帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (八十六) 西行法師 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-29 19:33:44 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、
「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。ものに「包む」ように表現されて有り、それは、俊成の言う通り、まさに「煩悩」であった。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (八十六) 西行法師


   (八十六)
 嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なる我が涙かな

(嘆けと言って、月は悩ましい思いをさせるのか、ではないのに、美しい月の・所為だという顔をしている、恋する・我が涙であることよ……溜息でもつけと言って、尽き人おとこは、いやな思いをさせるのか、他人ごとのような顔している、わがおとこのなみだの玉よ)

 

言の戯れと言の心

「なげけ…嘆け…悲嘆しろ…哀しめ…溜息つけ」「月…大空の月…月人壮子…男…おとこ…尽き」「やは…反語の意を表す…疑問の意を表す」「もの…漠然と指示すること…云い難いこと…あれ」「かこち顔…他の所為にする顔…嘆いている顔つき…恨みがましい様子」「なみだ…目の涙…おとこの汝身唾…(法師の身にも夢の中でこぼれる)おとこ白玉」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」。

 

歌の清げな姿は、月を眺めて流していると見せている、悩ましい恋の涙かな。

心におかしきところは、つき人おとこは、いやな思いをさせる、ただ零れ出ただけだという顔の、わがおとこ白玉よ。

 

千載和歌集 恋五 「月前恋といへる心をよめる」、円位法師(出家した時の西行法師の法名)

西行法師は、鳥羽上皇の北面の武士であったが、二十三歳のとき出家した。新古今和歌集の代表的歌人、九十五首入集する。俊成、定家親子とは親しかったようである。


 

さて、上の歌、現代の高校生の用いる普通の古語辞典の解釈は「嘆けと言って、月は物思いをさせるのだろうか、いやそうではない、(本当は恋の思いのせいなのに)、月が物思いをさせているかのように、かこつけがましくも、流れるわたしの涙であることだ」。

別の古語辞典の解釈も「悲しみにひたれと言って、月が私に物思いをさせるのだろうか、そうではないのに、いかにも月のせいのように、こぼれる私の涙であるよ。――涙がこぼれるのは月のせいではなく、恋のためであるという歌」。

他の国文文学の参考書の解釈も当然、古語辞典と大差はない。いずれも、歌の「清げな姿」から一歩も出られない。西行が、そんな一義な歌を詠んで、もて囃されていたか?。

 

一千年以上も、後の人々が和歌の意味を知る為には、古今集仮名序の結びの言葉は重要である。歌を解くカギが明確に教示されてある。

歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて今を恋ざらめかも。

歌の表現様式を知り、言の心(字義以外にこの文脈で通用していた意味)を心得る人は、大空の月(つき人おとこではありませんぞ)を見るように、古今集の時代を仰ぎ見て、今の我々の歌を恋しく思はないだろうか、いや、恋しがるだろう。

「大空の」は飾り言葉ではなく、必要な言葉であった。なければ、「ささらえをとこ・突き・尽き」と聞いて笑い出すお人が居るかもしれないのである。万葉集を一読すれば、月の「言の心」は壮士・壮子で、男・おとこであることは、誰でもすぐにわかる。