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帯とけの枕草子〔二百六〕五月ばかりなどに
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百六〕五月ばかりなどに
文の清げな姿
五月の頃に山里を歩く、とっても風情がある。草葉も水も青々と見え、広がっていて、上の方は何でもなく草が生い茂っているところを、長々とただそのまま車が行けば、下の方はどうにもできない水が、深くはないが、人など歩むと後ろにはね上がっている、とってもおもしろい。
右左にある垣根の木の枝が、車の屋形にさし入るのを急いで捕らえて折ろうとする間に、ふと過ぎて外れるのが、とっても残念なことよ。蓬が車に圧しひしがれてしまったのが、車輪が回っているので、車の近くにうちかかっているのも趣がある。
原文
五月ばかりなどに山ざとにありく、いとおかし。くさ葉も水もいとあをく見えわたりたるに、うへはつれなくて、草おひしげりたるを、ながながとたゝざまにいけば、下はえならざりける水の、ふかくはあらねど、人などのあゆむにはしりあがりたる、いとおかし。
ひだりみぎにあるかきにあるもののえだなどの、くるまのやかたなどにさしいるを、いそぎてとらへてをらんとするほどに、ふとすぎてはづれたるこそ、いとくちをしけれ。よもぎのくるまにおしひしがれたりけるが、わのまはりたるに、ちかうゝちかゝりたるもをかし。
心におかしきところ
さ尽きのころに、山ばの麓をあゆむ、とっても趣がある。くさの端も、をみなも、まだ青いと見つづけているのに、上なる君はつれなくて、くさ極まり繁っているのを、ながながと、ただただ逝けば、下は成ることができなかったをみなが、思い・深くないけれど、人があゆむので、端尻り上がっている、とってもおかしい。
身近にある彼木にあるものの枝が、ものの屋形などにさし入るのを、急いで捕らえて折ろうとする間に、ふと過ぎてはずれるのこそ、まったくがっかりなことよ。よもぎくさが、ものにおしひしゃがれたのが、和がめぐりくるので、近しくうち懸かっているのもおかしい。
言の戯れと言の心
「五月ばかりなど…五月(夏)の頃…さみだれのころ…さ突きのころ…さ尽きのころ」「など…五月ばかりという言葉に、字義以外にも幾つかの意味があることを示している」「山…山ば」「里…山ばではない…ひとさと」「青い…熟していない…未だ成らず」「見…覯…媾」「上…上の者…男」「下…下になっている者…女」「車…者…物」「人など…供の者ら…男など…おとこ」「枝…身の枝…おとこ」「やかた…屋形…館…家…女」「折る…女の立場でいうまぐあう…逝る」「よもぎ…草…女」「わ…輪…車輪…和…和合」。
同じような心におかしきところのある歌を聞きましょう。
拾遣和歌集 巻十四 恋四、よみ人しらず
葦ねはふうきは上こそつれなけれ 下はえならず思ふ心を
「葦根這う泥土は、上べこそ何もなさそうだこと、下はそうではなく思う心よ……悪し根、這う憂きは、上の人こそ頼りなさそうなことよ、下は成れずに思う心を)。
「あし…葦…脚…悪し」「ね…根…おとこ」「うき…泥土…憂き…つらい…いやだ」「つれなし…変わりなし…何でもない…頼りどころなし…薄情だ」「を…感動・詠嘆の意を表わす…おとこ」。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。