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帯とけの枕草子〔十八〕たちは
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
枕草子〔十八〕たちは
たちはたまつくり。
清げな姿
館は美麗堅牢な造り。飾太刀は宝玉作り。
心におかしきところ
やかたは艶に麗しい造り。たつものは玉付いてる。
やかたは悠久の造り。たちは魂尽きてる。
言の戯れを知り言の心を心得ましょう
「たち…館…やかた…やど…いへ…女…太刀…つわもの…立ち…おとこ…絶ち」「たま…玉…美称…褒め言葉…宝玉…二つある玉…おとこの魂」「つくり…造り…作り…つくられてある…付くり…付いてる…尽くり…尽きてる」。
この諧謔を笑えるか。言の心と事の情を心得たおとなであれば、心幼くなければ、笑えるでしょう。
第六章の「翁丸」の話を思い出して。癒してやった翁丸が女たちに囲まれたとき「いまぞたちうごく」とある。「今ぞ(たちが)立ち動く」と聞くと、「なほ、かほなどのはれたる、物のてをせさせばや」という言葉が「汝お、彼おなどが、張れている、ものが手を使うのか」とも聞こえて、上の女房たちは笑った。笑わせるために言ったこと。この章も、その類の諧謔の記録である。
清少納言こそ「いみじうはべる…ひどい侍りざま」、「たへぬ…堪えられない」または「たらぬ…思慮が足りない」と、「紫式部日記」にあるように、紫式部と共に批判するのもいい。それは、「枕草子」を正当に読んだ証だから。
今や、この章など、路傍の石ころのように捨て置かれてあるでしょう。言の戯れを知らず、真面目に字義通りに読む人々、または心幼くて情のない人は、「聞き耳」を異にしているので、諧謔は伝わらない、笑うことも批判することもできないでしょう。わずか一千年前の文字は、化石となったのか。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)