき…生い先…老い先…年齢の極まり先…追い先…感極まり先」「まめやか…まじめなようす…感嘆することの無いようす」「ゑせざいはい…偽の幸い…女と背の君の幸い」「ゑ…江…女」「せ…背…男」「見る…思う…想像する…まぐあう」「いぶせく…うっとうしく…不愉快で」「あなづらわしはしく…軽蔑したくなる…穴づらはし…穴辛らはし」「さりぬ…そうではない…そうなった」「ぬ…ず…打消し…ぬ…完了を表す」「世…男女の仲…夜」「見ぬ…お目にかからない…情を交わさない…めをあわさない」「心にくからず…奥ゆかしくはない…妬ましいほど憎くは無い」「心にくし…憎らしいほど立派…心得深く奥ゆかしい」。


 お姫様のままで成長することなく一生を終わるのは偽の幸せ。

 

宣躍殿の女御のように、文字を習い琴が上手に弾けて、古今集の和歌をすべて暗記するほどに歌に付いて心得たならば、一千の他人の心情に接することができる。これらを心に入れて、宮仕えして、世の中と男女の仲を見習えば、ほかにいうことなく愛でたいでしょう。

 


 伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず   (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、 新 日本古典文学大系 岩波書店 枕草子による

 

 


帯とけの枕草子〔二十〕清涼殿 その二

2011-03-14 06:04:06 | 古典

 




                                    帯とけの枕草子〔二十〕清涼殿 その二



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 

枕草子〔二十〕清涼殿 その二

 

 古今集の册子を御前に置かれて、歌の上の句を仰せられて、宮「これの末の句はいかが」と問われるのに、すべて、夜昼となく覚えているのもあるが、すらすらと申し出せないのはどうしたことか。宰相の君が十ばかり、これとて覚えているといえるかどうか。まして、五つ六つでは、ただ覚えていないことを申し上げるべきだけれど、それではあんまり無愛想で仰せごとを面目無い扱いになるでしょうと、女房たちが・困り果てて悔しがっているのもおかしい。知っているという人がいないので、そのまま末の句を読み続けられ、そこに栞を挟まれると、女房たちが・「これは知っている歌よ、どうしてこう、私たちは・愚かなんでしょうね」と言い嘆く。中でも古今集を多く書き写す人は全部覚えているはずである。


 宮「村上の御時に、宣耀殿の女御とおっしゃったのは、小一条の左大臣殿の御娘であると、だれが知り奉らぬであろう・みな周知の御方。まだ姫君と申されていた時、父の大臣がお教えになられたことは、『ひとつには文字の手習いをしなさい。つぎにはお琴を人より特に優れて弾けるようにと思いなさい。そして、古今集の歌二十巻をみな念頭に浮かべられるのを御学問になさい』と申されたと、村上帝は・お知りになったうえで、物忌みだった日、古今集を持ってわたってこられて、御几帳を引きよせ隔てをつくられたので、女御は常のことではないので不審に思われたところ、古今の草子をお開きになって、その月、何の折り、その人の詠んだ歌は如何に、というようにお尋ねになられるのを、こういうことだったかと心得られるご様子もすばらしいが、いいかげんな覚え方をしていて、忘れたところがあれば大変だと苦しく、思いも乱れたでありましょう。その方面のことに不案内ではない女房二三人ばかりお召しになって、碁石で数をしるされるということで、強いてお尋ねになられる様子など、どれほど愛でたく興味深いことだったでしょう。御前にお仕えする人々さえうらやましいことです。強いて仰せになれば、賢ぶって、そのまま末の句までもというのではありませんが、女御は全て少しも間違えることはなかったということです。帝は何としても、なお少しの間違いを見つけてからやめようと、悔しいとまでお思いになられて、十巻までにもなってしまったのです。これ以上は不要であると、御草子に栞を差して、おやすみになられたのもまた愛でたいことです。

久しくあってお起きになられたとき、なおこのことの勝ち負けなくおやめになられるのは、遺憾であると、下の十巻を、明日になれば歌をご覧になり答えを合わせられると、今日決めようと灯火を用意して夜更けるまで詠ませになられたという。それでもついに(女御は)お負けになられなかったという。帝がいらっしゃってのこのようなご様子などを、ある人が親の大臣殿に申し上げたところ、たいそう思いが乱れて、御誦経などあちこちに依頼されるは、こちらに向かって、祈念されて過ごされたという。すきずきしうあはれなること也」と語られると、主上もお聞きになって称賛され、「われは、三巻か四巻さえ見終えることができないであろう」と仰せられる。


 「昔は、えせ者(見かけ普通の者)もみな歌はおもしろかったのよ。このごろは、このようなこと聞きますかねえ」などと、御前に仕える女たち、主上付きの女房、出入り許された者などが参って、口々に話している様子などは、まことにこれ以上つゆも思い望むことなく、愛でたく思える。

 


 左大臣殿の言動について、宮のご批評は「すきずきしうあはれなることなり」。

先ず、古今集の歌がもとより好き好きしい。仮名序で貫之が「いまの世中、色につき、人のこゝろ、花になりにけるより、あだなる歌、はかなきことのみ、いでくれば、いろごのみのいへに、埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すゝき、ほにいだすべき事にもあらずなりにたり」と嘆いている。「色に尽きた」歌は撰ばなかったでしょうけれど、古今集には一見清げな姿の内に「色好みな」歌が数多くある。


 左大臣殿の「御踊経などあまたせさせ給ひて、そなたにむきてなん念じくらし給ひける」は、我が娘に皇子誕生を念じているとすれば、「好き好きしく、あはれ(同情する、感心する)」ことでしょう。

 

殿(摂政道隆)の存命中の宮(中宮定子)の、ひいては宮の内の、これ以上「つゆも思い望むことなく、愛でたく思える」様子を記してある。



 伝授 清原のおうな


  聞書  かき人しらず      (2015・8月、改訂しました)