帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百七十四〕常に文をこする人の

2012-01-10 00:13:27 | 古典

  



                                           帯とけの枕草子〔二百七十四〕常に文をこする人の



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百七十四〕つねにふみをこする人の


 文の清げな姿

 常に文をよこす男が、「何なのだ!? 言うかいもない(問答無用だ)、今はこれまで!」と言って、次の日、音沙汰ないので、それでもと、戸を・開けても差し出る文の見えないのは、寂しいことよと思って、それにしてもはっきりした心だことと言って、その日は・暮らした。

 次の日、雨のひどく降る昼まで、音沙汰ないので、むやみに思いが絶えたことよなどと言って、端の方に座って、拗ねて・いる夕暮れに、傘さしている者の持ってきた文を、常よりも素早く開けて見れば、「水増す雨の(・ために行けない)」とある。とっても多く詠み出した歌々よりも、興味深くおもしろい。


 原文

 つねにふみをこする人の、なにかはいふにもかひなしいまは、といひて、又の日をともせねば、さすがに、あけたてばさしいづるふみの見えぬこそ、さうざうしけれと思て、さてもきはきはしかりける心かな、といひてくらしつ。

 又の日、あめのいたくふるひるまで、をともせねば、むげに思たえにけり、などいひて、はしのかたにゐたるゆふぐれに、かさゝしたるものゝ、もてきたるふみを、つねよりもとくあけてみれが、水ますあめの、とある。いとおほくよみいだしつるうたどもよりもおかし。


 心におかしきところ

 常に、ふみ(夫身)をこする男が、「何なのだよう、言ってもききわけもない、いまはもうだめだったら)」と言って、次の日も音さたがないので、それでもやはり、(戸を)開けたけれど、さし出る夫身も(文も)見えないのは寂しいことよと思って、「それにしても、はっきりした心だこと」と言って、その日は暮れた。

  次の日、雨がひどく降っている。昼まで音さたないので、「やたら、思い火を断ってしまったことよ)」などと言って、端の方にすねて居る夕暮れに、傘さした者の持って来た文を、いつもより素早く開けて見れば、ただ、「水ますあめの(をみな増す、おとこ涙雨が、そでのみ濡れて)」とある。数多く詠みだした歌よりも、おかしい。


 言の戯れと言の心

  「ふみ…文…夫身…おとこ」「をこする…寄こす…お擦る」「いま…今…井間…女」「あめ…雨…涙雨…おとこ雨」「思…思ひ…思い火」「水…川…女」。

 
 
 伊勢物語〔百七〕にある在原業平の歌を聞きましょう。

 つれづれのながめにまさる涙河 そでのみひちてあふよしもなし

 (つれづれの長雨に増さる涙川、渡って行くにも袖のみ濡れて、逢うてだてもない……心満たされずに、長い淫雨に勝る汝身だかは、身の端のみ濡れて、合う好しもなし)。
 
 「つれづれ…心満たされずどうしょうもない感じ」「ながめ…長雨…淫雨…みだらなおとこ雨」「まさる…増さる…水嵩増す…勝る…うわまわる」「なみだ…涙…汝身だ」「河…川…言の心は女…かは…疑問や反語を表わす」「そで…袖…端…身の端」「あふ…逢う…合う…和合する」「よし…由…手段方法…好し」。

 
この歌は、若くて未だ文も歌も一人前ではない若者(若き藤原敏行)の悩みごとを、在原業平が成り代わって詠んでやった歌。若者は我が意を得たのか、この歌を愛で惑うて、巻物にして文箱に入れてあるという。
 それほど上出来の歌、上品ではないけれど、言葉は絶妙で有り余る情がある。
 和歌を、伊勢物語を、上のように読める大人のみ、枕草子の文の「心におかしきところ」がわかる。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。