帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔十八〕たちは

2011-03-10 06:19:46 | 古典

 



                       帯とけの枕草子〔十八〕たちは



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 

枕草子〔十八〕たちは


 たちはたまつくり。

 
 清げな姿

館は美麗堅牢な造り。飾太刀は宝玉作り。

 

心におかしきところ

やかたは艶に麗しい造り。たつものは玉付いてる。

 やかたは悠久の造り。たちは魂尽きてる。


 
言の戯れを知り言の心を心得ましょう

「たち…館…やかた…やど…いへ…女…太刀…つわもの…立ち…おとこ…絶ち」「たま…玉…美称…褒め言葉…宝玉…二つある玉…おとこの魂」「つくり…造り…作り…つくられてある…付くり…付いてる…尽くり…尽きてる」。


 

この諧謔を笑えるか。言の心と事の情を心得たおとなであれば、心幼くなければ、笑えるでしょう。


 第六章の「翁丸」の話を思い出して。癒してやった翁丸が女たちに囲まれたとき「いまぞたちうごく」とある。「今ぞ(たちが)立ち動く」と聞くと、「なほ、かほなどのはれたる、物のてをせさせばや」という言葉が「汝お、彼おなどが、張れている、ものが手を使うのか」とも聞こえて、上の女房たちは笑った。笑わせるために言ったこと。この章も、その類の諧謔の記録である。

 

清少納言こそ「いみじうはべる…ひどい侍りざま」、「たへぬ…堪えられない」または「たらぬ…思慮が足りない」と、「紫式部日記」にあるように、紫式部と共に批判するのもいい。それは、「枕草子」を正当に読んだ証だから。

 

今や、この章など、路傍の石ころのように捨て置かれてあるでしょう。言の戯れを知らず、真面目に字義通りに読む人々、または心幼くて情のない人は、「聞き耳」を異にしているので、諧謔は伝わらない、笑うことも批判することもできないでしょう。わずか一千年前の文字は、化石となったのか。

 


 伝授 清原のおうな
 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)