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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(44)
(水のほとりに梅の花咲きけるをよめる) (伊 勢)
年をへて花のかゞがみとなる水は 散りかかるをや曇るといふらむ
(年を経て、花の鏡となる水は、花びら散りかかるを・塵かかるを、曇ると言っているでしょうか……疾しを経て、おとこ端の、屈身となる、をみなは・見ずは、お花の・散りかかるのを、苦盛ると言うでしょうよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「年…年月…とし…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「へて…経て…経過して」「かがみ…鏡…水鏡…屈み…屈む身…折れた身」「水…言の心は女…みづ…みず…見ず…媾なし」「や…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」「曇る…空が曇る…心が曇る…心身苦盛る」「らむ…(言う)ことだろう…(言って)いるだろう…見えていない現在の事柄について推量する意を表す」。
長年に亘って、花の鏡になっている水は、花びらの・散りかかるのを、鏡が・曇ると言っているだろうか――歌の清げな姿。
これだけでは、歌ではない。歌は、よくもわるくも、「心深く」「心におかしきところ」があるものである。
疾し尽きを経過して、尽きたおとこ端が屈む身となる、おんなは、散りかかるお花を、苦盛ると言うでしょうよ。――心におかしきところ。
不実な男を風刺する実用があるので、それの色々な場面で、男に梅が枝に付けて送る歌となり得るだろう。頼まれて代作した歌かもしれないし、屏風絵に書き付けた歌かもしれない。女歌詠みの作である。
歌は、うそぶき(嘯き)である。あらぬ方向に向かって口笛を吹いている。貫之の言う「言の心を心得る」人、俊成の言う「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似た戯れである」と知る人には、嘯きの意味が聞こえる。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)