帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百五十二〕人のかほに

2011-12-13 00:10:33 | 古典

  


                    帯とけの枕草子
〔二百五十二〕人のかほに

 

 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百五十二〕人のかほに


 文の清げな姿

 人の顔でとりわけ良しと見えるところは、度々見ていても、ああ愛嬌がある、愛でたいと思える。絵などは数多く見れば注目しなくなる。近くに立てた屏風の絵などは、とっても愛でたいけれど、見入ることはない。生きた・人の容姿はおもしろいものである。
 気に入らない顔の・調度の中にも、一つ良い所がじっと見つめられることよ。醜いものも、そう(一つぐらいは好い所がある)だろうと思うのは、侘びしいことよ。


 原文

 人のかほに、とりわきてよしと見ゆる所は、たびごとにみれども、あなおかし、めづらしとこそおぼゆれ。ゑなど、あまたゝびみればめもたゝずかし。ちかうたてたる屏風のゑなどは、いとめでたけれども、見もいられず。人のかたちはおかしうこそあれ。にくげなるてうどの中にも、ひとつよき所のまもらるゝよ。見にくきもさこそはあらめと思ふこそ、わびしけれ。


 心におかしきところ

 男の彼おで、とりわけて好しと見えるところは、その・度毎に見れども、あゝご立派、愛でたいと思えることよ。身の枝の・絵など、あまた度見れば、目立たないよ、近くに立てた屏風の絵などは、とっても愛でたいけれども、見入ることはない。男のかたちは、おかしなものよ。にくらしそうなものの具の中にあっても、一つの好い所が見出され世話しているよ。われ如き・醜きも、そういうことかと思うと、わびしいことよ。


 言の戯れと言の心

  「人…女…男」「かほ…顔…彼お…おとこ」「見ゆ…見える…思える」「見…覯…媾…まぐあい」「あな…ああ…感嘆詞…穴…女」「ゑ…絵…枝…身の枝…おとこ」「め…目…女」「てうど…調度…日常使う手回りの品、家具類…顔の調度目鼻口など…日ごろ使うものの具…おとこ」「まもらるる…守ってしまっている…世話している」「見にくき…出来が悪い…見苦しい…醜い」「わびし…侘びしい…つらい…やりきれない」。


 わが
容貌は、『枕草子』をよく読めばわかることだけれど、ちぢれ髪である(かつらを着けている)。藤原行成の言うには「首がほっそりと見える(顎がしっかりしているためか)、声が好ましくよく通る。口もとに愛嬌がある」と。自らは「暗い鏡の方が良い、色白ではない(色はあかくろい)、豊満ではなく細身」と思う。これで容姿はおおよそ察しがつくでしょう。

 『枕草子』は、おとなの女たちが共感できる、心におかしと思うことが書いてある。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。