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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(96)
春の歌とてよめる (素性)
いつまでか野辺に心のあくがれん 花し散らずば千世もへぬべし
春の歌と言って詠んだと思われる……春情の歌ということで詠んだらしい。 (そせい)
(いつまで、花の・野辺に心が憧れるのだろうか、花が散らなければ、千年でも、ここで・過ごすだろう……いつまで、野辺で、山ばの京に・心が憧れているのでしょうか、おとこ花、散らなければ、そのまま・千夜も過ごすおつもりでしょうか)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「か…疑問を表す…詠嘆を表す」「野辺…下野・外野…中枢ではないところ…山ばではないところ」「あくがれ…あこがれ…思い焦がれ…心乱れて浮かれ」「ん…む…推量をあらわす」「花…木の花…男花…ここは親王のこと…おとこ花」「散らず…消えず…果てず」「千世…千代…千年…千夜」「へぬべし…経てしまうだろう(推量)…経てしまうがいい(適当)」。
いつまで、花見の・野辺で、心浮かれているのだろうか、花が散らな無ければ、千年でもこのまま過ごすだろう。――歌の清げな姿。
いつまで、野にて、心浮かれ山ばの京に憧れているのでしょうか、おとこ花散らなければ千夜も過ごしてしまうおつもりか。――心におかしきところ。
男花咲かせることは、諦めて捨ててください。汚れた世に千年も過ごすおつもりか。歌の深い主旨は、やはり出家の勧めのようである。この頃、たとえ親王が姓を賜り臣に下っても、出世などおぼつかない、或る藤原氏一門の世になっていたのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)