帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

古今和歌集の歌の秘儀(四)

2013-03-06 00:08:43 | 古典

    

 

            古今和歌集の歌の秘儀(四)



 古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。今の人々が見ているのは和歌の清げな姿である。なぜそうなったのか。先ず江戸の学者たちは、貫之、公任の歌論の「歌の様」を無視して、和歌の解き方を新たに考察しはじめた。歌言葉についても「言の心」を無視して字義を専らとして、唯一正当な意味を決定しょうとした。俊成は歌言葉について「浮言綺語の戯れに似ている」と言い、そこに、歌の趣旨が顕れると言っていることも無視したのである。


 歌言葉の戯れは、枕詞、序詞、掛詞、縁語などと名付けて克服できたように見える。しかし如何なる理性も論理も戯れ変化してきた言葉を牛耳ることはできない。和歌のここまでは序詞、これは掛詞、これとこれは縁語と指摘すれば歌を把握できたと思いたくなるが、歌の「清げな姿」の紋様の発見のようなもので、「深い心」や「心におかしきところ」が解けたのではない。

「心におかしきところ」を蘇えらせることができるのは、意味が秘義となる以前、古今集の歌の文脈の真っただ中にいる人々の歌論であり言語観である。



 さつき待つ花たちばなの秘儀


 古今和歌集 夏歌、題しらず、よみ人しらず。伊勢物語 第六十段にもある歌を聞きましょう。


 さつき待つ花たちばなの香をかげば むかしの人の袖の香ぞする


 江戸の学者、本居宣長の「古今和歌集遠鏡」の訳は「五月ニサク橘ノ花ノニホヒヲカゲバ、マヘカタノナジミノ人ノ袖の香ガサスル」である。

明治の国文学者、金子元臣の「古今和歌集評釈」は「五月を待ちつけて咲く、その花橘の香をかげば、今に忘れられぬ昔馴染みの人の袖の香が、存外するわい」である。

現代の国文学的解釈、新 日本古典文学大系本 古今和歌集では「夏の五月を待って咲く花橘の香りをかぐと、もと知っていた人の袖の香りがする思いだ」とある。解釈はおおむね同じである。


 この歌、「伊勢物語」の文脈にあっては、上のような平穏な歌ではありえない。一人の女がこの歌によって尼になったというのである。


 伊勢物語 第六十段での歌を聞き直そう。


 むかし、男が居た。宮仕えが忙しく、心も真面目ではなかった頃、家の主婦が、「まめにおもはむ(貴女を誠実に思うよ)」と言う人について地方の国へ行ったのだった。この(妻を寝とられた)男、宇佐の使い(勅使)となって行った時に、或る国の祇承の官人(勅使の接待もその役目)の妻となっていると聞いて、「をんなあるじにかわらけとらせよ、さらずはのまじ(女主人に酒の酌をさせろ、でないと、飲まない・おまえの言う事聞かない、ぞ)」と言ったので(脅したので、元の妻・女主人が)、酒杯をとって差しだしたときに、男、肴であった橘をとって、

さつき待つ花たちばなの香をかげば むかしの人の袖の香ぞする

(五月待つ花橘の香をかげば、むかしの女人の袖の香がするぞ……さ突き待つ、先、立ち端の香をかげば、むかしの男の身の端の香がだ、するぞ)。

といひけるにぞ、思ひいでて、あまになりて、山にいりてぞありける(と言ったので、女は・思いだして、尼になって山に入って居るということだ)。


 言の戯れと言の心

「さつき…五月…さ突き」「さ…美称…接頭語」「はな…花…端…先端…身の端…おとこ」「たちばな…橘…木の花…立花…男木」「ひと…人…女…男」「そで…衣の袖…端…身の端」。

 

歌と物語をこのように聞けば、先日、述べたように、清少納言や紫式部や同時代のおとなの女たちの伊勢物語読後感に合致する。

物語の主人公(業平・作者)は、女を恨んで侮辱するというのが清少納言の見方である。枕草子(第七十八)はそのように読めた。
 主人公の心は最低だ、しかしこれが人の心である。業平の名(名声、評判、汝、その身の端)をくさして、この世から消してしまうことはできないでしょうというのが、紫式部の見解のようだ。源氏物語絵合の巻はそのように読めた。

 

江戸以来の歌や物語の解釈は、合理的で、論理実証的で、正当だと誰もが思っているが、解き明かしたのは、歌や物語のうわべの清げな姿だけである。