帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百二十九と二百三十)

2012-07-30 00:00:54 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあると
いう。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百二十九と二百三十)


 わが恋はむなしき空にみちぬらし 思ひやれども行く方もなし
                                  
(二百二十九)

(わが恋は、虚空にみちて、むなしく終わったらしい、思いを届けるにも、行く方も方法も無い……わが乞いは、虚しき空間に満ちたらしい、思い晴らすにも、ものは行く方知れず形も無し)。


 言の戯れと言の心

 「わが恋…わが乞い…わが乞い求め」「むなしき空…虚空…虚しい空間…むなしきをんな」「空…天…女」「間…女」「みちぬ…満ちてしまった…満ちて消えた…空虚にものは満たない」「思ひやる…思いを遣る…思いをはせる…思いを晴らす」「かた…方…お方…方向…方法…形…もののかたち…堅…ものの堅さ」。


 古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。

 
 歌の清げな姿は、恋いの終わりのむなしさ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、乞い求めるものの、もの虚しいありさま。


 

 二つなきものと思ひしを水底に 山の端ならで出づる月かな
                                  
(二百三十)

 (二つは無いものと、思っていたけれど、池の水底に、山の端ではなくて、出る月があることよ……ふた度はないものと、思っていたけれど、逝けのをみなのそこに、山ばの端でなく、出立する、月人おとこよ)。


 言の戯れと言の心

 「二つ…二個…二回…二度」「を…感嘆、感動を表す…おとこ」「みなそこ…水底…池の月が映っているところ…をみなの底…をみなの其処」「水…女」「山の端…山の稜線…山ばの端…盛り上がっていた事の果て」「いづる…(月などが)出る…(月人壮士が)出立する」「月…月人壮士(万葉集の表記)…つき人をとこ…ささらえをとこ(万葉集以前はこのように呼ばれていたと万葉集に注記がある、月の言の心は、をとこ、と心得るべし)」「かな…だなあ…感動の意を表す」


 古今和歌集 雑歌上に、「池に月の見えけるをよめる」とある。

 
 歌の清げな姿は、池の水に映る月の風情。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、はかない一過性の尽き人おとこ、逝けの底に沈んでいるのを、いで立つのかな、というところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。